旧約聖書からの遺恨を、戦後教育でファストに判断するのは無知の無知。人間だもの。「私の旧約聖書」「旧約聖書を知っていますか」村上春樹「沈黙」

”愛を説く宗教なのに” とネタニヤフ政権にご立腹。(多分首相の名前は知らない)
先日、そんな老人と会話した。彼はハマスの名前も思い出せない。
2千年より昔から殺し合ってる人達に対して、
戦後教育の洗脳は、あまりにも薄っぺらい。
 
 ”殺すな” はあくまで内輪向け。
 聖書の記述でも異民族、異教徒は容赦なく皆殺し。
私の知りうる範囲のことを事実として伝えた。
 
 砂漠の一神教の世界で、日本人のお花畑な生存競争は通用しない。
 遊牧民の歴史舐めんなよ。略奪は生きる手段である。
”為政者の都合よい記述”という、れいわ信者のような他の反応もあり、
事実より私の実感強めで説明した。そんなヌルい世界じゃないと。
 
 
ごく希な期間、ごく限られた地域でのみ成立するイデオロギーを、
時空を超えて普遍の常識であるかの如くに、刷り込まれて、
私達は育てられてきた。 
自分の無知は自覚できず、調べること無くファストに判断せよと。
均質な社会が感覚を麻痺させる。
 
人としての見識に人生の先輩とは思えない、
そんな人達から逃れるには、本から知見を摂取するより当時は無かった。
もっとアッサリ、見捨てる愛を行使できたら良かったな。

村上春樹「沈黙」という短編を最近薦められ、そう思った。
Audibleで聴いてみた。

なるほど、そういう仕掛けか。高校の教科書に載っているという。
 
 結末に近づくにつれ、”信頼できない語り手”かと身構える。
 が、ノーベル賞候補はそんな安いことはしない。狙いはそこじゃない。
 
  一見、優等生の計略にまんまと騙される周りのその他多数。
  そんなイナゴな連中を非難してるように仕向けておいて、、
  からの、
  語り手の言い分を素直に鵜呑みにし、優等生を悪者にする善悪二元論。
  そう結論づけるアンタがイナゴなんだよ。
  限定的な情報で、自分の正義を1ミリも疑わない。それがファスト思考。
 
 うーん、きっと、 
  いじめの傍観者も悪い、
  自信を持てば立ち直れる、
  担任は旭川みたいな自己保身。
 などの意見を高校の授業で引き出してから、
 反転させる。
 情報を多元的に精査しない、その思考習慣のメカニズムを説く。
 企画意図をそう想像したけど、役人がそんな指導するかな。
 もっと、簡単に処理するかも。
 
 それはさておき、
 ことわりを明かしても、イナゴは減らない治らない。
 自己認知力を改善するために、知能を向上させるのは人間の術では無理。
 諦めよう。
 ネット上では、まんまとイナゴな感想も散見された。
 世間とはそういうもの。人間とはそういう生き物。
  
 読後の最初に訪れる私の感情は、それとは関係なく。
  厨二病を克服できず齢を重ねるのは、シンドいね。お互いに。 
  そう主役の独白を聞いて、ちょっと自分が恥ずかしい。
  逆に、この人が職場に居たら、できるだけ関わらないようにしたい。
  表面上は常識人でも、人間見た目じゃ分からない。
  いい歳して、自意識過剰、承認欲求丸出しに、恥ずかしいやら、気持ち悪いやら。
  これじゃ精神も病むだろう。
 身につまされる。頬が赤らみそう。
 
 
私利私欲という小さなスケールの話かどうかはおいて、
人間というものを知らずして、指導者たり得ない。
「出エジプト」って、そんな話だと読んでた。先導は扇動。感情は勘定。

