今回もタイトルは英訳のまま、カタカナでは意味不明だからと直訳です。
カンヌもポリコレが評価される昨今、
狙い通り、置きに行って賞獲ったのかと懸念し、本作↓避けてました。
まだ掛かっているなら、本当に良作かもしれない。確かに映像は美しい。
と考えを改め、ミニシアターの中央付近予約。118分。
Eより前の席を選ぶべきだった(頭が邪魔、スクリーン小)と若干後悔。
ガラガラかと思いきや、6割程度埋まってました。
社会派でなく、オシャレなアート系と楽しむのが善き。
香港のウォン・カーウァイのオシャレを、ムンバイの新進気鋭も試みんとてするなり。
と意図を汲むかどうかで、評価は分断されるでしょうね。
背景のインド事情は分からなくても、ほぼ問題無し。
とはいえ、
ストーリーで引っ張るタイプでは無いので、
予めネタバレ許容し、素直にWIKI読んで知識入れて、
鑑賞中の迷子のリスクを回避しておくこと、お勧めします。
(中途半端に、あらすじの解説を探すより、圧倒的に効果的。)
世間の評も割れてるようです。
”アート系とはいえ、ストーリーが刺さならない”
ごもっとも、と鑑賞後に理解します。(後述)
予習の段階で、
高橋ヨシキは今どき、勇気あると感心し、
これがまったく新味を欠くのは、農村から都市への人口の流入や、都市化に伴う人間関係の希薄化といったテーマがほとんど産業革命時代のそれと同じだからである。
また本作に限った話ではないが「都会の悪口はいくら言っても良い」という考えに首肯しかねるのは、都会だってそこに生まれた人間にとってはかけがえのない故郷であり、人情も温もりも縁もいくらでもあるからだ。
ヒンドゥー教とイスラム教の宗教観の対立や、伝統的なインド社会の抱えるさまざまな問題をどこまでもふわっと「それなりに」投入しているところにもあざとさを感じてしまうが、それが作り手の意図どおりに機能したことは事実で、カンヌ映画祭ではグランプリを受賞した。
好意的な専門筋の評にも期待を抱いた。
”未昇華”、”続編が観たい” は、オブラートに包んで、
ストーリーの踏み込みの弱さは否めない。と言ってるのでしょう。
テーマ設定の見方と、
日常系ストーリーの許容。
敵意を持つか、好意的かの別は有れど、弱点の指摘は一緒ですね。
話題を分類した方が整理が良さげなので、項目ごとに述べます。
1.テーマの見方
1.1.社会派と呼べるか
1.2.インド固有の問題か
2.日常系ストーリーと設定
2.1.高度成長期のインド女の一生 昨日、今日、明日
2.2.自己受容(夫との謎の会話シーン)と現実解
3.演出は、オシャレとリアルとディテールと
3.1.白色蛍光灯と自然光
3.2.音楽はエマホイ・ツェゲ=マリアム・ゴブルー
3.3.都会と田舎、得るものと失うもの
3.4.食卓の重要性
4.背景の補足
4.1.イスラム教の信心
4.2.ケララ州とムンバイ
4.3.観光地ラトナギリと遺跡
4.4.日本の居住権は特に強い
5.関係無かった予習復習
5.1.「真夜中のカーボーイ」が極北過ぎる
5.2.ケララ州の魚カレーの味
なお鑑賞後、以下の記事から情報を得ています。
都市の夜をさまよう光と影
光を当てたかったこと
女性たちの連帯が生む希望
現実と幻影の重なる場で、希望へと向かう
インタビュアーは元より、監督にも同意出来ない箇所も有り、
そのときは、あくまで観た主観優先でゆきます。
1.テーマの見方
既出の高橋ヨシキの論点を以下と捉え、賛成と不同意あり。
・都市化の問題は散々コスられたテーマでインド固有でない
→同意だが、それと作品の評価は別の問題。
・ムンバイが都市だからといって、何でも悪く言っていいのか
→現状を映したからとて、必ずしも悪いとは言ってない。
しがらみから解放される都市生活者のプラス面も伝わる。
・インドの問題を置きに行って、あざとい
→あざとい受賞作が並ぶ中、むしろアート的要素が評価されただけ健全。
監視社会とその迎合が嫌なら高橋ナオキは、もっとポリコレや「怪物」批判しろよ。
それを踏まえ、
社会派と言えるの?
