終戦80年企画「ジョニーは戦場へ行った」反戦がテーマか? 現実の恐怖は何か? 延命治療vs尊厳死「平穏死できる人、できない人」

折角の8月なので、記念の映画を観ようと探したところ、
手近なのは気乗りぜず、角川の企画を選ぶ。

野火」は原作からして、エリートの観念的な作り話で、お話にならないと却下。
本作も、”実話を基に”とは言い難いが、反戦映画の名作として誉れ高い。
果たして反戦映画と呼んでいいのか? という懸念(後述)もあれど、
折角の機会なので鑑賞。小さいスクリーンを選んでしまった。
  
 
 
凄い映画でした。
世間の評では、本作を”戦争の悲惨さを訴える”と解釈するものが圧倒的で、
うーん。。それはちょっと無理ゲー。
戦後教育よりも、今ここの目の前にある危機を優先すべき。と反発を覚える。
  
ま、そんなことより、
ダルトン・トランボの才能と怨念が、ダダ漏れの傑作。鑑賞できて幸運。
懸念は的中しましたが、それはまた、傑作である理由とウラハラでした。
 
歴然たる才能に、まずは衝撃を受ける。 
それから、テーマを現代日本人の視点で思い巡らす。
多層な顔を魅せる作品で、
御座なりに反戦映画と、一絡げに片付けては勿体ない。

以下の項目に分けて、語りたい。
 1.反戦はお題目半分
 1.1.才能ダダ漏れのアート映画
 1.2.言論弾圧への怨念が爆発
 2.兵役メインの反戦は現代的か
 3.延命治療は日本人なら誰にでも
 
クリエータは才能には抗えない、運命は性格だと、痛感します。 
 
  
1.反戦はお題目半分
本作の反戦性について、(Wikiの引用)
 1939年 第二次大戦勃発。原作発表
 1945年 第二次大戦の激化に伴い原作は発禁処分
 1947年 原作者のダルトン・トランボ赤狩りで投獄、ハリウッド追放
 1953年 ダルトン・トランボが偽名で脚本を執筆した「ローマの休日」公開
 1968年 トンキン湾事件勃発、アメリカのベトナム戦争本格介入。
 1971年 ベトナム戦争敗色濃厚の時期、本作公開。トランボ自身が脚本、監督
 
 通り一遍の論評しか見つけられず、
 私の想像交じりで書きます。
  第一次大戦の米軍に志願する青年を主人公とし、
  原作の段階では、(私は以下と想像)
   兵隊の傷痍の酷さを見せつけ、
   戦争と国家の冷酷さを非難している。
    同時に、
   愛国心を焚き付けられ、第二次大戦へのめり込んでゆく、
   アメリカ国民に対しても批判的。
  
  映画化の段階では、
   ベトナム戦争を背景に、
   徴兵にも批判を広げ、国家に対する怨念もマシマシ。(と鑑賞)
   
  更に現代の視点では、
   尊厳死にテーマが及ぶように見えてしまう。
   それは、監督が意図した結果か否か、分からない。
 
 ここまでは、前提として、
  一般市民が兵役に取られる悲劇を描いた作品、例えば、
  「ディア・ハンター」、「7月4日に生まれて」(未見)などと同じく、
  反戦とは呼べないなぁ。
 という感想と、作品の魅力を述べたい。
  
  
 1.1.才能ダダ漏れのアート映画
  予想の斜め上を行く展開で、作劇がめちゃくちゃ上手い。仰る通り↓。
  
  戦闘シーンが触りだけなのは、
  予算の事情もあったのか?
  否、
  描きたいテーマが戦闘ではないから。(と思われ)
  しかし、
  それでは、地味で動きの無い絵面になってしまう。
  が、
  才能がそれを許さない。
  原作、脚本、監督、三位一体の渾身。
  冴えわたる演出に、役者も撮影も、応える。
 
  モノクロの現実の病室では、
   影を上手に使う。
   人物の情と事務的のコントラストが巧み。
   延命が惨たらしく、恐ろしさが迫る。
  カラーの脳内シーンでは、
   悲劇を感情移入させる過去回想に留まらず、
   アートな表現を挟む。
    反戦のメッセージだけなら、そんなことしなくていいのに、
    才能を隠せない。客を飽きさせない。恐ろしい人。 
    出口の無い無情な悲劇を、抽象度を変えて、客に理解させます。
   
  ただし、
   凄いんだけど、これは反戦という話なのか? 
  という疑問が逆に、よぎります。
  
 
 1.2.言論弾圧への怨念が爆発
  スパゲティかつ、意識を持つ主人公は、
  作品発表のチャンスを潰され、言論の自由を奪われ、投獄され、追放された、
  トランボ自身の投影でもあり。偽名で傑作を書いて、世間に知られず、
  その境遇は、さながらSOSをモールス信号で伝えるジョニーの様。   
  
