この時期に突然の退去が出て、頑張らねばという今日このごろです。
久しぶりに出かけまして、ついでにようやく「ノマドランド」観ました。
映画館で観ておきたかった。機会を得てホッとした。逃さないで良かった。
スクリーンなので没入しやすい、退屈する余地は全く無かったですね。
むしろ、もうちょっと長くノマドな生き様を観ていたい、と終わった。
しかし、想像してたのとは、違った。
フィクションなドラマ作り多め、
分かりやすく運んで、盛り上げている。
意外でした。
クロエ・ジャオ監督の「ザ・ライダー」は配信で、
フランシス・マクドーマンド主演作「スリー・ビルボード」は劇場で観た。
マクドーマンドが原作読んで、惚れて映画化の権利買って、
カンヌで「ザ・ライダー」観て、クロエ・ジャオに監督のオファー。
ここまでの経緯は承知の上、
今回も前作同様、クロエ・ジャオテイスト全開。らしい
・アメリカの大自然
・マジックアワーの撮影
・本人をそのまま使う。ほぼ実話
・淡々と進む、無理に芝居させない
さらに、
主演フランシス・マクドーマンドは、
実際にノマドライフに溶け込んでから、演技に入る。
との予備知識のありで臨みました。
予想と違うのは2点、それ以外は納得。満足でした。
1.アップ多め
2.ベタにドラマ作ってる
1.アップ多め
これは良い意味で裏切られました。
のっけから野良での排泄シーンで始まり、
フランシス・マクドーマンドの顔がアップ。
すっぴんで深いシワ多数。年輪みたい。
短髪でもあり、男か女かちょっと分かんなかった。
この時点で、本気度が伝わり、そりゃ主演女優賞だよな。
これもう、演技とかそういうことじゃなく。
ハリウッド女優でこんなことやる人いるのか。
ヒッチコック観てたら、
金髪美人のヒロインが映ると、必ず紗を入れてたので、
あまりの落差に愕然としました。
顔でこれまでの人生が忍ばれる。
この顔なら、寄って正解だよな。
前作「ザ・ライダー」は、もっと引きで、
人物が自然に溶け込むような画でした。
フランシス・マクドーマンドの演技観るだけでも、
充分すごい。
版権買い取って、さらにこの演技。
スリー・ビルボードのときも凄い人と思ったけど、
想像を遥かに上回る男前っぷり。
まあ、とにかく顔が凄い。
2.ベタにドラマ作ってる
ホントに意外でした。
前作のあとだと、ちょっと気にはなった。
起伏無く、淡々と本物の話だけで進むのかと、
期待してましたが、、
それじゃあまりにやり過ぎ、一般受けも必要と判断があったのでしょうか。
シネトコさんの動画に概ね納得でした。
正当な批判だなと、もちろん、退屈だった、とかいうレベルとは違う。
一番大きいのはフィクションなドラマを作りに行ってるところ。
・音楽はベタ過ぎ
私も観てるとき感じた、減点。
「ザ・ライダー」はここまでしつこくなかった。
・俳優同士の恋愛ドラマ作り物っぽい
私はそこまで気にならなかったが、
あ、ドラマ作りにいって、盛り上げるんだ、
とは観てて思った。
できれば、本物の話を淡々と観たかったかな。
・黒人出すのは台無し。気を使いすぎ。
そのとおりだけど、仕方ないかな。
関係ない文脈で語られちゃうのデメリットしかないし。
そんな訳で、
今回はクロエ・ジャオの技法よりも、
フランシス・マクドーマンドの壮絶さにヤラれました。
語り尽くされてることは、なるべく避けて、いくつか書きます。
お話の構造と退屈について
貧困vs自由
うんこ
非キリスト教(特にプロテスタント)
旅の思い出
お話の構造と退屈について
ノマド初心者がノマドになってゆく、
冬から冬への1年間のお話。
旅をしながら、
出会う人、出来事、いくつかの経験が描かれる、
最後は、過去にもケリをつけて、
これからもノマドとして生きてゆく。
明確な結論は無いので、旅の終わりがありません。
主役は段々とノマドらしくなってゆきますが、
描かれるのはあくまでノマドの日常で、
フィクションに見えないようにドラマは配置されます。
旅らしく、風景や人は移り変わりますが、
エピソードは並列で、直列のパワーは無い。
敢えて、盛り上げようともしてません。そこに主題はないので。
ノマドの人たちの心情や生き方に、心動かされることがなければ、
そりゃ、二時間は退屈です。
そこに共鳴するものなければ、
さっさと退出すべきですね。時間無駄にします。
この映画に、
ヒッチコック的な意味での娯楽作の満足を求めるのは、
八百屋で魚を求めるようなもの。
それは、事前の情報で予想つく気もする。
↓の指摘が、正論に聞こえます。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/cinema/1616019177/182-n
ミニシアターなんかの地味な作品を見慣れてない人はアカデミー賞ノミネート作品ってことだけに釣られて観ても、つまらないで終わりそう
