”無知の無知”の原典「自己矛盾劇場」。人間は諦めねば「日本人の9割が知らない遺伝の真実」諦めた後の生存戦略は微差が大差。「微差力」

”無知の無知”とは、前回までのあらすじ。
メタ認知能力が低いと、以下のような矛盾に自分では気付けない。
 多様性を認めない者は認めない。
 平和の為に戦う。
 ”一方的な意見を信じるのは良くない”という一方の言い分を鵜呑みにする。 
 
岡目八目で他人(演者)の滑稽を嗤うことは出来ても、
自分もまた観客でなく演者の一人である。と知らねばならない。
真の観客の条件は、自分を眺める視点と、他人を眺める視点が、等しいこと。
脳の機能上、大抵の人間にそれは無理な技術。
諦めましょう。逃れられない。自分も他人も、人間だもの。

本書の最終的な目的は、「自己矛盾」という喜劇を見て他人を笑うことではありません。その先があります。喜劇の登場人物の発言や行動は、それを見ている観客だと思っている私たち自身の縮図になっています。つまり、演者を見て笑っている観客(つまり私たち)が座っている(と思っている)観客席は、舞台上のセットの一部であり、私たちも「本当の観客席」から笑われているということです(図1)。

自己矛盾には三つの特徴があります。
 ①自ら気づくことはきわめて難しい(が、他人については気づきやすい)。
 ②気づいてしまうと、他人の気づいていない状態が滑稽でたまらない。
 ③他人から指摘されると「強烈な自己弁護」が始まる。

「自分が他人を見るときの目」と「自分が自分自身を見るときの目」は、私たちが自覚しているよりも何百倍も何千倍も差があるということです。 
自分から見ている自分には強烈なバイアスがかかっている(要はひいき目に見ている)ため、「他人から見ている自分」とは大きな差が生じているのに、それにはなかなか気づくことができません。
「言っていること」と「やっていること」の違いも、この非対称性から来ます。

自己矛盾は人間の知的能力と表裏一体の関係にあります。とくに自己矛盾におけるメタと非メタとの間のギャップと直接的に関係するのが、抽象化という、人間の思考の原点になっているプロセスです。

どの道自らの自己矛盾からは逃れられないということです。たとえ一瞬でも前者のスタンスを取ろうとした時点で、すでに自らの「無知の無知」をものの見事にさらけ出したことになるからです。

  
その程度の自己認知も出来ないのはヤベー愚か者だ、
との感想で終わるのは無しにしよう。
せめてもの自戒と諦め。あなたも同じ演者に過ぎない。
”馬鹿は死ななきゃ治らない”は侮蔑でなく、自己受容の言葉。
そう思うところまでが、前回のおさらい。

ところが、厄介なのは、
文字通り致命的な、”無知の無知”から逃れないと、
本当に死にかねない。

不確実性が高く、十分な情報や実績がない環境下においては、とくに「未知の未知」の存在が大きくなるために「無知の知」の重要性が上がるということです。技術革新による変化が激しい現代は、まさに不確実性が高いときです。私たちの「無知の知」の重要性が理解できるでしょう。

 見知らぬ治安の悪そうな(特に海外の)路地を歩く、
 チャートを眺めながら、仕掛けと手仕舞いのタイミングを計る。
そんな不確実性に挑みたがる習性があるなら、
 ”自分が知らないことを知らない”
から逃れたい。
チャーリー・マンガーが言うように、
賢くあろうとは思わないが、愚かであることは避けようと心がける。
ことは可能なのだろうか。

知っている人は知らない人を見て「圧倒的な優越感」に浸ります(図13の左)。ここでは、「賢い自分」と「愚かな他人」という構図を作って自分の優位性を示そうとして、教えたがったり、正そうとしたりということを一方的に行おうとするわけですが、所詮そこでの知識差は、文字通り「全知全能」のレベルから見れば「五十歩と五十一歩の違い」でしかないのです。

とはいえ、
”逆鱗”と”琴線”の区別がつかないのは、
聞いててストレスになるから、やめてもらいたい。
指摘は許してくれ。

「知っていると〈知っている〉」ことを中心とした領域のみで議論しているに過ぎません。要は、膨大な「知らないことを〈知らない〉」の領域に比べれば豆粒以下であると気づいていないことから生まれる「喜劇」である──というのが劇場モデルから言えることです。

そうは言っても、
戦後教育の洗脳が、時空を超えて通用すると錯覚するような、
ウィキペディアを検索する労力すら拒む怠惰に、
いつ感化されるか分からない恐怖がある。拭い難く在る。
微差とは言え、その微差が生死を分けることがある。

不確実性が高く、十分な情報や実績がない環境下においては、とくに「未知の未知」の存在が大きくなるために「無知の知」の重要性が上がるということです。技術革新による変化が激しい現代は、まさに不確実性が高いときです。私たちの「無知の知」の重要性が理解できるでしょう。

 
他のプレイヤーが愚かで慌てているときに、
自分はその逆のポジションにいないと、ゼロサムゲームで生き残れません。 
   
戦略としては、
 メタ認知的な愚かさは、徹底的に諦めて見捨てる。
 一方で優越感に囚われず、感情を捨て、微差にも拘り、判断材料とする。 
そう覚悟することにした。
 
 
徹底的に諦めることにした。 
 知能には個体差が厳然として存在する。
 個体差は遺伝+非共有環境(家庭以外)で決定される。
 歳を取るほど、元の遺伝に回帰する。

数学的な課題において言語能力がまったく測定されていないということはありえず、いろいろな種類の能力を統合させて使っています。このようにいろんな分野の能力を統合させる能力、それこそが知能だというのが一般知能理論です。 そもそもヒトの知能が創造的なのは、脳がいろいろな分野の知識を結びつけることができるように進化したからで、それが一般知能だと考えられます。そして、行動遺伝学のデータは能力の間の遺伝的なオーバーラップが大きいことを示しているのです。

