前回「ファミリープロット」を観て、改めてヒッチコック観たくなり、
1960年代、ヒッチコック最後の黄金期の3作品を鑑賞。
日本なら、宮崎駿。
のような、何か歪んだ女性観を感じるのですが、
幼年期にどう歪んだ結果、あのように性的偏愛が作品に投影されるのか?
が気になって、
銘柄分析で経営者の生い立ちから追うように、
巨匠の生い立ちも知りたくなりました。
やることは一緒です。
ネットの情報を検索し、
書籍が見つかれば、読んでみる。
その人のビリーフに、人生経験はどんな影響を与えていそうなのか?
生み出したサービスへの投影を想像してみる。
業績でなく、経営を買いたいものです。
それはさておき、、
バイオグラフィー全体では、
英国サイレント期
英国トーキー期
ハリウッド期
に分かれます。さらに、
ハリウッド期の中でも、50年代は黄金期と評価されて、
60年代周辺の時期には、
「めまい」「北北西に進路を取れ」「サイコ」「鳥」
と、立て続けに、撮れば代表作です。
この時期を、黄金期の最後と、私は大雑把に分類してます。
社会は米ソ冷戦と公民権運動の時代。
58年「めまい」公開、60年にケネディ大統領誕生、
「鳥」は63年で、前年にキューバ危機が起こります。
不安な世相を反映しているのかもしれません。
今回は、
「北北西に進路を取れ」は計算できる手堅い大作と判断し、
取り上げません。
他3作は、
巨匠の地位に満足することなく攻めているし、
支配的で溺愛の毒な母親育ちが投影されてる。
作家性が前面に出て、大変興味深い。
その後は、スランプに、終わったと言われる。
一説には女優にセクハラして逃げられたことが原因とも。
「めまい」の前にも、女優に逃げられてて、
いつものことなのか、このときだけダメージ受ける理由があったのか、
公民権運動で人権意識高まる時代で許されなくなったのか、
他にも要因ありそうですけどね。
ポランスキーといい、ジョン・ラセターといい、
才能とヤバい僻は紙一重なのですかね。
現実と幻の境目を生きてるのようには見えます、、
まあ、
ベトナム戦争に突入してゆく時期にはあまり振るいません。
戦時中に娯楽作はキツイかもと思ったりしてます。
そして、
娯楽作は撮りづらそうなアメリカ、
或いは揉め事の火種あるハリウッドから逃れ、
故郷の英国に戻り「フレンジー」制作し72年に公開。
これで復活。
75年にサイゴン陥落、ベトナム戦争終決の翌76年には、
結果的に遺作となる「ファミリープロット」発表。
次回作は間に合わず、80年にこの世を去ります。
ちなみに、
英国サイレント時代に監督のキャリアをスタートし、
切り裂きジャックを題材にした「下宿人」で名を上げ、
同じく、英国で、
異常性欲な猟奇的連続殺人鬼を題材にした「フレンジー」を撮り、
スランプを終わらすのですから、
始めと終わりが同じ、ブックエンド構造とも言えます。
マックイーンが西部劇のバウンティハンター「拳銃無宿」でスターになり、
現代の賞金稼ぎ「ハンター」が遺作となったように。
さかのぼって、
生い立ちから振り返ると、
鶏(!)も売ってた卸業の両親の元にロンドンで生まれ、
一時孤独な寄宿舎生活も経験する。
厳格な父親を14歳で亡くし、
働き、苦学しつつ映画産業で頭角を現す。
どうやら、母親は支配的で溺愛で、毒親だったらしい。
結婚後は奥さんが母親役も兼任してたらしい。
この時期のあまり、詳しい情報はみつかりませんでした。
結局、宇多丸「ヒッチコック」評に教わりました。(書き起こしは見つからず)
宇多丸さんはいいとこの育ちで、厳格な家庭だったそうなので、
少年ヒッチコックの心情に共感するところあるのでしょう。
