キラキラ恋愛映画かと、観る気も無かった。
ふと、坂下雄一郎監督作品と知る。
「ピンカートンに会いにいく」↓を観に行ったきり、
そうそう、時間の経過を描くのが得意だったと、思い出した。
ノーランのようにトリッキーな作風でもなく。
美しくも、残酷にも、時間の経緯を描いていた。
本作もまた、得意技を披露してくれると期待して、水曜の夕方の映画館へ。
男女入れ替わり↓は、数あれど、
”替わりっぱなし”は聞いたことが無い。
恋愛ものにしない、
コメディにもしない。
原作の趣旨に忠実な映画化と聞く↓。
何でKADOKAWAでなく、ハピネットなのかは謎でも、
世間の評判は良く、
坂下監督なら、余計なことはせず、手堅い作りと確信。
キャスティングにも安心していた。
髙橋海人と芳根京子なら、若手と言うより充分実力派。
野菜スープのように、胃の腑に優しいはず。
原作↓も読まず、それ以上の情報も入れずに映画館へ。

《 開演 》
昨今の傾向では、
もっとベタで、説明過剰なくらいが丁度良くウケる。と思ってる。
そんな中、
相変わらず、余計な事はしない坂下雄一郎。
お久しぶりです。
お元気で何より。
勝手に、挨拶してしまいました。
田園風景を美しく切り取った画作りを、スクリーンで眺めながら。
ロケは高崎。
ちょっと昔話を。
たしか、新宿武蔵野館だったかな。。
JCOMに買収され、今は亡き松竹BSの企画で、小規模公開だったよ。
-7年前-
「ピンカートンに会いにいく」
かつて存在した5人組アイドルユニット『ピンカートン』。
ブレイク寸前で解散をしてから20年経ち今やおばさんとなった彼女たちだったが、
リーダーの優子は今でも売れない女優を続けていた。
所属事務所もクビとなり芸能界の崖っぷちに立たされた彼女のもとにピンカートン再結成の話が転がり込んでくる。
一か八か再起を懸けて優子は元メンバーに会いに行くが彼女たちはもうすでに引退し家庭を持ち、
再結成の話にはつれない反応。
そして一番人気だった葵の行方が分からず彼女を捜していくうちに、
20年前、
なぜピンカートンが解散することになったのかが明らかになっていく。
一度は諦めた夢、
もう未練無く、引退後の現在を生きる元メンバー達に、
まだ、芸能界にすがる主人公。
そして、ひとり雰囲気も違う松本若菜。
売れないアイドル家業は大変シビアで、賞味期限も迫る。
松本若菜は一番人気センターの役で、
解散しても、いや脱退しても、ピンの方が活躍する↓かも。
一夜くらいは復活↓したとて、
メンバー達は、それぞれの人生を今は生きている。
女性は特に、子供出来ると優先順位変わるよ。
過去と現在が交差する物語は、ちょっと似てる気がして、
本作を大変懐かしく鑑賞しました。
7年経っても、
何ら変わりなく、安心して観ました。
映像も、音楽も、
今どき珍しく、充分美しく、余計な事しない。
演技も、期待以上の素晴らしさ、
抑制も効いた演出で、ノイズ無く没入出来ます。
ストーリーだけは、若干モヤモヤしました。
前世の15年と、同じ長さの今世を生きた挙げ句に、
それを言っちゃ。。
”生まれて来なければ良かった” って思ってない訳ないじゃない。
そんな二重否定されても、、
助け合った身としては、立つ瀬が無い。
本作では、
女性の人生は肯定ぎみで、男性はつらい。
今風ですけどね、実際はどうでしょう。
ま、
前世を諦めないで、今の人生に否定的なら、
家庭円満で、子供産んだりしない。
結婚した時点で、
このタイムラインを生きますと、宣言したようなもの。
出産はダメ押し。
再び入れ替わったとて、もう昔の延長線上には居ない。
男は、いつまで経っても子供ね。
三十じゃ遅すぎ、
結婚する前に話し合っておけよ。タイムリミットを自分達で決めておけ。
きっちり決断して、その結果、その後の人生を肯定してくれよ。
元アイドルの古いファンのような、
そんな気持ちになってしまった。
高校生向けのキラキラ映画じゃないんだよなぁ。
良作だとは思うのだけど、
マーケティング的には、誰向けなのか?
