地獄は何処にでも、現代の家族の肖像「どうすればよかったか?」「悩みのるつぼ」「親といるとなぜか苦しい」「動じないで生きる」「家系図カッター」

満室をかい潜る一列目の予約を取り、
ようやくテアトル新宿で観てきました。凄いね。

映像作品として世に残すことで、我と我が家族に決着を着ける。
その静かなる気概が胸に迫ります。
家族を記録するために、早い時期に職業を選び、
カメラという距離感と客観性を手に入れて、
殺しも殺されもせず、賢明に生き延びた。
  
大抵の人の感想は3層あるものと思われます。
①映画作品としての感想や評価
②藤野家のケースに観客として問いに答える
③我が事として家族との関係を省みる
 
③に思いを馳せない人とは、人として関わりたくないですが、
むしろ健全に育って結果、世渡り上手かもしれません。
羨ましいだけかもしれません。
 
それはともかく、
順番に整理してゆこう。
 
①映画作品としての感想や評価
 客観性を失わずカメラを回し続ける、藤野監督の精神力に驚嘆しました。
 撮影するという大義を得たとて、常人には出来ない。
 もっと主義主張が出てしまうところ、
 自分の正義に酔わない理性が凄いよ。
 お姉さんが防波堤になり、親の毒から逃れ、距離を置けたとて、
 20年は重い。老いを残酷に映すことで、観客は時の経過を知るけれど、
 結論は冒頭に示されたとおり、壊れて治ることはない。
 無力な自分がただ記録し世に残すことに徹した、凄み。
 一生の内、何本も拝めるものではない作品です。
 
②藤野家のケースに観客として問いに答える
 まずは、弟くんに言いたい。毒親に期待することがそもそも間違い。
 20年はいい加減、気付いてよい年限だ。
 この点は予習どおり。
 
 父親が大嫌い、という悩み 

難しすぎますか?じゃああなただけでも逃げてください。たった三人家族で二人が一人の悪口を言い合ってる家は地獄ですよ。高校生ならもう働けます。
逃げなさい。さもなければ、母を助けなさい。

 良い方向に補助出来ないのであれば、自分だけでも逃げる。
 少なくとも一旦は、毒が効かない安全な処まで逃げよう。
 姉の尊い犠牲もあり、それに成功し、その上で、
 時間を掛けて決着着けたのだから、立派。 
 
 監督の問いに、見物人として答えるなら、
 ”選択は正解でした。諦めましょう。見捨てるが愛。”

 人権侵害や虐待の名目で法的介入し、決着着ける可能性は、
 僅かに有ったかもしれないが、
 実際は、物理的、暴力的に姉を奪還することは、断念したのだから、
 親が弱るまで待って、隙を突いて専門家に診せるしか、あとは選択は無いよ。
 説得しようという志が邪なだけ。
 
ここで参考文献を、
今回改めて、読み直してみた。
 
毒親対策として是非読んでおきたい。
最初に、肝に銘じよう。

親がいつかは気持ちを入れ替えて、自分に関心を示し、愛してくれる──精神的に未熟な親に育てられた子どもによくみられる幻想だ。 
だが残念ながら自分のことしか考えない親は、親の役割を果たしてほしいという子どものヒーリング・ファンタジーをことごとく拒む。 
むしろ自分のヒーリング・ファンタジーで頭がいっぱいで、子どものころに負った傷の埋め合わせを自分の子どもにしてもらいたいと思っている。

とにかく、実家を出るのが先決。

1|距離を置いて観察する 
精神的に自由になる第一歩は、親の精神的な未熟さをさを見極めること。そして、親を喜ばせる役割としての自分を演じるのではなく、自分の心のままに行動することだ。親を変えることはできなくても、自分を守ることはできる。

更に撮影というアイテムを得て、

2|観察できるようになる 
精神的に未熟な人とつき合う際に、感情的に反応せず、おだやかに、分別を持って大局的にみていくことができれば、心が乱されることもないだろう。ゆったりと構え、距離を置いて観察しようという気持ちを持とう。

幻想を抱かず、現実に対処する。

3|「関連」と「関係」を使い分ける 
観察を続ければ、親からの精神的な駆け引きに振り回されたり、期待を押しつけられることなく、彼らとかかわり、つながっていられる。これが「関連」で、関係とはちがう。 
コミュニケーションには、感情のやりとりをして満たされたいという目標を置かない。相手とのかかわりは保ちながら、必要に応じてその関係に対処する。
心を開いて、たがいに思い合い、助け合おうとすれば、ストレスが溜まり、無力感にさいなまれるだろう。彼らに精神的に理解してもらおうなどと思い始めたら、とたんに自分の中でバランスがとれなくなってしまう。

