捏造の差別に感動する側でいいの?か問われる映画「砂の器」。日本映画末期と橋本忍の終焉「鬼畜」は好きなのに。松本清張リスペクト「短編小説のレシピ」「岡嶋二人盛衰記」「或る「小倉日記」伝」


ずっと避けてきた映画↑なのですが、名作と言われ、
映画館で観る折角のチャンスですからね。
 
橋本忍以外ぼほ同じ座組の「鬼畜」↓は好きだし。。

参議院選投票の次いでに映画館まで足を運ぶ。
 
 
 
避けてきて正解でした。
如何に音楽と映像が素晴らしくても、
感動させようと、仕掛ける技に掛かって上げられない。
”日本の失われ行く原風景”をスクリーンで鑑賞する満足は、味わっているのですが、
”その手は桑名の焼き蛤”的な、泣かせの隙だらけなベタ演出に、
心離れてしまう。
 
例えるなら、
うる星やつら」は無理だなぁ、「人魚の森」↓は好きなんだけど。

打率10割の漫画家とは対照的に、 
 
この後、稀代の脚本家は「幻の湖」↓で伝説になるのか、、 

  
名声なんて、”Sand Castle”↓だと、別れを惜しみました。

さよなら黄金期。
カンフル剤に手を出すと、行く末は知れる。   
 
  
まずは褒めます。(順序逆にすると、取って付けたようになるし)
さんざんコスられている内容なので、
これでも極力手短に。映像、音楽、演技。
(ホメはオジサン達の書籍かyoutube探せば有るはず)
  
 
 ・日本海側の美しい”日本の原風景”
  刑事の捜査、親子のお遍路の両方。風景をスクリーンで堪能。
  前編は暑いとはいえスムーズ。後編は過酷でドンヨリ天気に荒海の険しさ。
  のちの崖ブームの原型で、サスペンスの定番もここから。
  グッとクリフってやつです。
  ミステリードラマの全国ロケーションは、必須と成りましたか。
  旅とグルメは、とりあえず絵力で保ちますものね。  
  
  地理的な事で因めば、
   出雲東北が同じ訛というのは、
   大和に敗北した民族の共通ということでしょうか。 
  後の作品での研究の披露を予感させます。
  
  更に因めば、
   ”裏日本”は差別語で、千葉県は太平洋側。出張する元知事がコントラスト。
   本作は、山脈を挟んで本州の地理的な構造的格差を描いている。
   他にも差別構造は描かれている。と指摘する評論も有ります。
  しかし、それを言うなら、
   ハンセン病問題(1. で後述)の扱いが雑過ぎませんか?
   自分のイデオロギー乗せる前にヤルことあると思うよ。
   この映画じゃ、お涙頂戴の道具だよ”差別”は。 
  と、退けたい。
 
 
 ・音楽は素晴らしい
  丁度、JASRACの仕事で忙しい時期で、クラシックでなく、
  ジャズピアニスト作曲のため、ちょと通俗的なエモさがベタかもしれまんが、
  そこは、いろんなバージョン↓で補ってくださいませ。(やっぱ崖)
  
   
 
 ・泣かせの演技
  刑事役は丹波哲郎のハマリ役。
   涙ながらに捜査会議で自説を展開する姿に、観る者は引き込まれます。
 
  加藤剛は、去来する葛藤を演奏中無言で、観客に伝えねばなりません。
   難しい役どころ流石です。
 
  加藤嘉はこれぞオハコ。虐げられ、涙ながらの拒絶。
   交互の映像とエモい音楽が相まって、客の感情にダイレクトに訴えます。
 
 
でも、これなら、
鬼畜」の方がスクリーンで観たいな。
本作、原作から謎解きが破綻してる、と皆に指摘され
私も気になる粗さは、”順風満ポ”とか、多数有りますが、
それは今更。
譲歩しても、感動出来ない理由が他に有ります。
で、語りたいことは、細かく項目に分類してしまいました。
 
1.ハンセン病問題と本作
 1.1.時系列整理(ハンセン病)
 1.2.お遍路の描写について
 1.3.昭和40年代後半のリアル
 1.4.ハンセン病は宿命か
2.映画以外は? 
 2.1.精神病や加害者にリメイクしても逃れぬ宿命 
 2.2.原作はトンデモで回避
3.心が離れる訳
 3.1.ハリウッドのような演出
 3.2.時代に応えた作劇
 3.3.せめてマキャベリストに
4.日本映画の黄金期終焉のとき
 4.1.時系列整理(松竹映画と橋本忍) 
 4.2.山崎努の「八つ墓村」は凄いけど
 4.3.「鬼畜」との対称性
5.松本清張リスペクト
 5.1.動機こそ人間ドラマ(why done itに非ず)
 5.2.”映画館”という名シーン   
 5.3.本物の感動の芥川賞 
 
