「かそけきサンカヨウ」水彩画のような映像と説明セリフのハイブリッド 機械のような人とアタッチメント・タイプ

ミニシアター系の映画に、その大衆性は必要か?
敢えての実験なのか、ただの妥協なのか、
私には、少し黙ってろよとセリフはノイズでした。映像だけでいい。
 
サンカヨウは水に触れると透明になる、6月に咲く高山植物だそうです。
清らかな背景に溶け込んでしまう、その水彩画がモチーフの原作。

 
映像へのこだわりは、さすが。
愛がなんだ」の今泉監督、スクリーンで観れてよかった。
場面転換も上手い。
 
一方、脚本は典型的な日本映画。
セリフで説明しないと課税でもされるのでしょうか。
 思春期の主人公たちは、自分の微妙な恋愛感情を理路整然と言語化し、滔々と説明。
 劇伴もここはハラハラする場面ですよと、極めて説明的。

映像の芸術性の高い表現力。
ロケーションも美術もフードもホントにオシャレです。
そこに音響全般のベタ、極めてダサい。
 日本映画の悪癖とも言える、
 全てをセリフで説明する演出。
ノンバーバル(非言語)な感情表現は、極力抑制されます。
 
それを台無しと見るか、賢い割り切りと判断するか、
いち観客としては前者ですが、なんとも切ない。
  
 顧客は誰か?(byドラッカー)という命題は、仕事なので常に問われます。
 まあ、この資本主義社会の仕組みの中で、
 品質にだけこだわっても生きて行けない。
 
 機械のような人々に接する時間が増えるのは虚しいことですが、
 誰に、自分のサービスを提供するのか、まずはそこから。
 
 
最近、職場というものに接してみて、
ゲームのルールの理解が一番大事だったと痛感します。
その環境に最も適した生き物が繁栄する。ように出来ている。
適者生存、それが世界の法則。
まざまざと体験させていただいております。
 
自分の咲くべき場所でなかったよ。
悩んだり、憎んだりする必要はなく、
この映画の登場人物のように、割り切って生きられたらなと、
そういう再確認をしています。
 
 

アタッチメントタイプを紹介した本を読んだことがあり、 

これは恋愛に限らず、人間関係全般に言えることで、

Sタイプ(安定型)の人にとって、相手と親密になることは自然なことです。また、このタイプの人は温かく愛情深い人柄の人が多いです。

Nタイプ(不安型)の人にとっては、パートナーとの親密さはなくてはならないもので、時には相手に夢中になりすぎたり、愛してくれないのではないかと不安にさいなまれたりします。

Vタイプ(回避型)の人にとっては、親密さは自由の喪失を意味するので、交際している相手がいても、常に距離を置こうとします。

人はこの3タイプのどれかに分類され、
遺伝子による決定要因と、次いで幼少期の体験によって決まるということです。
私がSタイプでないのは、
 遺伝的要因と、
 子供のころ発達障害な人と関わらざるを得なかったこと、
が大きいのでしょう。

高校生カップルはどちらもV。父親の井浦新もV。
生みの母の石田ひかりはNかS。継母の菊池亜希子はS。
のように描かれています。
 
井浦新の理知的で善な父親だけど、
愛情的にはちょっとヤバいかもしれない。相手がNタイプだと破局するだろう、
と匂わせる演技は絶妙で、
説明セリフをそうと感じさせない、表現力がありました。

逆に、
ヒロインの志田彩良は、監督のプランどおりというのは解るのですが、
感情を爆発させても機械のようで、
本来抱えているであろうはずの悲しみは伝わってこない。
それはセリフで説明されるから共感出来るというものでもないし。

とにかく、犬顔が好きな監督ですが、
「愛がなんだ」の、岸井ゆきの&成田凌のように達者な高校生が居たなら、
説明セリフに頼る演出ではなく、
 ああ、こういうヤバい人いるよね。
ってリアリティと共感は生まれただろう。
 
 
志田彩良は本来、
笑顔の使い手で、表情の魅力がストロングポイントと思う。
ちょっと資質に合ってない役柄か。
 友人として距離を置いて付き合うには良いけど、
 告白されても恋人はちょっと無理だなぁ。と観てました。

 中井友望の方が可愛いし、表情も豊かなので、
 貧富の差とか関係なく、こっちを好きになるのが自然。

ノンバーバル(非言語)な感情表現に乏しく、
全て言語で理路整然と説明してくる異性は不気味。
感情を乗せずに怒る人は怖い。恋愛対象にはキツイ。
 
後半は心臓に持病を抱える王子様な鈴鹿央士がメインで、
感情の言語化による説明はより加速する。
プランどおりなので非情に忠実な遂行とは思うものの、
 
かそけきという、単語から湧くイメージとは違う、デジタルなもの。
消毒されたような、無味無臭。
グルーブを排除したリズム。
  
映像はたしかに繊細でオシャレだけれども、
違う役割を託された音響は、常に明確な説明を義務付けられる。

劇中、井浦新が劇伴を付ける仕事で、娘に感想を求めるシーンがあり、
 ”最初のは恋愛、二番目は友情” とのセリフをもらう。
そのセリフに合わせた発注が先にあるのは解るけど、
 劇中劇も説明セリフで、演者に表現はさせない。
 セリフ中のBGMは会話の邪魔。
 
このシーンに、そこまで説明的な劇伴必要なのだろうか?
確信犯なんだろうけど、
 
このストーリーで、この映像なら、
違う演出プランとセリフで観てみたかったな。
せめて、黙っててくれればいいのに。
クレバーなのは分かるけど、残念ではある。
  
かそけき という単語がよくなかったのかもしれない。
どうしても、
 おとのかそけきこのゆうべかも
が想起され、音響効果と叙情を連想してしまう。
その準備で、無機的でヴァーチャルな会話の応酬は辛かった。
映像が美しく繊細なので、なおさら。
  
 
日常、マニュアル君の相手するのが嫌なのとも通じる問題で、
自分の愛着障害が発現してるとは思うのだけど、
 機械のような人間より、人間のような機械の方が、
優れたる存在だと実感する今日このごろ。
 
苦手を避け、そこに存在しないものを求めないことの重要性。
それが体得出来たら、日本卒業なんだと、実感があります。
この世は適者生存ですね。
 
 
あえて、次は↓観よう。濃い味付けで、
手練な高校生役を鑑賞する満足は得たい。

山田杏奈が高校時代の綿矢りさ先生に似てるので、
ミスキャストはないと踏んでいる。

 

 
 
 

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