「搾取でしかない愛」と毒親のそれを形容。
未経験では出来ない説明ではないか。
宇多丸評でも言及していますが、
「めまい」「サイコ」「鳥」の黄金期では、
毒親育ちの歪んだ女性観が特に、強く投影されています。
私も洋画劇場で見たときはよく分かりませんでした。
公開当時は、興行的にはあまり振るわず、評価も賛否分かれるものだった。
それが後年再評価され、
『世界の批評家が選ぶ偉大な映画50選』の1位の座を「市民ケーン」から奪取。
ですが、
何故、今1位なのか? という疑問に誰も答えてくれない。
踏み込んだ解説は見つけられませんでした。
内容は、
前出の宇多丸評で語り尽くされてる感あるのですが、
観客を楽しませるための職人に徹することを止めて、
むしろ、意図的、積極的に、自意識露出している。
それをヒッチコック自身も失敗と判断した、
のではないかと愚考します。
それが後年、
幻にしか生きられない男ヒッチコックの業と、
それに答えようと搾取される女優というテーマ性が、
芸術面で再評価される。
その視点で観ると、圧倒的な映像が別の意味を持ってくる。
そういう変遷を経ていると理解しています。
しかしそれだけでは、「市民ケーン」から奪取し、「第三の男」でもない、
No1の理由をすべて説明できないので、現代という時代性を考えました。
宇多丸評でもあるように、とてもカルト的な作品。
自意識ダダ漏れなストーリーと映像。
ときどき映像がとても主観的で、抽象的イメージの表現までする。
他の作品ではないんじゃないかな。
一部に熱狂を生む中毒性。
そういう映像をやってますよね。
エヴァでもマーベルでも信者を生みますが、
脳に直接刺激を与えるような映像で、とりこにします。
ドーパミン的な刺激で中毒になります。
お話の面白さも去ることながら、視覚効果の発展は大きい。
映像表現でカルトを生む史上最初の作品と、
定義しても大丈夫じゃないでしょうか。
検証する技量はないですが、
「ロッキー・ホラー・ショー」が75年ですから。
一般受けは犠牲になり、賛否分かれるのは当然の結果と思います。
まあ、しかし、この時代、映像についてはため息出ますかね。
CGでなく、ロケーションも室内も衣装もすべて本物。あの色彩。
隅々まで拘ってます。
話の内容から、几帳面な映像が息苦しくもあります。
お話の構造は、XYZ構文と私勝手に呼んでますが、
冒頭からXの話だなと想像する。サスペンスの持続。
中盤、えYの話なのとショック。謎解きも意外とアッサリ。
終盤展開して実はZの話なのかと、もう一度驚く。
と、今回3作とも、その構造を踏襲してます。
本作では、
X:オカルト幻想もの
Y:ミステリー、妻殺しのトリック
Z:本作のテーマ。幻と恋
野暮なことを言えば、Yの終わりで、
キム・ノヴァクはサンフランシスコを去るべきですけどね。
やはり、心残りがあったのでしょう。
終盤、
幻想に取り憑かれた男と、
それでも、男の恋にすがる女。
結局、耐えきれず女は行ってしまう。
完全な自分語りですから、
庵野秀明は参考にしたのでしょうか。
ヒッチコックは綺麗なお話に飽き足らず、
作家性を出そうとトライしたのかもしれません。
ああ、やはりテーマである幻への没入感が中毒性を呼ぶ。
映画館で観るべき映画だな。
日常のなかで切り取った四角い画面でなく、
スクリーンに没頭しないと、本当の効果は味わえない。
視覚効果のパイオニアとして、取り上げられる作品ですが、
幻を描くというテーマ性あってこそ、効果が最大化してます。
キャストは、
キム・ノヴァクは大成功で、
女優さんが清楚より妖艶なのもプラス。
ジェームズ・スチュワートどうだったでしょうか?