人類の叡智を学ぶ前半「出エジプト」あたりを読み、
信仰とは何かを知る後半「ヨブ記」に感銘する。
全部は膨大だから、そう割り切った。

あとは、歴史は歴史として別途フォローする。
理解には背景知っておいたほうがいい。広く薄くでいい。
流れだけ分かっていれば、年号は不明で構わない。
 
 紀元前17世紀頃 ヘブライ人は飢饉が原因でエジプトに移住。
         後に奴隷にされる。
 紀元前1200年頃 出エジプト。ラムセス2世(多分)に迫害されて。
          集団を結束させる仕組みは必要だったはず。
 紀元前721年   アッシリア捕囚、北のイスラエル王国滅亡。
 紀元前609年   南のユダ王国はエジプトの支配下に。
 紀元前587年   新バビロニアがユダ王国滅ぼし、バビロン捕囚。
          この時期に、ユダヤ教の確立とされる。 
           艱難辛苦を受ける選民は、教えを守っていれば、
           いずれ救世主が現れて、勝利し繁栄する。
 紀元前539年   ペルシャの支配下に、捕虜は解放される。
            輪廻転生せず、1回きりの人生で最後の審判を受ける。
            終末に善と悪の最終決戦が起こる。
           などは、ゾロアスター教の影響と思われる。
 紀元前331年   アレクサンダー大王のマケドニアが支配。
 紀元前64年    共和政ローマの属州となる。  
  ローマの時代にイエス・キリスト登場。キリスト教的には旧約から新約へ、
  ユダヤ人が十字架に架けたと迫害の理由に。
 132年      バル・コクバの乱鎮圧。自治は完全に廃止、厳しい弾圧。  
  以降、ヨーロッパを中心に各国へ離散、
  迫害されながらも、ユダヤ教の宗教的結束は継続。
 
  それから、時代は飛んで。
 1920年     イギリス委任統治領。第一次世界大戦後にオスマン帝国から割譲。
 1947年     イギリスの3枚舌外交、国連のパレスチナ分割決議。
 1948年     イスラエル建国。アラブ連合との中東戦争の開始。 
    
 
文学にとっても大テーマである「ヨブ記」は、置いておいて、
 報われれることが目的の信仰は、本物でない。 
 現世利益に拝んじゃいけない。
そうなるには、それだけの歴史ありかと。
 
後年、聖書に予言が記述されてるという勧誘に対して、
 ”そんなことはどうでもいい。納得と信じることは別。”
その理由を信仰と呼ぶには、宗教者として、あまりに薄っぺらい。
なんて趣旨の指摘したりした。
それもまた別のお話。

西欧の作家たちがうらやましい。というのは、カソリックだろうとプロテスタントだろうと、あるいはロシア正教、ユダヤ教、イスラム教、それぞれが旧約に根ざし、そこから発展した信仰を生まれながらに持っており、その風土で育ち、挑む目標を躊躇なく旧約におけることですね。

 
 
色川武大は、私にとって大人のコーチ役だった。生きる知恵を教えてくれた。
彼の文章を読み、当時とある若者に電流が走った。

どうもサラリーマンの家庭とか、ぼくらのような職業とか、お金の存在から遠ざかれば遠ざかるほど、お金に対する恐れがなくなるんだな。薄くなる。なにか生きてて当然という気がしてくるんですね。
-中略-
なにか引き替えに、つまり血液銀行で血を売ってお金貰うような、あの感じから随分遠ざかったような感覚になっちゃって……。それぞれの暮し方がお金お金という時代でありながら、存外お金そのものとは遠ざかっているんじゃないかと思います。 

私の周りには”カネは命より重い”と説教してくれる博徒は居らず、
30万年住宅ローンで終身雇用を生きる方が多数だった。

たとえサラ金の問題であっても、お金の問題を離れて、素養の問題になってきます。ともかく自分でもって、なにかここだけは疑えない、ここまでのところはまず原理として了承しようという線を引いて、
いくつでもいいからその原理を持ってることなんじゃないかな、構え方としては。

根本の成り立ちが、日本人の感覚とは違うと最初に教わる。

旧約とは、旧い契約のことで、神と人間との相互契約が、まだ素朴なかたちだけれども、ここに出てくる。行末の幸せを保証してくれるから、神を信じ、神を敬う。旧約が面白いのは、人間が神とほぼ互角にわたりあっていくことなのですね。
いったん相互契約を結んでしまった以上、浮くも沈むも共同体、という感じがあって、だからこそ、イェホバさんに多少の欠落があっても問題にするに足りません。
私のような者が読んでいても、導入部ではいろいろ難癖をつけたくなるのですが、お互いコンビを作ってしまったあとでは、イェホバ氏が何をしようと、神は神、人間は人間、という図式がすんなり納得がいくのです。 こういう記述のしかたが、舌を巻くほどうまいですね。絶対者というものを、紙の上に形にしていくには、こういう書き方しかないでしょうね。他の書き方では、いくらうまく描いても、完全無欠というわけにはいかないでしょうから。

なるほど、カネを借りる話から始める訳だ。
税引き後、借金の元本を返した後に本当の利益が残ると知らず、
家賃収入から返済額を引いて利益とするような、
業者の説明に騙される、属性だけは良い人も居る。