 
鑑賞直後は、
こうして日本映画は終わっていった。と感慨が残りました。
同時に、
(読んでないけど)原作の問題点も浮き彫りに。
長期連載はどうしてもこうなりガチで、それを思えば、
上手な改変。脚本の技量ですけれど、
松本清張の優れた代表作は他を挙げたい。本作を名作というのはちょっと。。
  
   
 
1.ハンセン病問題と本作
 歴史ファンなら大谷吉継と石田三成の逸話を、思い出したりするところですが、
 私には、他にも思い出すこと有ました。あれは確か、最近のニュース

1 2024(令和6年)7月3日、最高裁判所大法廷は、旧優生保護法により強制不妊手術を受けた被害者に対して国に損害を賠償するよう命じる判決を言い渡した。
2 1948(昭和23)年に制定された旧優生保護法は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止することを目的として、優生手術(不妊手術)について規定をし、遺伝性疾患、ハンセン病、精神障がいがある人等に対し、本人の同意がなくとも、審査によって強制的に優生手術等を実施することができるなどと規定していた。
  このため、旧優生保護法が1996(平成8)年に母体保護法へと改正されるまでの48年の間に、同法のもとで、障がいがあることを理由として不妊手術約2万5000件が強制され、障がいのある多くの者が子を産み育てるか否かを決定する自由が奪われ、人としての尊厳が傷つけられた。

 明治以降から現在までを辿ると、
  らい予防法と隔離政策(感染症対策)が実施される、
  優生保護法との関連(遺伝の問題と思われた)付けられた。
  治療法確立後も偏見は依然と有り、
  未解決な問題もなお残る。
 自分も身内も健康なら、無関係ですが、
 遠い昔のフィクションとして感動で処理するのは、流石にキツイ。
  
 お涙頂戴に乗れなかった詳細も順を追って。
 1.1.時系列整理(ハンセン病)
  1907年(明治40) 「癩予防に関する件」制定。放浪患者(=放浪らい)を隔離。
  1931年(昭和06) 「癩予防法」制定。
            すべてのハンセン病患者を療養所に隔離できる。
            「無らい県運動」=「強制隔離によるハンセン病絶滅政策」
  1943年(昭和18) 治療薬プロミン開発
  1945年(昭和20) 大阪大空襲
  1945年(昭和20) 敗戦
  1948年(昭和23) 「優生保護法」制定 
            遺伝性疾患、ハンセン病、精神障害がある人等に対して、
            同意なく強制的に不妊手術が可能。
  1949年(昭和24) 日本でもプロミン使用開始。治る病気に。
  1953年(昭和28) 「らい予防法」制定。「強制隔離」「懲戒検束権」の継続。
            患者の労働禁止、療養所入所者の外出禁止。 
  1960年(昭和35) 小説「砂の器」連載開始
  1974年(昭和49) 映画「砂の器」公開
  1981年(昭和56) WHOが効果的で再発率が低い治療法として、
            多剤併用療法(MDT)推奨。
  1996年(平成08) 「らい予防法」廃止
  1996年(平成08) 「優生保護法」廃止
  2001年(平成13) 「らい予防法」違憲国家賠償請求原告勝訴の判決。
           「ハンセン病療養所入所者等に対する
            補償金の支給等に関する法律」成立。
           和解に関する基本合意書締結。   
  2024年(令和06) 旧優生保護法国賠訴訟の支払いを命じた判決。 
   
 
 1.2.お遍路の描写について
  お遍路は原作に記述無く、映画独自の改変です。
  
  感染症の患者が法律も破り、全国放浪の旅を続けること、
   肯定出来ますか?
  答えがYesの社会なら、コロナ禍でマスク警察とか自警しないはず。
  現代の感覚だと、加藤嘉の被害者ズラは身勝手過ぎませんか。
  
  劇中、
  「無らい県運動」の立て札が映り、
  昭和6年以降の戦前に、親子は全国お遍路していた。と断定出来ます。
   緒形拳が、隔離措置を取るのは当然の行為で、 
   警察官が追い払うだけで、隔離の措置を取らないのは行政側の違反。
  足蹴にした警察官の行為が、エビデンス無しの捏造なら、
  脚本家が、差別をお涙頂戴の道具に利用しただけ、と断定します。
 
  本来は、  
  加藤嘉は発病を申告し、(離島などの)療養所行きを受け入れるよりなく、
  親子別れにはなりますが、お遍路中の ”可哀想な迫害” は成立し得ない。
  これで差別を描いたとか、笑止千万。
   
