「パキスタン紀行2014春」#32 20140516 モヘンジョダロへ

朝8時出発というので、15分くらい前から受付で待っていた。
程なく、ポリスのオジサンがやって来る。今日は宜しくお願いします。
 
出発前に段取りの確認。
モヘンジョダロに泊まるところがあれば、私を置いてゆく。
無ければ、見学した後連れて帰る。

500ルピーと言われる。ちょっと高いと思ったが、
タクシーなら1000、バスでも400で一緒くらい。
今さら帰って貰うわけにも行かないし、
妥当なら。それはそれで。
 
ガソリンスタンドで500払う。
長距離のときは毎度同じシステムだ。
田園風景を快調に抜けて、40分くらいで着いた。

入場料は300。4日前に日本人が入場したのが最後らしい。
「歩き方」にあるとおり、宿は併設されている。
ただ、値段は随分と違う、エアコン無しで1500。
エアコンありは2500という(あれだけ停電してたら無意味と思うが)。

こういうところでコスパを論じても意味無いが、需要が無いからどうしても高い。
最後の宿泊者は一ヶ月以上前のロシア人。
 
 
荷物を置いて、見学スタート。涼しいウチに遠くの方から見ておこう。
 
ガイドのオジサンが付いてきてくれる。
お金無いけど、というと気にするなと。
 
地面の土が柔らかい。
モンスーンの時は雨量多いという。
遺跡の表面が白く泥で塗ってあるのは、雨の侵食を防ぐためだという。
 
HR地区(ネーミングは基本発掘者の名前)から始める。
「歩き方」によるとやや庶民寄りの住居地域らしい。

溝の意味。いろいろ。
最初は玄関の扉の軸用の溝の解説。
井戸(上水)、ダストシュート、トイレ、下水完備で、
4LDKくらいの住居だったらしい。庶民というけど、いい生活じゃないの。
 
それから反対側のVS地区というところ。似たり寄ったりかな。
墓地も一緒にあったらしい。
キチンと設計された都市だということは分る。
5千年前というけれど、江戸の街とそんなにイメージ変わらない。
 
 
さらにDK地区というところに移動。
こちらはもうちょっと身分の高い人用の地域らしい。
ちょっと高台でヒルズな感じ。
 
壁の高さや厚さがちょっと立派か。井戸も豪華か。
HR地区から続く目貫通りがあったり、ホールがあったり、浴場らしきとこも。

未着手のところも多く、
都市の全容はまだよく分からない。
レンガ塗装の工房らしきとこもあったんだけど、
どういう社会構造なのかは、それだけじゃ分かんない。
 
例えば、修学旅行で、
平城京といえば、どんな都市設計で、なんとか門があって。
どんな社会構造で、なんとか氏とか居て、
農民は税金を納め、疫病退散を祈願して大仏作ったりとか、

遠足で登呂遺跡も行ったけど、
稲作中心にどういう集落で、どういう生活で、
穀物とかどんぐりとか食べてたらしいとは分る。
 
インダス文明はハイレベルな都市。ということしか分からん。
 
予算とって、全容解明の発掘すればいいのにと思ってしまう。
以前それどころじゃ無かったのだから、今は尚更それどこじゃないだろうけど。
 
教科書に載ってる遺跡がこの状態ということに、
みんなもうちょっと衝撃受けてもいいと思う。
 
かつてバガンを訪れたとき、
こんなに凄い遺跡なんだから、
もっと保存や修復を中心に据えて、説明や表示頑張って、
世界遺産登録にも成功して、もっと観光客、もっと呼べるのに。
成金趣味は経済音痴だなぁって思ってた。
 
しかし、ここは、
世界史の教科書に載るレベルで、数日に一度まばらな入場者。
「昔は、沢山の日本人が団体で来て」と言ってたアリさんの言葉を思い出す。
 
平和でなければねぇ、観光は。難しい産業だとつくづく思う。
 
 
昼になって、暑いので、一旦戻る。

ATMとかPTDCと書いてある棟を確認すると。
Pakistan Postというオフィスは活きていたが、他は閉鎖されてる様子。
Pakistan Postって新聞社かな。(郵便局らしい。)

宿へ。
お、電気が来ている。シャワーを浴びる。
一旦仮眠して、2時ごろ食事。カレーは美味し。

お兄さんが食堂にやってくる。絵葉書とか本とか置物とか持って。
「歩き方」の写真、土産売りの子供を自分だという。
土産は持って帰れないし、いいよ。
興味なさ気にしてると、ランチ代500ルピーという。

