「異端者の家」ヒュー・グラントより銀シャリ橋本が怪演、「完全教祖マニュアル」より一般論の寸止め。「キリスト教でたどるアメリカ史」「なぜ、脳は神を創ったのか?」


youtubeのレビュー↑を見ました。
イマイチと言いながら、宗教に不案内だからかも、と含みを残していました。
もし予習してから観たら面白いかどうか、確かめたくなり、予約。
無知を装ってますが、承知の上で低評価のようです。
必要な知識は動画内で解説されていました。
  
本作は、感想UPする映画系がやや多めなのですが、
話題作しか取り上げない人の好評は招待で、PRの一環かと疑ってしまう。
とはいえ、
現在Filmarksで3.6と不評とも断定は出来ない。
むしろ、そこそこ高評価というべきか。 
 
  
まあ、百聞は一見にしかず。
予習は、範囲広げると桐が無いので、いわゆるモルモン教についてのみ。
ウィキペディアが充分過ぎるほど詳しいので、それで充分。
末日聖徒イエス・キリスト教会
創価学会が日蓮宗じゃない的な扱いでしょうか。

宗教学上ではキリスト教系の新宗教に分類されている[1][2][3]。「プロテスタントの一派[注 2]」と定義する見解もあり、日本の文化庁が発行する宗教年鑑では「末日聖徒イエス・キリスト教会」はキリスト教の中に数えられている[4]。一方、教義の違いから一般的に正教会とカトリック教会およびプロテスタント教会諸教派によって、末日聖徒イエス・キリスト教会は主流のキリスト教とは区別され[5][6][7][8][9][10][11]、「異端」視される[12]。

同時期に開始した天理教もいろいろあって、奈良に落ち着いたような。

ジョセフ・スミス・ジュニアによれば、彼は14歳の時(1820年)、当時激化した教派間の争いや矛盾に疑問を抱き、新約聖書『ヤコブの手紙』1章5節を読み、どの教会が真実であるかを神に祈り求めたところ、父なる神とその子イエス・キリストが現れる示現を示され[15]、言葉を交わしたとされる。スミスによれば、イエスは「(既存の)いずれの教会もことごとく誤っているため、あなたはどの教会にも加わってはいけない」[15]とジョセフに告げ、イエス・キリストの教会を再び地上に回復するためにジョセフを預言者として選んだとされる。
-中略-
後を継いだブリガム・ヤングはアメリカ合衆国連邦政府と対立(ユタ戦争など)と譲歩を繰り返しながら、教会の一団を1846年よりイリノイ州より西部に移動させた。1847年に彼らが到達した地域は、1850年にユタ準州として承認された。

聖書とモルモン書、カフェインとコーラ、下着。は映画でも出てくる。
教祖の一夫多妻制とその廃止は、論争の的になるのも分かる。
 戦争未亡人救済のような共同体の社会福祉かもしれないし、
 カルトなだけだったかもしれない。
さらに、
劇中の避妊インプラントの件は、純血の律法絡みで、
 子孫繁栄を目的としない、性行為の快楽が罪なのは、
 自分磨きの語源が聖書の故事なことからも想像に難くない。
人工中絶の是非は毎度、選挙の争点になる。
 
私の知るモルモン教と言えば、
ユタ州のケントさんがTVに出てたことと、
80年代の変哲もない関東の地方都市での記憶。
 自転車でワイシャツ姿の若い白人のお兄ちゃん2人が、
  アナタは幸福か? 神を信じるか?
 と日本語で、現地のぼーっとした学生に問うていた。
  信じない訳でもないが、、(多分、お兄さん方が信じる意味での神と違う)
 と答えたような気がする。

私は新宗教とただのキリスト教の一派の区別もつかずにいた。
それはさておき、映画館へ。
  
 
冒頭のプレゼンで主人公乙女ペアが伝導している。
ある年齢に達すると布教活動をするのが宗教的責務らしい。
トニー・ジャーが仏門に入るようなものか、
そこで、
自転車、下着、コーラなどのエピソードからも、
アメリカにおける、かの宗教の扱いが分かるという構成。
 
ヒュー・グラントは無神論者で、ヒロインズは宗教二世。
役者陣のリアルな信条のため、演技にも真実味を与えている。みたい。
 少女2人が現実に受けたことの葛藤と、
 人間の欲と弱みに付け込んだビジネスへの憎悪、
確かに、ヒシヒシ伝わった。
 