好みかどうかは置いといて、映画としていろんなタイプのものを読み解く素養がないなら事前に内容をチェックしてから鑑賞すればストレスないだろうにね
できるだけ直近の個人的映画体験でいうと、それでも古いけど、
ジム・ジャームッシュの「パターソン」を、
有楽町ヒューマントラストシネマで観るようなもの。
偏見な言い方だけど、マーベルの勧善懲悪を喜ぶ人は、
観ないと思うんだよな。普段そういう映画。
そして、観ないのが正しいよ。求めるものが違うのだから。
古い記憶を辿ると、
ヴィム・ヴェンダースの「ベルリン天使の歌」だって、シネマシャンテだったはず。
個人的には、シャンテで観たアニエス・ヴァルダ「冬の旅」を思い出したりした。
自由ってそういうもんだよ。
それはともかく、
本来そういう映画だよ。
↓玄人筋の批評で、
本作ヴェンダースのロードムービー的と言われて、
なんか嬉しかった。
ま、退屈な人にとって退屈なのは構造上当然。
一定数そういう感想が発生するのは必然。
だけど、
それを評価というのはお門違い。マーベルでも観てればいいのに。
貧困vs自由
もっと、グローバルな社会批判をすべき、
という意見も多いようです。
うーん、
日本で映画鑑賞出来る程度に文化的な生活で、
「批判しろ」はなんだかなと思います。
まずは、アマゾンやユニクロを日本でボイコットすればいいのに。
描かれる側面は、
現代の資本主義社会に対して、
片隅に追いやられるプアホワイトなのか、
自由を求め、積極的に降りる権利行使なのか、
両面ありますけど、
映画は2:8くらいの割合でしょうか、
追い詰められることは背景になり、
生き様や理念が前面に出てくる。
原作はもっと、過酷な状況が描かれていると、
言われるので確認しました。
3:7くらいのもんじゃないですか、
原作も、現代の資本主義社会から降りるという思想性強い。
私が出会ったノマドの多くは、勝てる見込みのない出来レースに時間を費やしすぎたと感じて、システムの裏をかく方法を見つけ出していた。
トレーラーハウスに住む人々について、社会評論家の意見は真っ二つに分かれた。自由を愛する時代の先駆けと称賛する声があるかと思えば、社会分断の凶兆だという見方もあった。両親が一五年前からトレーラーハウスで生活していたという作家のデイビッド・A・ソーンバーグは、自己決定権を手にすることへの両親の強い意思に、静かな革命を読みとっていた。
ボブも、彼の影響を受けた多数のノマドも、車上生活をそれとは異なる角度から見ている。ボブの予想では、アメリカでは将来、経済的、環境的大変動が日常的になる。だからボブは、ノマド的生活を、社会が安定を取り戻すまで乗り切り、時期が来ればまた一般社会に戻るための、その場しのぎの解決策とは考えていない。むしろ彼が目指しているのは、壊れつつある社会秩序の外で(さらにはそれを超越したところで)生きられる、さまよえるトライブを生み出すこと。つまり、車輪の上のパラレルワールドをつくることなのだ。
降りた旅人という視点だと、社会は自分の外部。
自分の体験と重ねると、
訪れた国の文句はお門違いなんだよな。
たまたま訪れただけで、社会の問題解決は他のだれかの仕事。
文句がある人が解決すればいい。
旅人はまた去っていくだけだし。
「文句を言うのは恥だ」という雰囲気がある(2)。「仕事になじめず困っていませんか?」という見出しのコラムは、仕事に不満を抱えているワーキャンパーに、自分の内面を見つめ直すことで問題を解決するよう促す内容だ。「『永久にここにいるわけじゃない。これは目的のための手段にすぎないんだ』、『これは旅行の一環だ。ちょっとこのあたりを探検している(あるいは仲間に会いに来た)だけなんだ』と自分に言い聞かせて仕事に対する姿勢を変えるよう努めましょう。あまりくよくよ考えないで」とある。
我慢するということではなくて、
オレには関係ない、オレの問題じゃない。
手段は手段に過ぎない。帰属してる訳じゃない。
折角自由なんだから、自由なまま死にたい。
自由じゃない人はこの感覚が分からないんじゃないかな。
とは思った。
さらに、特権であるのは、
もう老後だし、
充分生きたし、責任は果たし終えた、自由に死ねる。
痛い、苦しいは嫌だけど、死ぬのはいつでも構わない。
長期的な計画を尋ねたことがある。「ずっとこうしているつもりよ」とシルビアンは言った。「『テルマ&ルイーズ』みたいに、最後には車に乗ったまま崖から飛び出すしかなくなっても、かまわないわ」
アイリスにも同じ質問をした。「砂漠で死んでたら見つけてちょうだい」というのがアイリスの答えだった。「私を埋めて石でも積んで、あとはそっとしておいて」
そして、多く指摘されてるように、
有色人種なら、アメリカでこの生活は出来ない。