また認知能力について、一般知能はおおむね5割以上が遺伝の影響で説明され、共有環境の影響もあることが図7からわかります。そして遺伝の影響力は成長とともに徐々に上がることもわかります。ふつう長く生きていれば、それだけ環境の影響が大きくなりそうな気がするのに、実際は逆です。

その上で、
苦手を避け、そこそこの優位でも成果を上げるよう、
環境を選び、振る舞うことが生存戦略。

遺伝的才能も有限なのです。 
人間がこの社会で生きていくのも同じこと。自分の持つ有限のリソースをできるだけうまく使い、周りの環境に適応して生きているのです。

しかし素質が「ない」ことに無理にリソースをつぎ込むより、別のことにリソースをつぎ込んだ方がよほど合理的です。

絶対優位にある「得意」なことがないとき、あなたの中で「好き」なことを選ぶ。あなたがこれまで生きてきた経験から、あなたのしてきたこと、できること、しなければならないことのうち、あなたの中で一番「好き」だと感じていること、それが比較優位です。それを絶対的な基準でもっとうまくこなす人はいるでしょう。しかしそんなことにはお構いなく、比較優位の能力としてやはり貢献することができます。 あなたにとっての比較優位は「ローカルな絶対優位」になりえます。 全国レベルの絶対優位ではないにしても、職場や家庭などローカルなコミュニティにおいて、一番の才能というものは結構あるものです。

素質を高められる環境を探求し、適応し、生存する。そして旅をしながら私たちは、「本当の自分」になっていくのです。
「かわいい子には旅をさせよ」といいますが、それは大人も同じ。私たちはみな死ぬまで旅をし続けるのです。

 
諦めた上で、そこそこの優位に着目する。
とかくこの世は、微差が大差。

次を当てればいいだけなのです。 
今より一歩先を読めばいいだけなんです。 
一〇年先、二〇年先を当ててもしょうがない。一〇年先は、一〇年先に当てるんです。 
常に、一歩先を読む。 
そして、一個だけ上に行けばいいのです。

わからないぐらいの微差なのです。 
どの業界でも、そのぐらいの微差です。先に宣伝した人の勝ちとか、そういう微差の世界です。全部、微差なんです。

 
ついでに、微差を積み重ねる要諦も学ぶ。

だから、空気読めない人って、「ここで、こんなこと言ったらマズイだろ」とかいうのがわからないのではないのです。 
本当にわからないのだとしたら、そのマズイこと、自分が言われたり、されたりしても、怒ったりしないのです。 
ところが、空気読めない人は、自分がそういうことされると怒るんですよ。「人に、ああいうことされるの嫌だ」とわかってて、人のことはわからない、って。 
そういうのは、場が読めない、空気読めない、ではなく、愛がない。 
人に対する思いやりがないのです。

小さなことで”違いを生む違い”に気付けない人の特徴ってあります。
他人のことは分かります。 

冷たいようですが、まず自分を助けてから人を助けるようにしないと、いい知恵は出ません。
脳の構造はそうなっているんです。
自分の脳は、まず自分を守る構造になっているのです。
だから、愛というものも、日ごろから「自分はなんとか食べていけるようになって、しあわせ」になったから、その次は「他の人がしあわせになるようにして」と、順番があるんです。

優先度の高い方から満たしてゆく。
一歩一歩の人と、地に足が着いてない人の差もありますね。

種の部分、神に感謝する。
そして、畑をたがやし、あとは天候を祈るんです。
作物が育つにはお日さまもいるけど、日照りばかりじゃなくて、雨もいりますからね。
だから、人間、むちゃくちゃ努力もするんです。だけど、神が作ってくれた命とうものに感謝。そして、努力したあと天候に恵まれ、お水に恵まれたことに感謝して、できあがったものを感謝して食べるという。
 
成功というものは、このパターンなんです。
人生、何においても、このパターンです。

コントロールできることと、出来ないことへの接し方、
その態度が全てではあります。
  
気持ち良くなっちゃいけないけど、
他の感情と違って、感謝はマイナスに作用しないらしい。
ただし、
効用を目的に感謝を口にする人を、信用しないようにしています。
 
 
やっぱ、有害なものは避け、
微差の優位でも成果が出る環境を選び、生きてゆきたい。
自分から見ての愚かな意思決定に運命を委ねるのは、タイタニックに乗るようなもの。
高い授業料を沢山払ってきたので、もう同乗するのも嫌だ。
孤独という対価さえ払えば、もう人と仲良くする必要も無いのだから。
諦めた上で、その感情は肯定したいと、ようやく思う。
 
 
 
さて、2024.06.26現在。
日経平均は4万円台回復を目指しています。
私は永らく待って、
ようやく報われるかもしれない時を迎えつつあります。
 
ファンダメンタル的には、
 アメリカ市場の買いが一服すると、日本に目が向く。
 中国から引き上げた資金が日本に流入する。
↓これは、材料視されたのかもしれません。
米政権、中国国有通信3社を調査
 
テクニカル的には、
 持ち合いからようやく、うわっぱなれ成る。
 2σタッチから、バンドウォークに至るかの攻防。
 
そろそろ手仕舞いするか、両建てなどの小細工するか、 
もう少し辛抱したいところですが、考えてしまいます。
ああ、もう少し粘りたい。
不動産のときもそうでしたが、
感情を使わなくなってからがスタート。 
 

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