他の作品なら、無味無臭の人物を体現するのにピッタリですが、
本作では、内面の狂気を醸し出す必要がありました。
「サイコ」のアンソニー・パーキンスと比較すると、、
毒親育ちが、今度は支配的搾取な愛情を押し付ける。
には、資質が向いてないかな。健全だもの。
逆に、庵野秀明にとっての安野モヨコ的な、
ヒッチコックの庇護者であり奥さんの投影は、
ピッタリな造形ですよね。
ま、「市民ケーン」がメディア王の伝記で、
それから1位を奪ったのが、幻想を描くカルト。
そこに時代性を感じるってことで、どうでしょうか。
完成度なら、やっぱり「第三の男」だと思うのですけど。
これをリメイクする勇気ある人が居たことに驚きます。
もう有名過ぎるので、ネタバレします。
意外なことに、自宅を抵当に入れて制作費捻出してます。
低予算B級ホラーの教科書になった。
宇多丸評にもあるように、タブーにも挑戦した作品。
自らリスク取ったこともあり、インディーズ魂爆発させてます。
内容的にも、
「めまい」の反省を完璧に活かして、娯楽作として大成功。
自意識のさじ加減を調整して、
サイコホラーの金字塔を打ち立てました。
お話の構造はXYZ。
X:逃避行もの?
Y:ああ、その手のサスペンスか。
Z:毒親のサイコホラー。最後の謎。
演出面では、
敢えてのモノクロームが効果的で、光と影の演出が冴える。
視覚効果は語り尽くされてる感ありますので、違う話を。
Xの逃避行でハラハラを引っ張り、
Yのシャワーシーンで観客に大ダメージを与える。
Zに至るまで2度目の殺人は天丼ですね。
1回目の片付けを丁寧に描くことで、毒親との関係性を想像させ、
探偵に嗅ぎ回られると、
劇中アンソニー・パーキンスの嘘が下手過ぎて、ハラハラする。
そこから有名な階段のシーンでもう一度サプライズ。
構成的にも完璧。
そこから、先はホラー、音楽の使い方も教科書になる。
スペクタクルに動き、見事な伏線回収。
限られた予算で、全てを出し切った傑作。
今となっては、
ネタバレとかどうとか、単純なサプライズを楽しむのでなく、
名人芸を堪能する作品です。
圓生聴くのに、ネタバレどうとか言う無粋はいない。
私の環境ではアマプラ遅くて、youtubeで観ました。
そしたら、日本語版字幕はなかった。
ま、人間ドラマは重要じゃないって判断なのか。
ここで動物パニック映画に挑戦。
このジャンルのパイオニアにして、歴史的傑作。
幼年期から鳥の怖さを経験してたのかもですね。
セクハラな件は、本作でも暴露されてますが、
女優さんに対して、よりサディスティックな面が強調されてます。
美人を虐めたいのはコンプレックスの裏返しか、
キャスティングは、
小学校の先生まで、ここまで美人でなくてもいいかな。
逆に加賀まりこのような姑役は絶妙。
妹役もかわいい。
と観てました。
お話の構造はXYZ。
X:ラブコメか?