  
 1.3.昭和40年代後半のリアル
  個人的な感覚では、もうそんな時代ではないと思うのですが、
   ハンセン病が遺伝の問題とされるかどうか、
   患者の子供に対し、戦前のような偏見と差別が続くのか、
  ”感動した!” と言う人達からは、
  差別の体験についての言及は見かけません。
   リアリティ無いから、客は感動出来たのではないか?
  と疑問が湧きます。
 
  更に、
  療養所は、TVも無く、新聞も読めないのでしょうか、
  映画冒頭で、
  加藤剛はサイン求められ、新聞に写真が載る有名人。
   加藤嘉が有名人の顔を、
   丹波哲郎が差し出す写真で、
   初めて認識するというのは、
  昭和40年代後半では、ちょっと無理では?
  療養所は刑務所じゃないと想像します。
  まあ、
  隔離だからと譲歩出来ても、
  緒形拳は普通に生活してる。TVも新聞も有るんだよ。  
  
 
 1.4.ハンセン病は宿命か
  劇中、
   昭和40年代後半、加藤剛は島田洋子に堕胎を強要することから、
   主人公は、遺伝を意識していると知れます。
  ”宿命” と作り手は断言してますから。
  偏見を助長してると言われても仕方ないかな。
  遺伝関係あるんすか?
  事実と異なる偏見を、感動の為、フィクションで捏造するのは罪深い。
  テロップの要求受け入れりゃ済む話とは思えない。
  
 ハンセン病に関わる複数の問題から、苦しみを受ける方は、
 戦後高度成長期にも、現実に、いらっしゃった。
 しかし本作は、
 客を泣かせる為に利用しただけ。実態を伝えようとしたわけではない。
 

2.映画以外は?
 上記の問題に、原作小説やリメイクTVドラマはどう対処したのでしょう。
 
 2.1.精神病や加害者にリメイクしても逃れぬ宿命 
  本作はTVドラマとして、何度もリメイクされたそうです。
  リメイクに際して、ハンセン病→精神病→犯罪者 と変更されたそうです。
  精神病にしたら、それはそれで ”差別や偏見を助長する” と文句出ませんか? 
  それで、犯罪者の家族が社会的制裁を受けるのは、リアリティありと?
  確かに、東野圭吾「手紙」のようなことは有るでしょうけど、
  それ ”宿命” ですか。
  犯罪犯したなら、父親は自首して罪を償えよ。で息子は面会に行けよ。
  話はそれからだろ。  
 
  ”宿命” にするには、先天的な要素が必要。リメイクは全て無理ゲー。
  オリジナルから無理ゲー、
  どう足掻いても、構造上、無理ゲーから逃れられない。
  そういうのを宿命って、言うんだよ。
  日和るくらいなら、作らなきゃいいのに。
  
  
 2.2.原作はトンデモで回避
  連載は、見切り発車でスタートはやむ無し。
   連載中、社会問題を個人のドラマに上手に変換出来ないまま、連載が長期化。
   「怪物」的手法で、重いテーマから逃れ、ファンタジーな着地に成功。
  私はそう想像してます。
  映画は、
   ファンタジー要素を排し、
   リアル社会派路線に戻すことに成功しています。
  ですが、
  ”感動” は強引。  
  ヒット作だけど、名作と呼ぶのは抵抗あります。
 
 
3.心が離れる訳
 疑問ばかり浮かび(参照1.)、登場人物に共感するどころではない。
 もう感動は無理ですが、
 作り手に出来る限りの譲歩して、頑張ったんですよ。
 鑑賞中、作り手に反感覚えても、マアマアと自分をなだめました。 
 
 3.1.ハリウッドのような演出
  クライマックスは3場面が、巧みに切り替わります。
   過去のお遍路での酷い仕打ち、
   現在、
    主人公はコンサート中で演奏。
    刑事は会議、逮捕状請求し、発行される。
  そこに、「宿命」という感動的な音楽が流れます。
  ハリウッドがヤりそうな大仰な演出。 
  共感が無い中で、”さあ泣いてください” をやられると、
  めちゃくちゃキツイ。
 
