正月映画に最適「侍タイムスリッパー」が、プロレスは殺し合いじゃない。「流血の魔術 最強の演技」「なぜ時代劇は滅びるのか」時代劇は伝統芸能じゃなく、エンタメとしてのビジネスモデルの問題

明けましておめでとうございます。
元日、去年話題のインディーズ作品を聖地シネマロサで観てきました。

評判に違わぬ面白さ。
 現代の技術を使わない本物の殺陣と、
 現代人に見えない江戸時代の主役の顔には、脱帽です。
手弁当とは思えない、また手弁当だからこそ、その両方の奇跡の融合でした。
でもまあ、
”真剣”の問題をどう扱うかは、観る側次第だろうなぁ。
感想の前に、その問題を扱いたい。  
 
私のスタンスは、
”まあまあ、そこはオメコボシを!”派(宇多丸かいばしら)に賛成です。
一方で、
 他の時代考証等のアラは指摘するのに、そこはスルーする派や、
 むしろ絶賛する派に対しては、
否定します。有害で悪い。
真っ向問題視する派が最も良心的だとは思います。
少数派ですよね、
youtuberではINGくらいかなぁ。

思い出すのは、殺し合いは見世物じゃない。ということ。
当時は、”ドラゴンストップ”に拍手送る客は稀だったはず。
 
名勝負数え歌を繰り広げたかつての盟友の、
その殺伐としたファイトに心痛めた。ジンと来ます。
 
INGにも、話の展開に混乱があって、区別が出来てない。
プロデューサが危険な撮影に許可出すといっても、2種類あり、
 トム・クルーズが危険を省みず自ら行うのは、四天王ブロレスの大技。
 本身で切り合うのは、リング上で目突き金的を狙う、
ようなもの。目的が違う。 
殺陣は見世物、時代劇は見世物。
果たし合いは見物料を得る目的じゃない。
リアルなアクションを魅せることと、本気で殺し合うのは違う。
 
それに、
フルスイングで真剣同士をぶつけ合ったら、いずれ折れるんじゃね?
宮本武蔵が木刀使ったのは、
 切れ味の鋭さの利点より、折れるリスクを嫌ったから、
と聞いたことがある。真偽は知らん。(”木刀の方が長いから”は嘘らしい。) 
  
 
ああ、その前に、 
「侍タイムスリッパー」の”真剣”の問題とは、
あらすじは公式サイトや上記のyoutuberさん達に任せます。が、
 主人公が、クライマックスの殺陣で、模造刀でなく真剣の使用を提案。
 因縁の相手もそれを快諾し、遂に”真剣勝負の殺陣”が繰り広げられる。
 果たして結末は如何に!!
 
という怒涛のラストなのですが、観客側の反応は、
 ①真っ向から問題視する(映画制作について良心的)。
 ②問題も分かるけど、見逃す(娯楽作だしと言い訳気味)。
 ③純粋に娯楽作として楽しむ、気にしない(観客として正統派と思う)。
 ④スルーするが、もっと些末な事には異を唱える(意図的かは不明)。
 ⑤逆に”真剣”を絶賛(お花畑が過ぎると思う)。
と分類可能です。概ね。 
④、⑤の意見で再生数回すのは、感心しません。
 
 
ストーリーとしても、ブレというか、主張がよれてて、
 
 武士として自分の生き様に決着を着けることと、
 作品のクオリティを上げることは、関係がない。
 果たし合いなら、プライベートでやれよ。

 君も相手も、今は役者で侍じゃない。
 ましてや因縁の相手は倒幕派なのだから、侍を捨てても当然。
 更に時代劇を捨てることと、侍を捨てることは別のことだし、
 アンタに、とやかく言われる筋合いは一つも無い。

 当人同士が了承してても、
 プロデューサがそれで良しとして、大丈夫な訳ねーだろ。
 娯楽作であっても一線を越えてる。
 時代考証よりも、ずっと深刻な問題。

 
個人的には致命的だと思うのは、
 真剣で殺し合ったら、殺陣には成らない。
 殺陣というものは元来フェイク。
 リアルなら間合いに入ったら、一瞬で決着着くとしたもの。
 太刀筋をかわされるようでは、お話にならない実力差。
 逆に決着が着かないなら、猪木アリ状態で、にらみ合いのまま終わる。
これはスマフォやアラビア数字よりも、現実的にもっと大きな矛盾。
 
観てるときは、
 「椿三十郎」オマージュな一瞬の決着で、

(逆アングルでないと、左逆手抜きは分からない。右手は添えるだけ)
 もう一度のタイムスリップで喜劇に着地。
かと予想してたよ。

本編は、三船敏郎じゃなくて、ただの勝新オマージュなのか?
流石に何も連想せず、無邪気に拍手喝采とはいかない。 
たとえ、仮想現実でした。だとしても。
あの切られる一瞬しか、真剣を使う必然性が無いもの。
本気の果たし合いだったら華麗な殺陣にはならない。成立しない。
殺陣はプロレス。受け手が居てこそ。
プロレスと競技は別の価値。競技と殺人技術とも別。
メダリストや軍事教官がリングに上がったとしても、それは”元”。
引退からの転身だよ。
 