インド固有の問題は何か?
を考えたい。
1.1.社会派と呼べるか
基本、今どき珍しい、オシャレなアート系として観ればいいのに。
ウォン・カーウァイ↓のムンバイ版だと観りゃいいじゃん。
センスが無ければ出来ないことをヤッてるんだから、それだけで充分です。
テーマが在り来りな都市生活者の日常の悲哀を描いていても、全然構わない。
ジャームッシュというか日常アート系、小津安二郎の系譜で、
アメリカでは人気無くとも、ヨーロッパでは評価されて、
大規模公開は厳しくとも、日本の単館系で漸く配給される。
今は昔、ポリコレに掌握されるまでは、
カンヌの価値って、
弱小でもセンスいい作品を観ることが出来るようになることだった。
そんな感覚を思い出させてくれただけで満足です。
ストーリーはどうでもよかった。私は。
その上で、
アニエス・ヴァルダみたいに、
社会に斜に構えた視点で、
ドキュメンタリタッチで、
そのままの日常を描こうとする。
だから結果的に、
”インドの問題をふわっと投入してる” ように見えちゃう。
社会派として問題に切り込むのが目的なら、フィクションにしない。
あくまで、個人のストーリーを語りたかった。
という意図は汲んであげたい。
光差すような淡い希望をオシャレに表現したかった。
それを、あざとさとは思わんけどな。
それともう一つ、重大な点は、
決して交わらないコミュニティに属する二人でも、
帰属のしがらみから逃れてバカップルに成れた。
それは都市生活者同士だからこそ。
田舎から出てきて、一旗揚げる。
夢敗れることもあるけれど、希望に満ちた物語。
決して、都市の悪口を言ってるだけじゃない。
そもそも、
自由を好めば孤独は避けられないように、大抵は出来ている。
本作は、
都会も田舎も等価に眺めて、どっちも良さも悪さもある。
その現実を受容する物語。
高橋ヨシキは、その視点が欠落してる。
でも、現実は何も変わってないから、
育ちの良いお嬢さんの、
観念的なファンタジーに過ぎないんじゃないの?
という疑問を”未昇華” と言い表したんだと思う。
オシャレなだけじゃ刺さらない、というのも、
結局、現実逃避してるだけ。
と言われても仕方ないラストだから。
それに、
昭和40年代ならいざ知らず、今の日本人向けのテーマじゃないし。
高度成長期のイメージが掴めないと、共感は難しいのかも知れない。
失われゆく伝統は有れど、
昨日より今日、今日より明日が良くなってゆく希望の持てる時代。
1.2.インド固有の問題か
もひとつ言うと、
無理に何でも、インド社会の批判に結び付けようとするのも、歪んでる。
ムンバイの貧富の格差を、カーストに結びつけるなら、
もっと因果関係を精査して、提示してもらいたい。
信教の自由が保証された世界でも、ありふれて起こることだから。
親子の世代間ギャップも、日本なら、
親の世代が戦前で、
娘が昭和40年代くらい。
そんなところで、それほどインドの特殊な事情とは思えなんだ。
インドらしいのは、
地域によって民族が元々違うこと、
地域の中でも、宗教によってコミュニティが違うこと。
物語の鍵ではあるけれど、それがテーマなのか?