 
 3.2.時代に応えた作劇
  本作の脚本への黒澤明の批判は以下。

映画監督の黒澤明は『砂の器』のシナリオを読み、一蹴した。映画の撮影開始前、黒澤は電話で橋本忍を自宅に呼び出して言った。「君と野村君を引き合わせたのは僕だし、僕にも多少の責任があると思って、『砂の器』の脚本を読んだ」「この本はメチャクチャだ」「シナリオの構成やテニヲハを心得ているお前にしては、最もお前らしくない本だ。冒頭に刑事は、東北へ行って何もしないで帰ってくる。映画ってのは直線距離で走るものだ。無駄なシーンを書いてはいけない。それに愛人が犯人の血の付いたシャツを刻んで、中央線の窓から飛ばす。そんなものはトイレにジャーッと流せばいいじゃないか」と批判した。これは「チェーホフの銃」を念頭に置いた発言だと考えられる。そのうえで、「これを野村君に渡しといてくれ」と、クライマックスの演奏会シーンの絵コンテとカメラ位置を指示した紙を橋本に渡した。結局、橋本は黒澤の言葉を全て無視した。

  大ヒットだから正義と言う人は多いですが、私は少数派です。
  それでも、
  脚本家達が、黒澤明を無視した理由は分かる。
   夏の秋田の風景、
   中央線の窓から紙吹雪、
   画面の切り替えで、風景を観せながら泣かせる。
  観せたい映像を観せたい、物語の完成度より優先する。時代は変わった。 
   
  日本人なら、昭和なら特に、情緒第一主義↓です。
  

「人と人との間にはよく情が通じ、人と自然の間にもよく情が通じます。これが日本人です」――世界的な天才数学者、岡潔。自然と共に生きてきた日本人の中にある「情緒」の重要性を訴え、日本の未来に警鐘を鳴らす作品を数多く発表した。
 ○人として一番大切なことは、他人の情、とりわけ、その悲しみがわかることです

  新しい手法を敏感に取り入れて、その上で、日本人の情緒に訴える。
  そういうことヤッて、高度成長期の時代にピタリとハマった。
  新しい社会が構築されてゆく日本で、
   原風景への郷愁と、
   帰属を失った親子の物語。
   無情な社会の中にも、手を差し伸べる人も居る。
  感動の要素が、時代の要請に応えた。
 
  これが、
  令和に生きてゆく私には、全く刺さらない。
  違和感(参照1.)ばかりが、去来する。
  やりたいことは分かるけど、技に掛かって上げられない。
 
 
 3.3.せめてマキャベリストに 
  加藤剛の葛藤に同調出来るかというと、
   恩人を殺してまで、自分の出生の秘密を守るような極悪人だもの、
   もっと覚悟ガンギマリのブレない人物じゃないと、
  共感は無理。
  せめてマキャベリストに描いてくれたら、魅力的なのに。
  
  逆JoJo、逆アナ雪↓なんだよな、
  
  孤独と引き換えに自由を手に入れる。覚悟の人の、その強さに観客は感動する。 
  本作は、
  現代的な人間讃歌と真逆。
  みんな一緒に、これから豊かになる時代。
 
  
4.日本映画の黄金期終焉のとき
 黒澤明の終わり(参照3.2.)、次いで橋本忍の終わり、
 これで日本映画黄金期は終わり、TVの時代にシフト。
 そんな趨勢の本作は転換点。
 
 4.1.時系列整理(松竹映画と橋本忍) 
  1962年(昭和37)「切腹」「椿三十郎」公開
  1968年(昭和43)TVドラマ「男はつらいよ」開始
  1973年(昭和48)橋本プロダクション設立
  1974年(昭和49)「砂の器」公開
  1976年(昭和51)角川映画「犬神家の一族」公開
  1977年(昭和52)「八甲田山」、「八つ墓村」公開
  1978年(昭和53)「鬼畜」公開
  1982年(昭和57)「幻の湖」公開

  昭和40年代後半に、橋本忍独立。本作大ヒット。
   黒澤明の映画作りは徐々に厳しくなる。
  昭和50年代初頭に、角川映画が登場し、メディアミックス開始。
  橋本忍は、
   「八甲田山」を企画し、松竹にフラれるも大当たり。
   「八つ墓村」は松竹、
     野村芳太郎、橋本忍、芥川也寸志、川又昻 お馴染みの座組で成功。
  「鬼畜」は脚本が井手雅人と、ここだけ座組が違う。
 