一方で、演出とカメラは感心しませんでした。TVみたい。
映画的な映像の趣きは感じられず、音楽はアメリカ映画らしいベタ。
説明ゼリフは避け、メタファーを多用するのですが、
そこまで分かり易くやらんでも。
コメディ要素は笑ってしまいましたが、あれで怖がれと言われると、、
余韻を感じられず、うるさく押し付けがましい印象が残ります。
 
ストーリーが評価分かれるの当然でしょうね。
私は否定寄りです。後半の失速感は否めない。
プレゼンの終盤、
 ”パイが焼ける”というので、ヘンデルとグレーテルだと身構え、
 乙女だけのペアなのだから、青ひげ系だと想像します。
概ね、展開は裏切らないのですが、
 脱出ものとしては、淡白過ぎて物足りない。
 神学論争は、物議を醸さない程度で引き上げる。
竜頭蛇尾とはこのこと、と残念。 
その題材なら断然こっち↓。面白いし、遠慮が無い。
 
どれも秀逸ですが、リバイバルの解説↓。 

既存の宗教から発生して、教えにオリジナリティを加えたり、一部を否定したり、先鋭化したりして、自分たちの宗教としてやっている方が遥かに多いのです。
-中略-
あなたはまず仏教、キリスト教などの伝統宗教、もしくはそれなりに歴史のある新興宗教へと入信します。しばらくはそこで真面目に信者生活をして下さい。すると、どうしてもそこの教えに対し、「これは現代的感覚に合ってないな」と思うところが出てくるはずです。そうなればチャンスです。その「合ってないな」と思うところを適宜修正し、別の一派として教団を立ち上げるのです。もしくは、「形式主義に陥っているな」と思ったら、「もっと信仰中心にしようぜ!」「格式ばったルールなんか必要ないぜ!」などと呼びかけて下さい。これも独自の一派を作る契機となるでしょう。
-中略-
このような「焼き直しパターン」であれば、神も教えも最初から用意されているので、とても楽チンですね。あなたは他の宗教に入信することで、神も、教理も、仲間も手に入れることができるのです。

 正典にモルモン書を追加しただけでなく、
 三位一体と原罪をも否定するらしい。
これが異端の根拠だそうです。
まあ、正統の確定が2世紀頃と言われ、百年以上後の人間の所業ではある。

宗教は軌道に乗ると硬直化します。そして、硬直化すると「基本に返ろうぜ!」という人が現れ、別の一派を作ります。しかし、それもそのうち硬直化します。この繰り返しは様々な伝統宗教で見られてきたことです。 なぜ、宗教は硬直化するのでしょうか? それは宗教が組織化するからです。元々、宗教というのは個人の霊的体験がベースになっています。霊的な体験をした一人一人がまず先にあり、それが集まったのが教団だったわけです。しかし、教団が軌道に乗って大きくなってくると、今度は逆に個人の霊的体験を危険視し始めるようになります。指導者の言うことを聞かなくなったりしますからね。

三位一体の否定が既存の組織からの逸脱なのは、分かりやすい。
儒教のように、教祖の神格化によって、組織が権威付けは行われる。
逆に、
正典を読んで ”本人は自分が神だと言ってない” と既存の権威を否定してリバイバル。

原罪が否定されては、
救世主による人類救済の根拠が危うい。
バビロン捕囚出エジプトの頃は、
民族にとって、救いは切実な問題だったと想像します。
これが、
あまねく万人を救済すると、路線変更してこそ、
仏教のように世界宗教の資格ですが、
時代が下り、
新大陸で独立戦争の最中では、また事情が異なり、
コミュニティに属し、救済を求める切実な理由があったのでしょう。
 
経営が軌道に乗ると、いずれ原点回帰運動が必然的に起こる。
本書を読むと、時代の転換期こそ、教祖のチャンスだと分かります。
 大航海時代に活字の普及とプロテスタントとか、
 第一次大戦で石油の利権とサウジアラビアとか、
 戦乱と武家の時代で鎌倉仏教でもいいけれど、
  
その上、救いを与える以上、反社会的なのは必定とのこと。

皆さんは教祖となって人々をハッピーにするのがお仕事ですが、そもそも、現在不幸な人というのは、社会の提示する価値基準に照らして不幸なわけです。つまり、貧乏だとか、恋人がいないとか、出世できないとか、そういうことで不幸になっているのですから、あなたは彼らに社会とは別の価値基準を提供すれば良いのです。「お金なんかない方が幸せだ」「家族など修行の妨げである」「世俗の出世に何の意味があろうか」などなど。どれも反社会的ですが、こうすることで社会的弱者である彼らを、別の価値基準、つまり、あなたの提供する価値基準でハッピーにすることができるのです。 ですから、あなたのすべきこととは、①社会の基準で幸せになれない人を見つける、②反社会的な基準を与えてその人を幸せにする、ことだと考えて下さい。