戦後高度成長期に、与えられる前提で育っては、
作物がろくに育たない地域で奪い合って生きる民族のこと、
想像するに難しい。

農耕民たちは、自分たちの今持っている土地が、生活の軸になっておりますから、移動ということには大決心を要する。で、どうしても保守的になります。べつの言葉でいえば平和指向ですね。草食動物的です。そのかわり、間引きをするとか、次三男を抑圧するとか、大家族主義のような手かせ足かせを作ったり、必死に原体制を守っていこうとするわけですね。 
その点、遊牧の民は本来から移動が軸になっていますから、攻撃的、肉食動物的といいましょうか。 イェホバの神は、なにかというと、カナンに来い、あそこは乳と蜜の流れる理想郷だ、などといって、カナンの押売りをしますが、けっして現在地で生活を変革し、幸せをつかむべきだ、などといいません。絶えず移動を強いるのです。こういうところが、いかにも遊牧の民の神らしいですね。

父イサクも、弟の卑劣さをうよりは、兄のお人好しをさげすんで、弟にすべてをゆずりわたしてしまいます。ここではそのことが実にはっきり教訓として記されているのです。
砂漠に生きる者たちが、生きのびて繁栄を手に入れようとするときの処世訓でして、動物が、複数で産んだ仔の中から、不良品を整理していくときの姿に似ておりますね。

西欧では資本主義に育っていき、能力のあるところに富があつまり、結果よければすべてよし、という気風が生じました。 
日本みたいな島国は、異邦人がすくないので、人々はすべて親戚のようになり、馴れ合い社会の気風になります。そうして馴れ合い社会にふさわしい能力を持った者が、成功していきます。

 
 
ホントに、こんなこと言ってくれる大人は居なかった。

「どっちにしろただ従っているだけなら、エジプトにいた方が、荒野じゃないだけまだましだったかもしれないな」 
このあとで、紅海の水が左右にわかれ、イスラエルの人々が陸地と化した海の中を通ったあと、追いすがるエジプト軍は、元の状態に戻った海の中で全滅してしまいます。 
イスラエルの人々は海辺で死んでいるエジプト人たちを見て、一転して神を謳歌するのです。 
 我イェホバを歌ひ頌ん
 彼は高らかに高くいますなり 
 彼は馬とその乗者を海に投げうちたまへり 
 わが力はわが歌はイェホバなり
 彼はわが救ひとなりたまへり
 彼はわが神なり我これを頌美ん
 彼はわが父の神なり我これを崇めん
(〝出エジプト記〟第一五章一~二節) 
実にどうも、記述が実際的で、人々というものをこんなに具体的に表現している書物を他に知りません。

 
 
これに比肩しうる、こちら↓も読んでいた。

もっとダイジェスト。軽く読める入門書を目指している。
何にしても、
異教徒の目から客観的に聖書を読んでくれるのは、
異教徒には、ありがたい。

相談がまとまって、金の雄牛を作り、
「これが俺たちの神様だあ」
「エジプトにいた頃がなつかしい」 
像を囲んで歌い踊り始めた。
「ヤッサカ、サア、ヤッサカサア」 
文字通りの狂喜乱舞。 
モーセが帰って来たのは、このときだった。
「なんたる不始末、なんたる堕落」 
偶像を拝んではならない。儀式そのものが異教徒的である。まだ自分たちの唯一神が信じられないのか。 
烈火のごとく怒り、神の教えを記した石板を投げつける。金の雄牛を火の中に投じ、
「剣を取れ。牛を拝んだ者は、皆殺しだ。兄は弟を、弟は兄を、友は友を、隣人は隣人を容赦なく殺せ」
この日殺された者三千人……。

まあ、容赦ねえ。
と同時に、
指導者は大変だったろうな。とも思う。

ヨシュアも偵察に出た一人であった。
「俺たちには神様がついてる。戦おう」 
と訴えたが、
「神様も当てにならんからなあ」
「まったくだ」
 圧倒的多数で弱気派の主張に傾いたものだから、神の怒るまいことか。
「あなたたちは、まだ私を疑うのか。エジプトにあったとき以来の数々の恵みを、なんと心得ている!」
根性ができていない。やりなおし。
またまた神の怒りに触れ、おかげで四十年間カナン入りはおあずけとなり、イスラエル人は荒野をさまよい続ける。あーあ。

やっぱ、語りが上手い。専門家は得てしてプレゼンが下手だったりする。
 
やはり、この本でも文学者が解説する「ヨブ記」は素晴らしいのだけど、
それはまた別のお話として、
 
  
人は自分で想像できる範囲のことしか想像できない。残念な生き物。
自分含め、つい忘れがち。そんなこと、思い出した。
ま、余計なこと考えない方が、ここでの適者生存なんだけれど。

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