余計なお世話で、ちょっと不安になったり。
だからKADOKAWAは、自ら映画化しなかったのか、
同じく、原作持ってる「見える子ちゃん」は配給↓するのに。。
と納得したり。
このくらい余白も充分な映画に、
生き残って欲しい。
私の苦手なもので、世界が埋め尽くされないで、と願ったり。
実際は、
大規模の潤いの恩恵で、
小規模も存続可能なビジネスモデルに収斂しそうです。
ファーストクラスのお陰で、エコノミーも飛べる。
本作も、シネコンはTOHOシネマズで観ている。
マレーが拠点のエアアジアの様な、格安航空(LCC)は、
またモデルが違い、
名画座やミニシアターも、そうで在れと連想した。
閑話休題。
以下項目に分けて、もう少し語ります。
ネタバレはガンガンします。今回はストーリー寄りです。
映像、演出、演技は、ただ同意するのみで、語ることなし。
0.原作からして、30歳で’それ’は無いだろ?
1.原作改変部分の意図は?
2.ラストはアレが正解か?
3.小説の映画化は、視点が難しいか?
0.原作からして、30歳で’それ’は無いだろ?
”戻りたく無いわけ無い”と槇原敬之みたいな二重否定の告白して、
泣く髙橋海人は、ぶん殴ってやりたい。
依存しすぎだよ。
既に書きましたが、
本作の問題というより、
たぶん原作の展開に、どうしても納得行かない。
自分では選択出来ない、環境を伴って生きねばならない。
誰でも、人生ってそういうもの。
15才で入れ違えが有ったとて、基本変わんない。
相手の人生を改めて生きるとしても、それはお互い様。
自己決定が出来るのは、常識的には高校受験の進路選択くらいから。
恋人は、親や兄弟とは違って、自分で選んだ相手。
ましてや、伴侶ともなれば、自分の責任。
子供作るかどうかは、もっと意思決定の責任は重い。
そんな選択してる時点でもう、戻る気無いよ。
重大な決定する前に、取り決めしとけよ。
戻りたいなら。相手を契約で縛れ。
お互い様だから、遠慮する必要は無い。
黙っていたら占有権は向こうに移るよ。
一方で、
散々ヤリチンな真似しておいて、
三十にもなって”救われた”とか、
ガキみてえなこと言ってんじゃねぇよ。
そんなヤツに、
自分のお腹痛めて産んだ子供任せられっかよ。
背負ってるものが違うんだよ。
舐めんな。ガキ。
って、成るので、
予め、”決める条件”は決めとかないと。
どの条件なら、戻ることを諦めるのか、
諦めないなら、どの状態を維持し続けるか。
曖昧なまま、ヘラヘラ遠慮して、何もせず、
ヤリチンで心の隙間埋めてたなら、
自業自得で同情の余地は無い。もう三十だろ。
こういう女々しい人物造形にするなら、
男性の性に、精神が適合出来ないままの影響で、実はセックス依存症。
くらいメンヘラに描かないと、言動に整合性感じない。
原作未読で、
どこまで髙橋海人側を綺麗事に描いてるか、断定出来ませんが、
映画版で、意思の在処は、キッチリ踏み込めよ。
あれで30才は幼すぎる。
入れ替わっても、同じ年限生きたことに変わりないのだし。
1.原作改変部分の意図は?
上記の違和感を脱臭するには、特別感が要る。必然性が要る。
30がラストチャンスという意味付けは、映画オリジナルと聞いた。
何で、20でも40でもなく、30なのか?
子供産んでからじゃ、オセーよ。と私は思うが、
原作がそうなら仕方ない。映画も苦心した。
観てるときは、
30の必然性が無いよと、突っ込んでしまった。
原作が30なら仕方無い。モヤモヤは拭えない。
それから、
身体的なことや、性にまつわる事件とか、
要素を削除しているらしい。
純度高く、
他人の人生、それも性別の人生を生きること。
だけを集中して描こうとの、意図を受け取る。
「ひゃくえむ」と同じで、
映画化に当たり、テーマからはみ出して尺使うパートは削った。
その取捨選択は成功したんじゃないかな。
美男美女なのも、そこで不公平感出すと別の話に成ってしまうから。
ただ、ラスト追加するくらいだったら、
髙橋海人をセックス依存症に描いちゃった方が、
説得力は増すと思うよ。
2.ラストはアレが正解か?