対応の要諦は以下で、弟くんは上出来に見えるよ。

未熟な人に精神的に巻きこまれるのではなく、目標を決めてそのつき合いを管理すること。管理する要件の中には、その人との関係をどれくらい続けるかや、話題も含まれる。相手が話題を変えようとしたり、感情的に攻撃してこようとしても、おだやかにやりすごすこと。あくまでも丁寧に。 
大事なのは、自分の感情も管理すること。そのためにも観察したり、心の中で自分に話しかけたりして、相手の言動に反応しないよう気をつける。

毒親に限らず、期待せず生きる。
心がけたいものです。

何とかして相手を変えよう、何とか変えたい、そう欲する人、自分の思いや理想像を求める気持ちが強い人がいます。
-中略-
①相手を説得する 
②相手を説得しない 
③自分の立場を示す 
④自分の立場を示さない 
多くの方が組み合わせがちなのは、①と③。①と④の人もいるでしょう。相手を説得するのは必須条件と考えられています。 
でも、そうでしょうか。
優しくて正義感に溢れる人に多い傾向ですが、そういう方ほど逆に相手に飲み込まれて酷い目に遭うのが、私たちの住まう混沌世界の現実です。 
ここでお勧めしたいのは、②と③です。 
解剖学者の養老孟司先生は「バカの壁」と表現され、同名の新書はミリオンセラーになりました。人の意識には超えがたい壁があり、いつもそれを超えられると勘違いしてはいけないということです。 
行動面で加えるとすれば、次の二つ。 
・接触の機会を減らす 
・情にほだされない

誰かを救おうとするのは傲慢な考えです。ある意味、求めようとする感情の一つではないでしょうか。
-中略-
変えることと同様に、人が人を救うことも出来ません。
本当の意味での救いとは、その人の魂が持つ「課題」の解消です。
-中略-
しかし本当の救済、つまり魂の課題の解消は、自分自身でなすべきこと。自分にしかできません。

家族や友人に対しても理想を求めていると、必ずトラブルになります。自分の理想を相手に実現させようとする。相手に期待する。この感情が、ときに関係をややこしくし、悪化させます。
-中略-
他者に求めることを減らすと相対感が消えます。相対感とは誰か(何か)と自分(自分たち)を比べる感情ですが、相対感が消えるとストレスが消えます。

 これを、
 斎藤一人さん風に言えば、親が未熟
 父親は研究者として優秀でも、親として無能。
 姉を専門家に診せなかったことを咎められて、”母さんが、、”と、
 部下が勝手にやったと粉飾決済がバレた経営者の如き。
 判で押したような無能。
 札幌ドームの社長に、
  ”遅くとも、日ハムに北広島へ逃げられた段階で、
   暗幕に10億円などと、納税者を追加で苦しめないで、
   売却や期限付き解体など、最小限の損失で抑える方向での、
   経営判断は出来なかったのか?”
 と訊いたとして、想像する。
  ”あの時はそれが最善と信じた。” 
 と答えるだろうよ。諦めましょう。
 能力も無いし、優先順位も違うのだから無理。
 
 で作中、もし追加で質問すること可能なら、
 ”今の結果が最初から分かっていたとしたら、家庭を築かず、
  研究者としての栄達だけを目指す選択肢は無かったのか?”
 子どもの側の都合は気にしなくていい、
 生まれなければ良かったと思ってるかもしれないのだし、 
 遠慮気兼ね無く、正直に答えて欲しい。
 と尋ねてみたい。
 修羅のような結果でも、親の役を演ってみたいというなら、仕方無いと諦めて、
 答えがNoなら、人生に二度目があれば是非そうしてくれと勧める。
 それは訊いてみたい。
 因みに私の場合、
 ”幸せだ” と言っていたので、
 それがたとえ強がりであっても、結構なことだと思った。
 ただ、次があるなら、出来れば辞退して欲しい。