Y:いや、また毒親の人間模様か、不穏だ。
Z:伏線回収しつつ、一気に動物パニックもの。
XとYはどうでもいいのですね。
湾岸であることも含め、
外部からの来訪というメタファーは強いですが、
何でもよいとも言えます。
Zだけでは二時間は続かないので、XYで尺を保たせたとも言え、
そこが不満な人も意外と多い。
私もちょっとダレました。
理由も不明で解決もしないという結末なので、
ネタばらしパートも無く、
パニックのバリエーションが全て。
このあと「ジョーズ」が世に出て、
定番の展開は、
謎の被害者が発見され、その後、
一旦解決したかと、前フリがあって、
ようやく、敵が正体を現す。
化け物退治がクライマックス。
その方が自然だし、不安を盛り上げやすい。はず。
XYZ構文にした理由は、分からないです。
音楽の件も含め、スケジュール的なドタバタがあったかもしれない。
特撮ならではの大変さもあったかもしれない。
その音楽は、
演出効果を狙ってあまり付けてない説と、
スケジュールが間に合わなかった説があり、
前者を高く評価するむきも多いのですが、
私は後者かと観ました。
「ジョーズ」は無音の方が怖いかと言えば、
そんなことないから、
不安を煽る音の付け方はあったと思う。
特撮監督としてのヒッチコック。
当時画期的だっただけでなく、今観てもちゃんと鳥が怖い。
びっしり止まってる鳥は怖い。
映像は今の時代で再現したとして、
同じような効果上げられるでしょうか。
今のCGの方が安っぽいかも。そうなっては台無しだし。
数百羽の本物と作り物を混ぜて、
当時最新のディズニーの特撮の協力を得て、作られたそうです。
演出力とは別の文脈で、見直してみたい。
演出では、不安のなかにコメディーを混ぜる。
ガソリンスタンドの爆破とか、
緊張を緩和させるシーン上手いですね。
そのあたりは語り尽くされているかな。
笑いと恐怖は紙一重なこと。
特に、
時代背景は気にしました。
鳥の襲撃が、真珠湾に見えたり、カミカゼ特攻だったり、
日本軍を暗示させるとの指摘は目に触れるのですが、
それはもちろんとしても、
理不尽に大陸を超えて核ミサイルが飛んでくる、
その可能性が現実的だった時代。
その不安感は反映してるかな、
さらに、
鳥は本来同一種でだけ群れるとセリフ、なのに多様性で人間を攻撃。
沢山の種類が混ざって登場するのは公民権運動の時代。
観客の多くが白人だとしたら、
肯定的な感情ばかりが湧くとは限りません。
鳥に逆に閉じ込められ、鬱屈として、閉塞感。
インディアンの襲撃も彷彿とさせられます。
内輪を破壊する外部からの襲来に対する恐怖で一貫してます。
本作では、最後まで不安から解放されません。
楽しい娯楽作の時代の終わりも予感させます。
このあと低迷期と呼ばれます、
制約に囚われず、もっとストーリーを無視して、
イメージ重視の作品作れたらどうだったかと、想像もしてしまいます。
宮崎駿がポニョ撮ったように。
ま、規則正しい人なので、それは無理かな。
マンガの描き方を手塚治虫が確定したように、
映画的な演出というものを、決定づけた巨人。
久しぶりに堪能しました。
参考文献として植草甚一を最後にご紹介。
宇多丸評そのままの理解で、なんの問題もないと思われますが、
他にもヒッチコックの情報探してみました。
紙の本なら、ありそうですが、キンドルに限定すると、
↓の他に見つかりません。
植草甚一なら間違いない。と参考にしました。
なるほどと、膝を打つような解説多し。
脱線すると、私は植草甚一は世代でないのであまり読んでません。
小林信彦の影響を強く受けてるとは思います。
晩年は老害化してあまり好きでなくなってしまいましたが。
そんなことは、どうでもいいですね。
生い立ちについては、
・ミステリの本場ロンドンで生まれる
ヒッチコックは、こうしたイギリス的環境から生まれた純粋なスリラー作家であったし、そうなれたのも、突きつめれば、ながいあいだイギリスにおいてスリラー的なものが、文学、演劇のうえで研究されていたからである。
・地理と図画が得意
映画会社でタイトルかきになったが、ひまさえあれば撮影が進行しているステージのなかへはいっていって、どんなふうに映画がつくられるのか、そばでながめているのがすきだった。
・インディーズ魂も持つ
二十三歳になったとき、とうとうシビレをきらし、クレア・グリートという女優と相談したうえ、お金を都合して自分たちで映画をつくることになった。
・ドイツ表現主義から光と影の演出を学ぶ
ドイツに行ったり、ナチから逃れたドイツ人技師と仕事したり。
野口 イギリス映画がよくなりはじめた頃、ドイツの映画人が相当イギリスに渡っているのです。
岡 ヒットラーが政権をとった時代ですね。
野口 それがイギリス映画に一種のドイツ的な味つけもしていると考えてよいかもしれない。キャメラマンではギュンター・クラムプやオットー・ヘラー、美術監督のアルフレッド・ユングなんか。
・出世作「下宿人」で既にヒッチコック・タッチという独特の手法を見せる
ごくあたりまえな日常の世界が、急にうす気味悪くなりだす、しだいに恐怖だらけの世界になるといった演出のテクニック
演出面では、
・光と影の演出
岡 植草さんのお考えでは、ヒッチコック・タッチが一番よく出ているというのはどういうところでしょうか?