  本作以降の橋本忍は、映像的インパクト重視の方向に転換してゆき、
  遂に「幻の湖」を作ってしまう。
  やり過ぎて、行くとこまで行ってしまった。
 
   
 4.2.山崎努の「八つ墓村」は凄いけど
  インパクト重視なのは分かる。
  
  何で、こんなの↑演じられるんだろう。ただただ怖い。
  
  金田一映画の覇権を角川と争いつつ、松竹の、山崎努の「八つ墓村」は大ヒット。
  しかし、角川が勝ち、TVの覇権の時代。
 
 
 4.3.「鬼畜」との対称性
  緒形拳の演技と岩下志麻の怖さ↓が際立つ作品。
  
  松竹で、脚本だけ橋本忍でない座組。

  本作とどちらも、親子別れが題材で、松本清張の原作。
  親子の関係を否定するセリフがクライマックスなのは、意識してると思われ。
 
  子役の思いは、加藤嘉とは本当は真逆なんだけど、世間には伝わらない。
  お涙頂戴しながら、実は”感動”を拒否している。
  どちらとも取れるように、敢えて演出した野村芳太郎が恐ろしい。
  ハンセン病は遠くても、幼児虐待やネグレクトは令和でもリアルで近いよ。
  大衆娯楽のはずなのに、大衆娯楽でないテーマ性が異質。
  
  80年に鹿内フジテレビが始まり、
  84年「ストレンジャー・ザン・パラダイス」公開。
  80年代は、大衆娯楽とアート系が分離してゆき、
  82年「幻の湖」↓が日本映画にトドメを刺したと見ている。 
  
  マボロシ過ぎたかな。
 
 
5.松本清張リスペクト
 初期の作品を中心に褒めてゆきたい。
 
  5.1.動機こそ人間ドラマ(why done itに非ず)
  動機を謎の中心におくミステリーを”why done it”と呼ぶけれど、
  松本清張はミステリーではなく、人間を描きたい↓。
  

犯罪を描き、謎を解くことには充分に興味があるし、そこに小説の楽しみを求めることには充分な魅力を感ずるけれど、下手をすればこの道は子ども騙しになりかねない。お遊びは厭だ。小説は人間を描くものだ。社会を描くものだ。ここから生まれたのが松本清張の推理小説に対する独特な理念であり、それは動機の追究を軸とするものであった。

  本作は、
  長期連載の中で、ちょっと上手くゆかなかった処、
  脚本家が、エモーショナルに改変した。
  作家が成功した作品は他に有り。特に短編もいいよ。 
 
  
 5.2.”映画館”という名シーン   
  松本清張は、これまでとは一線を隠す、停滞の技法も魅せる。
  わざとまどろっこしい。
  地道な捜査をリアルに描き、一歩づつ謎に近づく。
  東北の捜査は無駄足で、黒澤明とは違う作劇のアプローチ↓。  
  

この執拗に描かれた捜査の手筋に参ってしまった。映画館からそこで上映されていた映画へ、予告編へ、ニュースへ、そしてまた映画館へ。謎を追いかける手順というのは、こうでなくてはいけないと、僕たちは思った。
-中略-
「面白いのはトリックそのものではなく、そのトリックが小説に描かれるときの方法と、それが解明される過程にあるのだ」

  映画も、謎が暴かれる過程を(破綻は有るものの)手順を尽くして描いている。
   緒形拳が加藤剛と会う理由。 
   加藤剛が緒形拳を拒む理由。
  ミステリーにとって、松本清張の登場は世界を変えた。
 
 
 5.3.本物の感動の芥川賞 
  本作の原作はトンデモだし、映画は扇情的だけど、
  もっと深い味わいもある。
  太宰と同い年で、遅咲き国民的作家の、
  豪華な選考委員達が認めた芥川賞↓とか、どうでしょう。 
  

その夜あけごろから昏睡状態となり、十時間後に息をひきとった。雪が降ったり、陽がさしたり、鷗外が「冬の夕立」と評した空模様の日であった。
 ふじが、熊本の遠い親戚の家に引取られたのは、耕作の淋しい初七日が過ぎてで、遺骨と風呂敷包みの草稿とが、彼女の大切な荷物だった。
  
 昭和二十六年二月、東京で鷗外の「小倉日記」が発見されたのは周知のとおりである。鷗外の子息が疎開先から持ち帰った反古ばかり入った簞笥を整理していると、この日記が出てきたのだ。田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福か分らない。

 簡潔でハードボイルドなのに、叙情感じる文体。
 綯い交ぜな感情が立ち登る。
  
 本作は、その点、感情が分かり易い。
 大衆娯楽は「国宝」に限らず、そうでなくてはとも思う。
  
 
  

 大ヒット作を絶賛出来ない感情をそのまま話せる人も居ると思う。
 
 
 
2025.07.21現在
 思ったほど負けなかったですね。
 日経CFDを見る限り、参議院選の反応は薄い。
 20MAにサポートされつつ、緩やかに上昇は続く。
 ただし、4万円の壁は厚い。
 凪のまま、夏枯れを迎えそうだなぁ。のんびり付いてゆく積り。

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