 ま、わたくしごとは、③に回すとして、
  専門家による治療の有効性が不明で、薬が効くか分からない。ことと、
  診療を拒否し軟禁する行為が、人権侵害、虐待、犯罪の疑いがあること、
 この2つは別のこと。
 敢えて混同して、親側をレトリックで擁護するのは、
  世が世なら、”いじめられる方にも問題がある” とか言ってそうな人達。
  今は空気読んでそういうことは言わない。私より処世術には長けている。
 関わりたいとは思わないが、それはお互い様だろう。
 
 閑話休題。
 研究者としての父親のコネを十全に利用すれば、
 現実よりはマシで、親の方が救われる可能性が有った。
 逆に、
 施設で虐待されるなどの懸念は、作中で父親が否定してるとおり。
 問題は、
 ”自分は自分にとってすら最善の判断が出来るかどうか?”
 という問を問う認知能力は既に失っているため、
 地獄を創造する前に、何の手立ても講じられないこと。
 
 ま、母親もね、夫に従いていけないと思えば離婚してる。
 時代とはいえ、あそこまでの献身的な共同作業にはならない。
 叔母(伯母?)の発言からも、想像してしまう。
 名誉を重んじ、親の期待に応えることで、
 それによって承認欲求を満たし脳内麻薬の報酬を得る。
 そんな成功体験を積んで来たのではないか?
 父親は当然として、母親もまた既に中毒。
 幸か不幸か、彼らはご褒美を得る程に優秀だった。とても。
 途中でギブアップして壊れてしまった娘とは、分岐している。
 後者の方が普通で正常とも思ってしまうが、とにかく、
 常人を超えた達成の果に、脳は既にドーパミンで焼き切れている。
 
 報酬系を捨てて、認知能力が向上するような余地は無い。
 ましてや、”説得”でどうなるものでもない。
 偉そうに言う。人はそんな生き物ではない。残念を諦めよう。
 私はむしろ父親に自己投影してしまうのだが、それは③に回そう。
 
 
③我が事として家族との関係を省みる
 家庭に限らず、
 ”このままならいずれ、ここは駄目になる。
  なんとか救いたい。”
 と傲慢に考えたことが、私には何度もあります。
 幸いにも、
 結果は跡形もなく何も残らず、高い授業料を払っただけに終わりました。
 ”いずれ駄目になる”の予想は決して外しません。が、希望は叶いません。
 我ながら見事なものです。パーフェクトゲームとはこのこと。
 逆に結果を得るのは、
  危機感を抱いても、
  我が事に集中し、
  作戦を立て、
  継続的に実行する。
 それを行ったときだけでした。
 働くとは、”はたをラクにすること”。
 向いてないのだからサッサと諦めるべきでした。家庭においても同様。
 もっとアッサリ、スマートに見捨てること出来なかったかな。
 無駄な後悔を悔いてみることがあります。
 
 実は私、 
 自分の期待を一方的に子どもに押し付ける。
 毒親と変わりありません。
 無能なんだから、自分のことに徹すればいいのに。
 そう気づく前にドーパミンで脳が焼き切れてしまった毒親。
 その姿に、今回、我が身を重ねてしまいました。
 ま、それでも、
 息子の代で、中毒の轍が切れそうで良かったね。
 昔私は傲慢にも、
 彼らにしてあげられる親孝行があるとするのならば、たった一つ。
  ”自分の発言には責任を持つものだ”
  ということを、身を以て示すことくらい。
 そう思っていた。が、今は。
 自分の代で終わりに出来ることは終える。くい止める。そう思う。
 
 引き算しないと見えてこない幸せも、この世にはある。
 記録者は成功者だよ。失敗だなんて、とんでもない。
  
 
姉の棺に論文を入れようとする父親の姿。
一生の内、何度も見る機会は無い、おぞましさ。
人は人を救えない。
作り物では醸し出せないリアル。
それを淡々と撮影し記録を続ける。
人間というものを映して妥協が無い。
 
それから敢えて時系列を交換し、
実家を去る弟との別れに、手を振る姉の姿を持ってくる。
長子として自分でくい止めることが出来た、弟は解放した。
姉には、その満足は有ったのだろうか。
死してなお、追いかけてこようとする名誉欲の毒。
あの世では解放されていると思いたい。
 
 
どうしても笑顔になりたくて、また聴いてしまう。

結局ただの観客。願っても無駄。
もとい、

確かなことがあるとするのならば、
君は綺麗だ。

2024.12.29現在
植田発言は効いているよう。
年明けも利上げは無いか。
それでもまだレンジの範囲内とは思っている。

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