土産物買わなかった腹いせな気もするけど、
うーん。
この遺跡に関わる人減れば、より傷むだろうなぁ。とチラっと片隅に浮かぶ。
かといって、
荷物増えることは、1gでも避けたいから土産買うのは無理だし。
何より、避けるすべがない。
もう、食事インクルードか最初に確認するだろ普通。オレって。
で結局、素直に払って、食器下げて貰う。

問題はそろそろ両替せんとイカンことなんだが。。
ま、それはまた別のお話。
 
 
一日でも十分だったと思うけど、
昼間は部屋で休憩して、朝夕中心に見学できるなら良いかと思う。
 
 
まだ暑いけど、時間あるので、博物館見学300ルピー。
うーん。想像したよりも、しょぼめ。
装飾品などの出土品はある。年代別に、土器から銅器はあった。
けど、それだけじゃ。
工具とか輸送手段とか、掘れば出てくんじゃないのかなぁ。
壁に街の様子のイメージ図が描かれているけど、その証拠がまるでない。
もっといろんな出土品無いのか。
 
 
午後3時ではまだ早い。4時頃、陽が傾いたこと確認して出発。
 
ストゥーパの脇を抜ける。L地区と砦だったらしいところ伝って。
フロンティアな方に向かう。発掘されたらしい跡は若干あり。
区画は心なしか狭い気がする。
更に進むと、未着手だったり、朽ち果ててたり、
それはそれで趣深い意味もあるのだが、
この都市の全容はどんなだったんだろう。 
 
HR地区から更に、フロンティアな方を更に進むと、
もうインダス川が見える。干上がってはいるが。
日差しを背に受けて気付いた。
 
インダス川から真西の方角にストゥーパが見える。
都市が川岸まで開けていないのはあり得ない。
そして、仏教寺院に途中で変わったけれども、
当時もあそこが、まつりごとの中心で神殿か何かがあったのだろう。
あそこが江戸城本丸で、外堀、内堀と川まで街が広がっていたはず。
区画をあれだけ四角に区切るのだから、
川から四角く西に向かって街を設計したのではないか。
外堀、内堀に該当する城壁らしきものあるはず。
そして身分によって、居住地域が分かれている。 
 
あ、「歩き方」には簡単に農民なんて書いてあるけど、
5千年前の農業ってどんな?
弥生時代より大分昔だ。
博物館でも農具の類は観てない。土器だけだ。
土器やレンガを焼く職人は居ただろう。
職人の居住地区があるのは分るが、農民って。
 
ストゥーパより更に西側や博物館のある北側の地域は当時、
どうなってたのだろう、平らだから、荘園とかあったのだろうか。
 
 
そんなこと考えながら歩いてると、そろそろヤバイか。
日のある内に帰らねば。
熱くても危険だが、闇でもダメだ。
 
 
再びHR地区に出て、目貫通りを歩く。
この通りはほぼ川に並行。これが丸の内の堀じゃないか。

川から本丸までの距離で東西南北正方形で街を囲み。
一辺は川に接岸、体面の辺の中心に本丸。
正方形は川に並行に何重かに仕切られてる。
ブロックごとに地域の性質が違う。
 
当時は森の中で、道も限定的、
インダス河も常時水をたたえていたはず。
 
河から入城して、真っ直ぐ本丸に向かうのが、本来の歩き方な気がする。
今は裏手からのルートか。
 
そんなこと考えながらDK地区まで。そこでスタッフに声かけられる。
怒られた。
 
アッチは危険だ。熱射病でやられちゃうぞ。
そう思って、夕方からアタックしたんだけど、、
一緒に戻る、今日はもうこれで終わりだと言う。
地元の観光客も帰る頃だ、一緒に写真を撮る。
ああ、もう7時なのか。日の入りは8時くらいなんだよな。
 
砂まみれまま部屋に戻り、シャワーを浴びる。
お湯が出るのか、水が温まっただけか分かんないけど、お湯だ。
電気はまだ復活してない。
しばし外の庭で、電気の復活を待つ。
 
暗くなって、電気復活したので、部屋で原稿書き。
夕食のお誘いあるも、断ってしまった。また変な値段請求されても嫌だし。
それに、昼完食したのが、重くて。
大盛りで来るライスをいつも一生懸命食べてしまう。
そうすると、その日はお腹が空かない。
 
 
明日は、朝早く起きて本丸周辺を探査。
神殿って普通は東向きのハズだが、方角を気にして歩こう。
 
ホントは一日で十分なモヘンジョダロだろだが、
歩ける時間帯が限られてること思えば、二日いるかな。
 
そろそろ眠いや、
どうやって帰るか、お金足りてるか、
それは明日考えよう。

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