どの国でも、似たような設定は可能かな。
都会に出てきて感じる地方出身者の疎外感や、
「ロミオとジュリエット」的な恋。
テーマは監督が思うよりずっと普遍的。
ただし、
無理に、あざとく、インドっぽさをブッ込んだようには見えなかった。
リアリティある日常の描写に過ぎず、
それはそれで、インドなんだから当然のこと。
因みに、
イスラムへの差別は描かれていません。
確かに、
ムンバイでテロもあり、他の宗教から警戒されたり、
人民党のイスラム迫害も、
現実にはその可能性も有りますが、
本作の中では描かれていません。
寧ろ、注目すべきは、
新人看護師の中に、イスラムの女性も居たことです。
これは、平等に門戸が開かれていることを示していて、
何でも差別の話にしたがる人が居るなら、それは認知が歪んでいる。
2.日常系ストーリーと設定
本作は、現在のムンバイで生活する地方出身の女性の、日常と問題を描いている。
そのテーマを支える設定と、ストーリーを追う。
2.1.高度成長期のインド女の一生 昨日、今日、明日
日本でも戦前なら、”親が決めた結婚”とか寧ろ普通かな。
世代の違う女性をそれぞれ配置。
ルームシェアで姉妹のように暮らす同郷の二人でも、
有無を言わせず結婚を決められてしまうかどうか、
そこで世代の差を表し、当然とは言え、各々問題を抱えているのが良し。
第一世代のおばさんが、都市再開発の折、地上げ屋に立ち退き迫られ、
田舎に帰るという展開もスムーズ。
彼女だけ故郷が違い、ややムンバイに近いのも、上手い設定。
が、日常系とは言え、
結論はファンタジーに逃げ、”未昇華”と言われてしまう。
投げっぱなしが過ぎる。
ジャームッシュならもっと、上手にお話転がすかな。
↑やはり、田舎から都会に出て来るストーリー。
コントみたいなオチだけど。センス魅せつつ、お話に決着着けるのは大事。
決心したとて実際には動いていない。親と対峙するところまで描いてよ。
妥協点を見つけるのか、
縁を切り、都市で生きるのか、
そこまで描いて、初めて現代社会を描いていると評価されそう。
中途半端な結末ではあるので、感動とまではいかない。
カパーリヤー監督の親は進歩的で、
田舎の閉鎖的で前近代的な親が、どれくらい頑固なのか、
地域も階層も違う家族までは、まだ描けない。
というのが実際のところかな。
それでも、
39歳で親の経験も無さそうな中、
地方から出て来たムンバイに生きる女性の実情を、
世代別に、しっかり描いたのだから、
一旦は褒めよう。
ストーリーは寸止めだけど、今後に期待でいいじゃない。
2.2.自己受容(夫との謎の会話シーン)と現実解
ドイツに出稼ぎに行って連絡も取れない夫との、
妄想内の会話のシーンは、何なのか分かりにくい。
ネタバレ覚悟で、予備知識有った方が迷子にならず、良いと思う。
普通の作劇なら、
連絡が取れた頃のシーンを入れて、
溺れた男が夫に見える、それが妄想だと分かるように描く。
そうしないで、幻想的雰囲気ヤりたいのだろうけど、
伝わりにく過ぎる。
ドキュメンタリ路線が得意なのと、うらはらかイメージシーンは難しい。
意味は、
本当は、”いっしょに来て欲しい” と言って欲しかった。
が、今となっては、もう離婚したい。
現実を認め、離婚を決意する。
若い方がイスラムの恋人を紹介するのと同様、
宙ぶらりんな現状に終止符を打つ決心したことで物語は終わる。
ムンバイに戻れば、また心変わりするかもしれないが、
旅を経て、成長するという物語の定石に、ギリ乗る。
現実を認め意思決定を行うのだから、成長と言おう。
明日からダイエットしようと宣言するようなもんだが。
やっぱ、作品の弱点か。今後に期待。
3.演出は、オシャレとリアルとディテールと
テーマ、プロット、ストーリーと来たら、演出について。
3.1.白色蛍光灯と自然光
夜のムンバイの風景を、ピンボケに撮るのが気に入らないとの、
世間の評を見つけた。
ネオンでもなく、LEDでもなく、
ムンバイの夜は、白色蛍光灯が煌々と輝く(軽犯罪対策と思われ)。