海を渡った人達にも、行った先の既存の社会に不満はあったのでしょう。
コミュニティは最終的に、政府と戦争にまで突入するのですから。
 
映画も、
ただリバイバルだと指摘するだけでなく。
新大陸で定石通りに新宗教が興る。その経緯までヤッてよ。
”人間が神を創った” と言っちゃえばいいのに、寸止め。
 
 
映画サイトの感想を眺めると、
”モノポリーがどうのこうのが面白い” との評が多く、
脱出ゲームとボードゲームがシンクロするのかと、期待してハズしました。
カノッサの屈辱」にしても、もうちょっと攻めて欲しい。
土地占有と資本主義がテーマなら、
キリスト教の役割という視点で、
 奴隷と植民地、先住民への迫害へ言及し、
 独立から南北戦争へ突入、
くらいまでは歴史を反復しても、いいんじゃないかな。
 
詳しいことは分からんけど、
 ピューリタンが新大陸に渡り、
 プロテスタント内部で対立し、分裂。
 さらに新宗教も興る。弾圧や政府軍との戦争。
折角、モルモン教なんだから、一般論で寸止めすんなよ。
媚びずに喧嘩しろとは無茶な要求だと、冷静な今はそう思うけれど、
上映中は反感を覚えてしまった。
 
趣向は興味深いんだけどねぇ。もうひと頑張り欲しい。
部屋の中に”鹿威し”が”チェーホフの銃”じゃないとか、やる気に欠ける。体力が無い。
 
 
かつてのラブコメの帝王が老いて魅せる怪演は素晴らしいけれど、
立て板に水なら、ツッコミモンスターの狂気と比べてしまう。

映画を観て、この動画↑を連想せずにいられなかった。
企画会議を想像してしまった。
 A24の新作を試写で観て、
 ”テクニックを抜いてあげよう” との組み合わせを思いついたのなら、
 常人では及ばない企画力。
 
うんちくオジサンが、うら若き女子達を饒舌で追い詰める恐怖。
映画は、
「スパイダーマン」のセリフでジェネレーション(と教養の)ギャップを表し、
 天丼で回収するのだが、
動画は、
 橋本は多分ワザと、乙女達がポカンとする題材をチョイスしている。
 尾崎紀世彦は流石にリアルタイムじゃない。
 個人的には、V6の見立ては芸術点高いと思う。
 
映画では、
 アレンジを変えただけのリバイバルとの指摘に、
 ”違いの方に着目して” と乙女は反論し、
 観客は、それを聞いて確かにそうだと納得するが、なら、
 モルモン教はキリスト教名乗らない方が良くないかと釈然としない。
動画では、
 もしかしてドッキリかもとアイドルは想像し、
 恐怖に負けず、前に出ようとする。
 視聴者は、その健気さを応援もするが、キングボンビーが全てをさらってゆく。
 
連想しながらスクリーン眺めて、
 その脱出はいかがなものか?
と拍子抜けして、映画は終わってしまう。要素は多いんだけどね。
高評価には至らずでした。
 
 
 
作品そのものとは関係無いけど、気になって復習してしまった。
日本人には一神教の世界がピンとこない。

当時のアメリカから見れば、日本はキリスト教国でないという理由においても、やっつけるべき対象なのです。 
そもそも一神教は、いずれもそうであるように、唯一の神のもとに世界を純粋化する方向に常に力が働いています。世界を純粋化しようとする力が、宗教的な求心力を維持、強化する源泉になっているわけです。 
逆に言えば、ひとたび世界を唯一の神のもとに純粋化しようとする力が失われれば、宗教としての力を失ってしまいます。たちまち逆回転が始まり、キリスト教も、ユダヤ教も、イスラム教も、求心力を失って解体せざるをえなくなるでしょう。もしそんなことが起これば、一神教によって成り立っている諸国は、衰退の憂き目に遭うに違いありません。

かつて、私は衝撃的な体験をした。
一神教同士の殺し合いの時事ネタが話題になり、
 ”愛を説く宗教が何故殺すのか?” と老人が、お花畑に発言し、
 ”戦争は為政者の洗脳ウンウン” と戦後教育に染まった若者が主張。
島国根性ではそう眺めるんだと、
まあ、
私の旧約聖書体験を思い出したりしたのですが、それはまた別のお話。
少なくとも、この極東の人達は、歴史に学ばない。

宗教戦争は、日本人にはなかなか理解することが難しいテーマです。なぜなら、万物に神が宿るという思想を持つ日本人は、ひとつの神に純粋化しようとする求心力がいかに強いかという点に、いまひとつ理解が及ばないからです。