あの追加は要らないんじゃないの。
投げっぱなしのまま、ハッピーエンドぽくしても。
30才のラストチャンスで、
芳根京子側が、軟弱な髙橋海人側の意向を汲んだ。
それは分かるのだけど。
その決定に至るプロセスが大事で、
結局は観客に委ねるなら、そっからは蛇足。
この15年を受け入れ覚悟決めたなら、最後それだけで充分。
本気なら、毎年プールに飛び込めよ。そもそも。
天体の運行とか関係無しに。
そんなことより、
さすがに三十とも成れば、
諦めるなら、キッパリ諦めろよ。
諦めないなら、日頃からそれに相応しい言動であれ。
それは覚悟決めて、選ばんとな。
二人の選択の背中を押せるよう、観客への誘導が欲しい。
後より前が大事。
而立の齢、久しぶりにダイブするのは、”儀式”。
葬式や卒業式と一緒で、
これまでの自分と、これからの自分は別と線引きをする。
結果どうあれ受け入れるよ。そう潔い芳根京子側は充分。
髙橋海人側は、
唐突過ぎて、感情移入が出来ない。
健全にヤリチンを楽しんでる描写がどうにも。整合性を欠く。
もう一度だけ夢を見たいという、葛藤を描いておかないと。
それは、まだ諦めきれないと、チャント伝えないと。
観てる側が迷子。
匂わせときたい。
伏線の(サプライズの装置でなく)本来の意味での機能で、誘導しときたい。
改変するべき箇所が違うんじゃないかな。
3.小説の映画化は、視点が難しいか?
原作は小説だから、文章で一人称の告白。
映像は、カメラの視点で、主人公も客観的に映ってしまう。
完全主観ショットも可能だけど、本作はそうじゃない。
更に、芳根京子側が知らない場面も映してしまう。
神の視点。
二人を均等に客観に、映してしまう。
そして、小説の告白のようには、映画で語れない。
説明セリフが延々と続く、特殊な作劇も可能だけど。。
そんな不自然なことは、ヤリたくない。
通常映画は、客観で外側を見せるだけ。
自ずから、ハードボイルド。
日常から離れたイメージを混ぜるのも可能だけど、
そういうことをしたい作品じゃない。
小説の映画化で一工夫必要になる処。
芳根京子側が芳根京子に成長したら、
視点は芳根京子固定で良かったんじゃないかな。
オフィスの髙橋海人を、直接的に描いたのは余計。
視点は縛りたい。
描写は、
会話とチャットの遣り取りのみ。
仕事は順調そうでも、ヤリチンで闇深かそう、と匂わせ、
髙橋海人は無自覚でも、
芳根京子も観客も、ちょっと不安になる。
そういう演出の方が、
ラストチャンスで突然、泣かれても違和感は少ない。
いろいろ有ったんだろうなと、勝手に客は想像すれば済む。
片面からの視点だけで描く様に徹底したかった。
最後の飛び込みを”儀式”として、葛藤に踏ん切りつけるなら、
芳根京子も言う。
”分かったよ、ヤってやんよ、オレも”
結果はどうあれ受け入れると。そこ描きゃ充分で、
ザブンと、エンドロールで構わない。
明確に失敗を描くのは説明過剰。
成功されたら、されたで子供が不憫で、別のモヤモアが生まれる。
どうせ投げっぱなしなら、追加は余計。
余計なことしない監督だけど、
視点の整理は、ちょっと不十分だった。
まとめ
ストーリーと、それに連動して撮り方に関して、
上記のような不満は残りましたが、
それ以外は、ただただ拍手です。
相変わらず映画創っているんだと、握手求めたくなります。
古き友人に、久しぶりに再会しました。
2025.11.21. 15:30現在
20MAと-2σの間でレンジっぽい。
円高にもう少し誘導されそうでもあり、
バンドウォークする可能性を意識する。
ただし、下落が分かってからついて行く。