工夫無く撮ったら、映像は真っ白に飛んでしまいそう。
雨季のムンバイで、香港のウォン・カーウァイをヤろうと、
苦心している。それは汲もう。
それに、
上手いこと頑張ってると思ったよ。ドリーミングな映像に成ったよ。
一転して田舎では、自然光を意識する。
既出のインタビューにも有るように、
限られた予算の中、撮影は最大限工夫してる。
それは、褒める以外に、対応が思いつかないんだけどな。
3.2.音楽はエマホイ・ツェゲ=マリアム・ゴブルー
音楽は確かに、陽が差すような柔らかさ。
タイトルの割に、随分と軽やか。
数奇な人生を生きた音楽家のようですね。
劇中、ギリ丁度いい程度の自己主張を伴い流れます。
ジャズっぽくて、オシャレでした。
監督のセンスが光るところ。
3.3.都会と田舎、得るものと失うもの
都会と田舎の暮らしの中で、プラスマイナス両方有るものですが、
もっとコントラスト強く演出しちゃえよ。勿体無い。
都会に出てきて、帰属の無い疎外感と、しがらみからの自由を得る。
田舎に戻れば、不便だけど、ストレスから解放される。
フィクションで物語ヤると決めたなら、
ディテールの演出も、照れずにヤりきれよと、言いたくなりました。
電気釜は、”チェーホフの銃” で在るべきでしょう。
ごはん炊いてみて、ルームシェアの二人で食卓を囲む。
電気の切れた田舎の家では、
かまどで夕餉の準備をして、
ロウソクの明かりの中、
三人で晩餐。
都会と田舎を対比的に描けるのに、ヤラない。
飲酒はまだまだ、都会でも大っぴらに出来ない行為かもしれないが、
田舎で、窮屈から解放される瞬間はもっと描ける。
監督は、田舎暮らしの経験が無いのかもしれない。
特に、家の中の生活感が身体性を伴わない。
感情に刺さらない原因になる。あざといと言われる。”未昇華”と評される。
監督は、育ちが良いからか、人生経験にまだ乏しいからか、
暮らしの実感が弱い、観念的に見えてしまう。
フィクションなら尚更、ディテールに神宿る。もっと客を刺しにイッてよ。
3.4.食卓の重要性
暮らしの中でも、特に食事シーンは最重要なのに、
そこが御座なりはダメ。日本人なら流石に苦言を呈する。
「秋刀魚の味」と言うくらいで、
日常系なら、絶対に外せない。
インドに、フードコーディネータ居ないのかもしれない。
若い恋人が屋台で食事のシーン。
会話に夢中で、食べ方が雑で汚い。
宗教が違っても、大丈夫なミールなのか、
男は豚肉も食べるほど、信仰に無頓着なのか。
デートの食事に、もっと意味を乗せるべきではと、疑問だった。
”好物の魚カレー” もセリフだけでブツは見せない。
恋人、ルームメイト二人、職場仲間の三人、
それぞれ、食卓を囲むことで、関係性を描けるし、地域や宗教も描ける。
監督は、育ちが良いからか、
イギリス的な教育を受けたのかもしれない。
庶民的な家族の食卓は、無かったのかもしれない。
”食べることは生きること”
日本人なので、そこは明確にダメ出ししておきたい。
4.背景の補足
蛇足ながら、私の分かる範囲で書いておきたい。
4.1.イスラム教の信心
女の方が、イスラムに改宗するのは無理で、自爆ルート。
二人とも宗教にこだわらず、都市生活者として生きる道はワンチャン有りかも。
少なくとも男の方も、
信仰心は無い。
生まれたコミュニティがイスラムだっただけ。
婚前交渉には、それくらいの宗教的意味を乗せてる、と見た。
ま、優男でイケメンだけど、
親と縁切るほどのリーダーシップ発揮するとは、思えない。
コミュニティに属する方便で、積極的に教えを守る気は無い。
一口にイスラムと言っても、この点は重要と思う。
個人的には、
イスラムの人の方が、嘘つかない、ボッタクらない。
乗る前に値段交渉すると、そんな印象を得ることが多かった。
4.2.ケララ州とムンバイ
三角形の尖った方、南端の西側ケララ州は独特な文化。
アーリアンではなく、ドラヴィダ系の民族。
文化水準も安定的に高く、治安も良い。らしい。
自立した職業として、看護師を目指す女性も多い。らしい。