植草 簡単にいっても、三つくらいに分けてみなければならないでしょう。まず、ヒッチコック・ライトというのがある。それから、ヒッチコック・シャドウ、彼独特の影のあてかたがある。もうひとつは、ショックの与えかたです。
これはモノクロームの方が効果的だった。
うん、それはカラーではまだシャドーがうまく出せない。たいていそれが黒じゃなく赤くなってしまうので、わしがそれを避けているためだ。たとえば暗い夜道の代りに真っ昼間の広々とした場所を使い、黄色のフィルターを使って黄色を画面一面に強くし、暑さを表現したりしている。
・サスペンス(ハラハラの持続)とショック(一発サプライズ)
ヒッチコックの意見では、なるべくサスペンスで時間をもたせ、ちがった場面のところどころでショックをあたえるのが一番りこうなやりかたなのである。
・スリルとユーモアの混合
ヒッチコックの場合は、ユーモアとスリルとが背中あわせになっている演出がよくあり、いい例が「ハリーの災難」であるが、これが誰にもできない芸当であって、昔からヒッチコック・タッチといわれていた。
作劇論として、
・俯瞰的、箱庭的(by宇多丸)に最初に構成出来る才能
ヒッチコックが目をつぶると、背景が浮かんで俳優が動きはじめ、こうした場面が適当につながって、撮影開始まえに、映画館で上映されるのとほとんどおなじものが頭のなかに出来あがっている。そして第一が背景、第二が登場人物という順序で想像力がはたらくから、一例として高原地帯が浮かびあがると、そこに放し飼いになっている牛や羊とおなじように、俳優がみえてくるといったわけである。
・エンタメに徹する、職人に徹する
自ら「めまい」を失敗作と評した理由もそこにありそう。
観客は恐れ、苦しむことを意外に喜ぶものである。但し最後にはその苦しみや恐怖から観客を必ず解放してやらねばならない。たとえば時限爆弾を中心にサスペンスをつみ上げて行く場合、最後にその爆弾を決して爆発させてはいかんということだ。わしは若いころ、観客が、ホッとした途端に爆弾を爆発させて大失敗をやったことがある。
残念ながらわしは映画ファンじゃないのでね。(笑)わしは孤独なる映画技術者じゃよ。
・人間は描かない、ジョセフ・コットン「第三の男」との比較
アカデミーに嫌われ、一段低く見られた理由もこれだと思う。
芸術性、文学性で常に比較される。
私も「めまい」が1位なら、なぜ「第三の男」でないのかと疑問だった。
キャロル・リードの演出手法が登場人物の性格を非常に重要視してる
<中略>
キャロル・リードはスリラー的な演出において驚くべき冴えかたを見せるが、だたのスリラー映画監督とみなすことは絶対に出来ないのである。もともとイギリス作家は、純文学の面においてもスリラー的要素をたえず繰り返し作品のなかに加えてきたのである。
ヒッチコック映画の場合は逆で、細部の演出で印象に残っている大部分は、人間そのものでなく、なにか別のものであり、
・ヌーベルバーグ世代による作家性の再評価(by宇多丸)
この説明については、前出の宇多丸評が詳しいか。
手塚治虫の「新宝島」に感銘を受けた、トキワ荘の面々みたい。
トリュフォーが、彼の四十九作品をすみからすみまで知っていた
ああ、植草甚一って、生き方も文章も洒脱ですね。
関係ないですが、
今の時代の満足では、満たせづらい満足があります。
道楽。旦那。
そんな単語も浮かびます。
なんだか、懐古趣味的になってしまった。
というか、
表面的な刺激、外側からの満足に、
私も囚われ過ぎということ。
コロナの中でも、良い時間の過ごしかたと思う。