  第二次大戦中の軍による人体実験の噂は多々あれど、
  そんなことより、国家に対する怨念が強烈。
  声にならない地獄を地獄として描けるのは力量。
  
  これは、凡百には不可能なのだけれども、
   もう、有事平時関係無くないか?
  隠蔽体質の組織なんて、今でも日常茶飯事。
  顧みて、
  健全な組織に所属できるような我が人生でもなく、
  狂った社会の中で、何の術も持たない個人の生き様は、
  普遍なテーマなのでは? と、疑ってしまう。
 
 
2.兵役メインの反戦は現代的か
 ベトナム戦争当時なら、徴兵制について、
 モハメド・アリや「7月4日に生まれて」などの話題に事欠かないけれど、
 現代の”高度な”戦争で、
  素人を戦力になるレベルにまで教育するのはコストが見合わない
 という話題が有り、
 今の日本なら、徴兵制の復活より、核武装を先に論ずべきところ。
 
 逆に、
  一般市民が無差別に犠牲になることや、
  無謀な意思決定の結果、無益な犠牲が増えることの方が、
 日本に馴染み深く、かつ今日的なテーマ。
 だとすると、
 そんな日本映画を配信でいいから視聴すべきか?
 
 ”兵役の悲劇”が、
 今現在の日本人の視点では、反戦にピンと来ない。
 それが尊厳死となると、もはや別のテーマ。
  
 
3.延命治療は日本人なら誰にでも
 延命治療の当事者となるリスクは、今目の前に有る地獄。
  
 実例が本書↑で示される。
  認知症を患う90歳が、モチを喉に詰まらせて倒れる。
  延命治療が希望され、老人は管まみれで3年間生命を維持した。
  家族は悔いなく喜んだそうだが、
 自分がそんな状態で断続的に意識だけが戻ったら、と思うと戦慄する。
 
 呑気に戦争を憂いている場合ではない。今日本で誰にでも起こり得ること。

いま、点滴を中止して家に帰れば、明日には呼吸が少しは改善し、食べられるはずです。長年の“在宅ホスピス”の経験で知っています。しかしその病院では「食べる」のタの字もないようでした。「生きるとは食べること」と言いつづけている私は、たとえそんな状態でも何かしら食べられることを知っています。しかしその病院のベッドでは、「食べる」、「笑う」、「移動する」という人間の基本的な尊厳には、誰も気がつかないように感じました。ご家族はもうあきらめているようでした。
 
“平穏死”を知らない患者が、
“平穏死”を知らない家族に病院に入れられ、
“平穏死”を知らない医師や看護師に囲まれて、
管だらけで最期を迎えようとしている!
それが日本中でまだ起きている、むしろ進化している。

 本作を観ると、一足飛びに、”安楽死の是非”の話にされガチだけど、
 安楽死、尊厳死、平穏死は微妙に違う。らしい。
 延命治療を辞めることと、積極的に死を選択することは別↓。

日本においてつかわれている「尊厳死」と「安楽死」という言葉はまったく違うものです。尊厳死とは自然死、平穏死ですが、安楽死は薬物をつかって意図的に寿命を短くするものです。日本で言う尊厳死は国内法的にはグレーゾーン(ほぼ合法?)ですが、安楽死は殺人罪で訴追され、医師は刑務所に入ります。
 欧米では、日本で言う「安楽死」が認められている国がいくつかあります。これは「医者が薬物を用いて介助する自殺」のことです。これを欧米では「尊厳死」と呼んでいる(もちろん日本では安楽死に相当)ので、話がちょっとややこしくなります。

 延命治療を、
  何処かのタイミングで、
  本人の意思で、
 辞めるのが尊厳死。最初から行わないのが平穏死↓。

日本における尊厳死とは、「本人が直接言うか、リビングウイルを文書で示している人が、2人以上の医師によって不治かつ末期と判断されたときの、延命治療の非開始または中止」という意味です。ですから最初から延命治療をしない平穏死は、尊厳死のひとつの形だと理解してください。

 予め決めておかないと、延命治療の中止は難しい。認定も難しい。
 それどころか、本人の意思を示しても、日本での有効性は不確実↓。

リビングウイルはいまだに法的な有効性は担保されていない。

 
 日本では、
 家族の希望で、
 本人の延命治療拒否の意思が、
 ひっくり返ることもある。
 
呑気に戦争を憂いている場合じゃないと、8月に想った次第。
 
 
 
5人目のビートルズの伝記映画の予告が、本作の前に流れた。

マネジャーの死後、最初にリリースされた曲↑は、
死について、対比的に語っていると思われた。
 
 
 
2025.08.17 現在
 死刑宣告を待つかの如く、月曜日の東京時間の開始を待つ。
 宵の明星と早合点してしまった。
 とは言え、いきなり一斉に売られる可能性も有り、
 東京市場はまだ動かないかもしれないな。

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