白人であるという特権的な切り札をもってしても、警官や通行人とのいざこざを避けられない場合があるのだ。であれば、丸腰の黒人が赤信号で止まっていただけで警官に撃たれるような地域ではとくに、人種差別的な取締りの犠牲になりかねない人が車上生活をするのは、危険すぎるのではないだろうか。
自由は安全でも、安心でもありません。
元からそういうもんだし。
ノマドのリンダが家を持つことが目標とあるけど、
その文脈も間違う人もいて、
リンダは確固とした意志をもつ自身の両手で、新しい家族となった友人の助けを借りて、アースシップを建てる。完成したら(完成するに決まっているが)、アースシップが三人の避難場所になるだろう。再生可能なシステムで食料、水、電気、冷暖房を生み出すアースシップは、住宅でもあり、砂漠と調和して生きる有機体でもある。三人が死んでしまっても、アースシップは生き続けるだろう。
ただの家じゃなくて、アースシップ。
自給自足で、循環してる環境を手に入れること。
資本主義社会から降りるというスタンスは一貫している。
ワンハリでも描かれる、ヒッピーでカウンターカルチャーな人達が、
就職が決まって髪を切ったけど、
もう若くないから、自由に死にたい。
体制に組み込まれるのはもういい。
もういいよ、しがらみは。関係ないし。
そういう感覚理解した上での、
でもブラックで過酷な労働環境だよね。現実はキツイ。
という配合。
うんこ
映画冒頭もそうですが、車中生活では糞尿は深刻な問題ですね。
リアルな生活を描くという目的は当然ありますが、
生きるのに必需で、
人間はうんこ製造機であること避けて通れない。
睡眠や食事はある程度意志でコントロール出来るけど、
うんこはそうは行かない。
汚くても、生きることの仕方のない部分。
伊沢正名さんのこと、思い出さずにいられない。
野糞を続けて43年 「奥さんよりもウンコを選んだ」
――著書『くう・ねる・のぐそ』(山と渓谷社)によれば、1974年の1月1日に初めて野糞をしたと。キッカケは。
屎尿処理場の建設に近隣住民が反対しているという新聞記事を読んで、住民運動のマイナス面を知ったことがひとつです。自分自身が自然保護運動をしていたこともあって、「自然を破壊するのは行政や企業で、それに対抗する住民運動の側は善なんだ」と思っていた。でも、自分のウンコを処理してもらう施設に対して、「臭くて汚いからイヤだ」というのは、結局エゴじゃないですか。
――そこから、なぜ野糞に?
処理場建設には反対していなかったけど、トイレでウンコをしている点では自分も反対派の人たちと変わらない。誰かに迷惑を掛けて、処理場で始末してもらっているわけです。それなら、野糞をして菌類に分解してもらおう、キノコにやってもらえばいいじゃないかと。ちょうどその頃、『カラー自然ガイド きのこ』(保育社)という本で、動物の死骸やウンコを分解して土に返す菌類の役割を知り、菌類の働きを守ることこそが本当の自然保護になると学んだんです。
伊沢さんは、紙は使わない。分解される葉っぱで拭く。
ああ、
旅してるときは、手桶の方が主流だった。
福島で暮らしてときは、ふきで拭いて、堆肥づくり目指したな。
個人的な体験も蘇りますが、
それでも最後の仕上げだけは紙を使っていたのですが、1990年からはそれもやめました。キッカケは、自宅の裏山で野糞をした時に、掘り返した地面から紙が出てきたこと。何だろうと思ったら、自分が半年以上も前に野糞をした跡だった。ウンコも葉っぱも跡形もなく分解されているのに、紙だけは分解されずに残っていたんですね。
――そこで反省して。
そうですね。偉そうに「自然のために」なんて言いながら、いったい自分は何をやっていたんだろう。分解しにくいゴミをバラまいてきただけじゃないかと。以降は基本的に紙を使わず、葉っぱで拭いた後に水で洗うようになりました。
万物流転ですね。
自由の視点だと、
社会批判とか正義ってダサいよね。きっと。
地球を守れとかも、わざわざ傲慢な言い方しなくていいのにと、
私も感じる。
ホントは、地球に暮らす人間の環境を守れ。でしょ。
地球の方が人間より強く大きいし、人智を超えたサイクルで生きてるし、
――家族から反対されたことは。
この活動をしていて一番つらかったのは、カミさんに逃げられたこと。野糞自体の趣旨は理解してくれていたのですが、私が良識派とか人権派の人たちまで敵に回して批判するものだから、ついていけなくなったようです。5年ほど前に離婚して、いまは独り身ですね。尻拭き用の葉っぱをおもむろにバッグから取り出す伊沢さん
――伊沢さんの主義主張とご家族と、どちらを選ぶのかというところで、奥さんを優先する選択肢もあったのでは。そうすると、ウンコ闘争をやめるしかない。それはできませんよね。
――奥さんよりもウンコを選んだと。