  
では、どうすればよかったか?
主人公は、
 昔は藩のため、今は周りの人のため生きる。
 生き方を変えて、楽しませるために剣を振る。
そこは明確に描きたい。
葛藤を乗り越え、身に付けた技術を活かしながら、
殺人からエンタメに転職し、生きてゆく様をメインにしたい。
真剣だからリアルというのは、むしろ逆。
 
その上で、ラストは、
 時代劇への想いはヒロインに語らせたい。主人公のことではないから。
 因縁の相手は、引退を決意して最後の殺陣に臨む。
 主人公は切られ役に徹し、皆の笑顔を見て、今の生き方を肯定する。
そんな大団円にしたかったかな。
 
 
エンタメで大事なことは、作り物なのにリアルに体感させること。
観客を気持ち良く騙すこと。
幻想を観客に信じ込ませた猪木って、想像以上に凄かったんだな。
再確認してしまった。

星の売り買いがないというのは、真剣勝負だから売り買いがない、という意味ではない。プロレスは最初から勝負が決まっているショーだから、もとより裏で売り買いなどする必要はないということである。
-中略-
レスラーにとって、プロレスは年間一〇〇試合以上(私が現役レフェリーの頃は二〇〇試合以上)こなす職業だ。どんなに頑丈で気丈な人間であっても、三日に一度も命がけの真剣勝負などできるはずがない。

切られ役はプロレスでも存在し、
長州を襲撃することになる藤原喜明のような役回り。
本インディーズ作品は、
 切られ役への追悼を謳いながらも、
 メジャー団体のジョバーという職業にフォーカスを当ててない。
 逆に侍が、これはフェイクと飲み込み良いのは説得力があった。

柔道の頂点を極めたルスカにしてみれば、あんなに簡単に投げ技が決まるプロレスを見て、まさか真剣勝負とは思っていなかっただろう。私も柔道をやっていたが、一度投げられたら負けという世界から見たら、プロレスの投げ技は相手の協力なしには決まらないということがわかる。だから、新日本からオファーを受ける前から、プロレスはまったく別物であることをルスカは感じとっていたはずだ。

 しかし惜しい。
 本物を追求することと、
 エンタメとして客を魅了することはイコールでなく、
 別の能力だし、生き様だと描き分けはしていない。
 映画の中でそれは出来ていない。

誰よりもプロレスの魅力をリング上で表現できる天才であり努力家、それがアントニオ猪木だったことは間違いない。その才能は通常のプロレスでも異種格闘技戦でも、同じように発揮された。
-中略-
猪木さんの試合にあって小川の試合にないのはドラマ性だ。藤田だって、セメントでの強さがプロレスで生かしきれていないのは小川と同様だ。ドラマづくりの部分──猪木さんが、その奥義を教えてこそ、初めて彼らが闘魂の遺伝子になる。小川や藤田に限らず、多くのレスラーたちに、それを伝授してもらいたいと、猪木さんには期待しているのだが。

 
私は②の立場で、問題は認めつつも、
③のように純粋に大衆娯楽として楽しむのが正解だと思っている。
自分はそこまで良い観客には成れないが。
単に時代劇愛というより、古き良き日本の喜劇映画への愛。 
そう観るのが正解とも思う。
 
冒頭の長州襲撃で、
 これだけ本物の殺陣は今どき無い。多くはワイヤーやCGに頼りガチ。
 低予算といえども、時代劇として一切の妥協が無い。
 (衣装、美術、メイク、照明、ロケ、etc)  
 ただちょっと、セリフと音楽がベタが過ぎると気になる。
それから現代へ飛んで、
 ドタバタコメディでなく、人情喜劇なのだと分かる。
 敢えての大衆娯楽全振りも、
 「寅さん」や「駅前シリーズ」の空気感の再現。
 プロットは、今流行りの「名探偵津田」同様、1と2の世界の対比。
 というよりも、メタ構造を持ち込んで”時代劇作りの時代劇”を実現。
 「カメ止め」が”映画作りの映画”であったように。二匹目のドジョウ。
やりたいことは理解して、気になる点は既に書いたとおり、
東映の全面協力とはいえ、
よくぞ時代劇という高いハードルを超えたなあ。拍手。
エンドロールを眺め、
 庵野秀明と同じく、こういう人はディテールに拘って妥協がないな。
 更にヒロインがリアル助監督だと知って驚愕。なんという二重構造。
 
東映もコンテンツメーカーに拘らず、
時代劇のインフラ提供というビジネスモデルは無いのかな。
脚本と演出の才能は、総てお抱えは限界があるし、
リスク取れないプロジェクトなら時代劇のインフラだけ提供でも。
アマゾンのAWSのような事業は出来ないのかな。
特に、
海外資本の時代劇はもっと増えると思うのだけど。
配信の時代になって、TV依存しようもない。
生き延びるには、形態が変化して当然なのに。