”オレかオレ以外か”の二択で、過酷な砂漠の環境で生き延びる。
別に理解が及ばなくても温暖湿潤な生活に支障は無い。

一神教において、純粋化の求心力は、自分たちだけが人間だという強烈な思考になって表れるのがつねです。 
たとえば、奴隷貿易の成り立ちについて、次のような歴史的事実があります。 
1600年にインドに渡り、肌の黒いインド人を見たヨーロッパの貿易商が、同行した神父に、「この肌の黒い人は人間ですか?」と尋ねました。バチカンには、その記録が残っているそうです。このときの貿易商が、有名な東インド会社の人物たちです。 
そのとき、神父はその場で答えを出さずに、バチカンに質問状を送ります。すると、しばらくしてバチカンから、「人間ではない」と記された返書が送られてきます。それは、「インド人はキリスト教徒ではない」という理由によるものです。 
ヨーロッパ人がアフリカに渡ったときにも、同じ手続きが行われました。

 南部の保守的なキリスト教が「イージー・ライダー」を撃ち殺し、
 一方、カリフォルニアの多様性界隈も、魔女狩りに忙しい。
違いを違いと知って、安易に真似ない方がいいと思うよ。
折角、秀吉が激怒して、
奴隷狩りと植民地支配を追い払ったのだから。
ポツダム宣言受諾したとしても。
 
 
煽動的でなく、真面目に歴史に学ぼうと私は改心した。

詳しすぎて、アメリカのキリスト教の派閥を整理し辛いのと、
先住民迫害や黒人奴隷制に対するキリスト教徒の言い訳がくどいので、
とりあえず、モルモン教の歴史だけ押さえる。

はじめ六人で出発した彼の教会は、新しいエルサレムがアメリカに幕を開ける、という終末預言によって急速に信徒を増やしていった。
-中略-
彼らは行く先々で集団の共有生活を続け、教会や学校や銀行や私兵団などを作ったが、一夫多妻制の教義のためさらに激しく迫害されるようになり、スミスはついに四四年に暴徒たちに遭って殺害されてしまう。後継者に選ばれたヤング(BrighamYoung,1801-1877)は、イリノイの定住地を離れてふたたび西進することを決意する。約束の地に選ばれたのは、当時西部探険でようやく知られるようになったロッキー山脈中のソルトレイク(SaltLake)盆地であった。 時代はまさに、メキシコ戦争の勝利によってカリフォルニアが併合され、そのカリフォルニアに金が発見された時であった。
-中略-
国際的な不況にあえいでいた人々は大挙して西部の開拓地へ向かい、並行してユタの人口も爆発的に増加していった。人口が増えると次の課題となるのは、州としての合衆国加入である。しかし、ここでも多妻婚の教義が問題となり、それを肯定したスミスの著作が出版されると、合衆国政府は加入を却下した。教会は内部からの疑問の声や外部からの法律的・経済的な圧力により、九〇年にようやくこの教義を放棄したため、その六年後に州へと昇格することができた。

ユタ出身でブリガムヤング大卒から49ersで優勝、に歴史あり。
QBは白人ばかりと言われた時代のサウスポーは末裔だったのか。
M-1王者に習い、
若い女の子に伝わらない、昔のスポーツネタ思い出しました。
 
ま、あの映画が、日本でどう受け入れられるのかは分からない。
宗教ネタが伝わるかどうかは、置いておいても、
個人的には、
脱出ものとして、
もうちょっと艱難を乗り越えて欲しいと願った。
その上で、奇蹟を起こして欲しい。
 
尻すぼみはちょっと、興醒めだった。 
  
 

後に伝導に生きる開祖の映像↑が残っている。
隣の色っぽいお姉さんが吉田美奈子だと知り驚愕。
ちなみに、
ロックの曲に日本語を乗せる宗教戦争が日本にかつてあり、
 さよならベイビー派に、
 シェキナベイビー派が噛みついた。
 ファンキーモンキーベイビー派は自由で、後に桑田佳祐を産んだ。 
その流れに十字軍やGSは軽視されガチ。ムッシュは英語でなくフランス語だからか、
再評価、解説してくれる音楽系youtuber↓は価値が高い。
 
 
 
2025.04.28 12:30現在
MACDがGCから始まり、細かい陽線連発で20MAを強く抜け、
9月の谷を超え、バンドウォーク前を伺う。 
と先週のNYの金曜を終える。
今週日本での始まりは、さらなる上昇ほどの勢いは無く。
売り玉のツナギも入れつつ、ぼちぼち買い玉手仕舞う方針でいます。

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