長崎のように、古くから交易が盛んで、
アラビヤやポルトガルの文化も流入した。らしい。
共産党政権で、比較的宗教に寛容な気風。らしい。
劇中、バカップルが罰当たりな落書きをするが、
渦巻きのような文字は南方タミル系のマラヤーム語。
二人は同郷と観客にも示す。
因みに、
全土で共通語として使われるヒンディー語や、
州都をムンバイとするマハーラーシュトラ州の主な共通語はマラーティー語。
この2つは、インド・ヨーロッパ語族。
(横串の文字列から、北側と判別してたけれど、どうせ読めない)
西海岸は、南北に分かれると知れる。
故郷ラトナギリに帰るおばさんは、マハーラーシュトラ州の人。
言い寄る医師はセリフで、同郷と早々に明かされる。
字幕すら、英語からの翻訳かもしれない。
外国語に不案内な私(得意と疑われたが)では、それ以上は分からないけど、
劇中では多分、民族の違いは描かれていると思われ。
4.3.観光地ラトナギリと遺跡
田舎ですが、風光明媚な観光地らしいですね。遺跡も有名なのかもしれません。
デベロッパーが運営するホテルが在っても、おかしくないエリア。
電気の無い家は不便そうだけど、残業無く帰宅出来る仕事なら、
夜は寝るものメラトニン。
子供は独立してるし、仕事も紹介されて、大都会ムンバイに住む義理も無い。
故郷の方が、ストレス無く幸せに暮らせそう。
メリットデメリットは両方必ず有るとしたもの。
二元論的に描かれているとは思えない。
そんな迎合は不自然過ぎて、無理だろうよ。
現実を描くという志があるのだし。
食べ物は、こちらも描かれて無かった。
北の文化だと、やはり米より小麦粉が中心な気もする。
電気炊飯器が”チェーホフの銃”なら、そういうところも描いて欲しい。
4.4.日本の居住権は特に強い
日本は特に、
大家より入居者さんの権利を保護する傾向にある。
だから、
サービス業としての経営者意識が無いまま、
損得だけで不動産投資するのはお勧めしない。
それでも、地上げは有る。バブル期には特に、
今のムンバイなら、きっと再開発は物凄いと想像に難くない。
劇中では、弱者の権利が弱い描写もされていた。
ただ、居住を証明する書類が何もないと、法律上どうしようもない。
日本のように住民票の制度も無いのかもしれない。
夫がそもそも、明確な契約を交わしていない可能性も高い。
うーん、弁護士も戦えない。
デベロッパー側からすると、
故郷での仕事も紹介して、引っ越し代くらい出して、
立ち退き交渉が、速やかに成立したのであれば、
それはそれでスマート。
果たして、力ずくで追い出しただけなのか、描かれていない。
監督の意図とは真逆に、いい潮時だと思ったよ。
ただの被害者に仕立て上げないのが、良き資質でもあり。
大衆受けしないかもしれないけれど。
5.関係無かった予習復習
関係無いかもしれないけれど、折角だからメモ。
5.1.「真夜中のカーボーイ」が極北過ぎる
勝手にバッドエンドかと想定してしまい、有料で観てしまった↓。
本作も、都会の夢破れた二人のバディものかと思ってしまった。
何にせよ、予習には、極北過ぎたな。
ストーリーも演出も、役者も。
ここから先は、娯楽に回帰するよりもう無いだろうと、納得した。
5.2.ケララ州の魚カレーの味
ココナッツにタマリンドソースで、マイルド。
よく知っているカレーとはちょっと違う。
ご飯にぶっかけて食べた。
タイでなく、インドで間違いない。
私は、コルカタかバングラか、はたまた日本の南インド屋か、
魚カレーは食べた記憶が有る。
ちゃんと、美味しかったよ。
コストの都合もありましょうが、できれば映像で観たかった。
何はともあれ、
ボリウッド全盛の地で、
インディペンデントで、オシャレな才能が発掘されて目出度い。
才能はギフト。大事にしたいものです。
2025.08.23現在
パウエル議長は圧力に屈したのか、数字が悪いのか。
宵の明星と勘違いした地点には、まだ戻って来ない。
市場は楽観的らしい。
間違いは認めて、地味に対応してゆきたい。