時代劇が衰退したのは、コスパが悪いのに視聴者層が限定的で、
TVで個人視聴率も導入され、
2011年遂に最後のシリーズ「水戸黄門」が歴史に幕を閉じた。
時代劇が勧善懲悪なのではなく、
そんなパターンしかTVで生き残れなかった。
TV自体が衰退期を迎え、役者の枯渇、脚本の枯渇。
時代劇はいち早く斜陽産業となった。 

テレビにおける時代劇の凋落は一九九六年に始まっている。
この年は、視聴率の調査法が「世帯視聴率」から「個人視聴率」へと移行した年でもあった。これまでは「何世帯が観たか」という調査だったのが精密化され、「どんな世代・性別の人間が観たか」までもが判明するようになったのだ。そして時代劇は「圧倒的に高齢者ばかりが観ている」ということが数字をともなったデータとして示されてしまう。購買力が弱いとされるこの層を、自動車・家電メーカーといった大口スポンサーは敬遠しがちだ。そのため、製作費がかかる上にスポンサーも集まりにくい時代劇のレギュラー枠を維持し続けることに、営業サイドと広告代理店が難色を示すようになったのだ。そうした中で、これまではただ「視聴率を上げろ」だったのが、「クライアントの意向に合った視聴者を獲得する番組にしろ」へと、営業や広告代理店から編成にかかってくるプレッシャーが変わる。そうなると、「時代劇などなくなった方がいい」と編成の指向が変わっていくのは無理もないことだ。
一九九〇年代後半、時代劇の視聴率は多くは十五パーセント前後を稼ぎ出していて、決して低いものではなかった。が、その数字はテレビ局からすれば嬉しくもなんともないものだったのだ。「時代劇は商売にならない」

映画ではあまり触れられていないが、撮影所の危機も迫りくる。

「時代劇は連続ものだと、(出演する俳優は)ずっと京都にいないとダメでしょう。そうすると売れっ子は出てくれません。でも、スペシャルだと拘束時間が少ないから、誰でも使える。キムタク主演の時代劇だってやれるんです」
-中略-
レギュラー枠の中での連続時代劇であれば、トータルで償却すればいいため、例えば「ある回で予算オーバー、日程超過になっても、次の回でそれを挽回すればいい」といった具合に、予算やスケジュールの融通が利く。が、スペシャルでは一回ごとに償却しなければならないため、予算管理はかえって厳しくなる。
-中略-
連続ものなら、毎日のように現場は稼働するが、スペシャルでは、それを撮る数週間意外はスタジオもスタッフも待機状態。生殺し状態でスタッフは、他に短期のバイトで生活費を稼ぐしかない。また、その回数を撮るために、普段は現場が稼働しないのにスタッフやセットを維持し続けなければ成らず、各プロダクションは多大な負担をともなうことになった。

著者は更に、
時代劇がそもそも高齢者向けの娯楽ではないと主張する。
時代設定が限定されるだけであって、
勧善懲悪のヒーローものである必然は無い。

時代劇の舞台となるのは、とにかく逃げ場のない時代だった。だからこそ、個人と社会(組織)、男と女、道徳と個人など、さまざまな相克が命を賭けた激しさを伴う。結果ドラマとして濃密なものになる。
サスペンス、アクション、ドラマ……時代劇は本来、優れたエンターテインメントの表現手段なのだ。

今アニメで異世界ものばかりなのと、時代劇全盛期は同じようなものか、
設定は似たりよったりでも、物語のジャンルは多種多様。
ただいずれ、ウケるバターンも客層も固定化されてしまう。

テレビ時代劇のパターン化を進められていったのには、効率化ともう一つ、大きな理由がある。それは『水戸黄門』という成功例があったことだ。

『水戸黄門』のワンパターンな作り方は高齢視聴者をあえて意識したものだったのだ。この逸見の考えに基づいた作りに他局も追随したということは、この時期にほとんどのテレビ時代劇が高齢の視聴者をメイン層に据えるようになったことを意味する。

日常で出会う時代劇はいずれも高齢者に向けて作られたものである。そうなれば、時代劇に馴染みのなくなった若い世代は時代劇の革新に挑んできた先人の努力など知る由もなく、「時代劇=古臭い」という認識の下、「食わず嫌い」状況だけが広がっていく。

本当は、それから、
京都撮影所固有の問題もあるのだけれど、
映画では、そちらには踏み込んでないので省略。
個人的には、
 これまでのしがらみを捨て、時代劇のインフラ提供者として、
 独自に営業仕掛けていけたら(特に外資)、生き残れるかも。
と夢想してしまう。
東映の有価証券報告書を見る限り、
テレ朝を筆頭に、大株主はTV局が占めている。
「スラムダンク」の成功は大きいみたい。
メリットは活かしつつ、外部の原作に依存しきらない、
単なる下請けとも違う、かと言ってコンテンツメーカに全振りもしない、
そんなビジネスモデルは必要になる。とも思ってしまう。
 
インディーズの才能も活かしつつ、メジャーとして共栄共存。
そんなお花畑を見せてくれるのは、「カメ止め」とはまた違ったお伽噺。
無邪気に喜びたい。

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