極端な言い方をすれば、そうなっちゃいますね(笑)。
なぜそうまでして人権派を批判するのかというと、そもそも「人権」って傲慢だと思うんですね。人権派は人間のことしか考えていない。しかも正義感を持っているでしょう。そこが嫌なんです。もっと自然やほかの生き物に対して謙虚にならないといけない。単に野糞を広めるだけでなく、ウンコを元に人間の傲慢な生き方を改めよう、ということなんです。
日本にも、ラディカルに自由に生きてる人が居る。
ま、生きててどうしようもないことに向き合うって大事ですね。
映画でも重要に描かれてて、好感しました。
非キリスト教(特にプロテスタント)
西部劇の継承と非キリスト教について、
茶一郎さんのさすがの解説。
教会に行かず、ノマドの集会に出席。その選択が重要と。
ただし、ここでの神はキリスト教の神でない。
多くのアメリカ映画って、とかく家族家族と、うるせーっす。
安易に家族愛に着地しますよね。
キリスト教の文化圏の人が作るでの止むを得ないのですが、
も一つ思い出すのが、
マックス・ヴェーバーで、
原本から読んで理解するのはちょっとキツイですが、
wikiによると、
キリスト教においては、人生は一度きりであり、仏教のように何度も生まれ変わる(輪廻転生)ということはない。そして、死後(第1の死)に再び肉体を与えられて、最後の審判に臨むときに、救済される人間として選ばれなかった者は、永遠の地獄に落ちる、あるいは消滅する(第2の死)。そして、そうなってしまえば、救済や復活はもう二度と起こらない。
このように、善行を働いても救われるとは限らない。また、自分が救われているかどうかをあらかじめ知ることもできない。そして、もし選ばれていなかったら自分は永遠の地獄に落ち、二度と救済されることがない。このような予定説の恐るべき論理は、人間に恐怖と激しい精神的緊張を強いる。そして、人々はそこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出した。そして、一切の欲望や贅沢や浪費を禁じ、それによって生まれたエネルギーのすべてを、信仰と労働(神が定めた職業、召命、天職、ベルーフ)のみに集中させた。こうして、人々は禁欲的労働(世俗内禁欲、行動的禁欲、アクティブ・アスケーゼ)というエートスを生み出したのである。
そうして、人々は世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献した。そして、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになったのである。
しかし、禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響は、それだけではない。禁欲的プロテスタンティズムは、「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出した。つまり、金儲けに正当性を与えたのである。
「ノマドランド」で説かれるのは、
諸行無常、万物流転、輪廻転生。
円環の理。
いまここ、過去にも未来にも囚われず、他人も気にしない。
資本主義から降りることですから、当然ですが、
プロテスタンティズムのカウンターです。
だから死者に対してもサヨナラと言わない。
またどこかで。
多様性と言う人が宗教観に触れないのは、
とても違和感感じること多いのですが、
今回は、監督が中国人ってこと、大きく作用してる部分と見ます。
インドじゃなくて、老荘ですかね。無為自然とか。
日本だって、勤勉は美徳ですから、似たようなものですが、
アメリカなら、アメリカの倫理観から抜け出すことが、
社会から降りて、自由になること。
そこは、もうちょっと言われていいよね。
ヒッピーとか、後期のビートルズとか、
インド哲学っぽいし。
まあ、やべえカルトにもなるけれど、
旅の思い出
またどこかで。
いつもの安宿で常連さんに出会うこともあります。
旅に出る理由を少し思い出しました。
ハッピーニューイヤーで、フラッシュバックしました、
大晦日、
ホーチミンではコンサート行われて、
年明けると、花火が上がります。
プノンペンで紅白見て過ごしたこともあり、
カオサンの安宿で何も変わらず過ごしたり。
大体、西暦の正月が正月とは限らないし。
恐竜と隕石は相性がよくて、
サバナケットの博物館では、、
フランス語得意な館長が説明してくれた。
隕石は重かった。
モヘンジョ・ダロの遺跡は見ておいてよかったな。
充分好きなように生きたから、
やり残したことは、そんなに無い気もする。
もうちょっと魂の自由を獲得して、
別のところに、ゆけばもう充分。
いっぱい思い出して、魂が浄化されました。
大スクリーンで観れて良かったです。