現代文という課目は意味あるのか? 井上ひさし「握手」 どうやら時代は「国語入試問題必勝法」的忖度から、無意味(ブルシット・ジョブ)に耐える時代に。

村上春樹「沈黙」に続き、井上ひさし「握手」を読む。
国語の教科書に掲載されている繋がりで、作品の存在自体を知った。

 
現代文の試験対策の動画も一緒に見ると、
 
産業界のニーズも変わったのかと邪推された。
 
30年くらい前は、現代文の試験といえば、
出題者の意図を汲み取るという忖度。空気を読む能力を鍛えるものだった。
今は機械的な無意味さに耐える能力を向上させることに、目的が変わった。らしい。
AIの方が思考に優れている。
思考に頼らない労働こそ、人間に残された余地。
そう諭されているかのよう。
 
 
「握手」は「ナイン」という連作の大トリを飾る作品で、

「ナイン」は全体を通して、
 作者の自伝的要素が色濃く、
 高度成長期に変わりゆく東京の都市を舞台に、
 人生の機微を描いた、ノスタルジー色が強よ目の短編集。
 
ま、それはさておき、
「握手」を独立した一遍として読んでも、
完成度の高い、感動的な作品である。
それでいて、平易で無駄のない文章に巧みな構成。で長くない。
当に中学生の教科書に丁度よい短編である。
 
井上ひさしの信仰告白をかつて読んだことがあり、
(「モッキンポット氏の後始末」だった気がする)
信仰の問題を”手”で表すのは、如何にも、と思い出した。

わたしが信じたのは、遥かな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉をすこしでも豊かにしようと、荒地を耕し人糞を撒き、手を汚し爪の先に土を埃をこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり

三年後、わたしは大学に入るために、これらの師父たちに別れを告げ、大都会へ旅立ったが、大都会の聖職者たちはわたしを微かに失望させた。
-中略-
その手は気味の悪いほど白く清潔で、それがわたしをすこしずつ白けさせ、そのうちにわたしはキリスト教団の脱走兵になってしまっていた。

リアリストな作者らしい。
 
 
で、一方、
youtubeで確認した設問や解説には、軽く驚いた。
最近は、読めば書いてある答えが明確な設問しか問わないらしい。
これは隔世の感。
日本人の”気持ち好き”には、つね日頃から閉口してる私なので、
ウンザリが記憶に固定したのだろうけれど、
芸能レポーターなみに、”今の気持ち”を問う問題が当時は多かった。
 
解説動画の多くも、
指文字の種類など、意味や物語の構造を整理してゆくだけで、
書かれていないことを想像するようなワークはやらない。
 
 書いてあるのだから、読みさえすれば抜き出せる文節、
 辞書さえ引けば、意味を調べることのできる単語、
それらを問う意味があるのか、問いたい。
  
複雑な作品であれば、構成を分解してゆく作業は理解の助けになるが、
これだけ平易に書いてくれてるのに、その解説には必要性が感じられない。
文章のどこを抜粋すればよいか、
それを特定できる能力を有しているなら無意味な時間だし、
それが困難でかつ改善したいなら、
知能を向上させる別のアプローチを検討すべきだろう。
 
実際、一読して違和感を感じる箇所があり、
これは解釈が必要だと、私は判断したのだけれど、
一つだけ、正解とは思えない説明があったが、
ほとんどの動画はスルー。
答えがある設問にしか言及していなかった。youtubeを検索した範囲では。
  
答えのあることにしか関与しない。
その現代文の学習に意味があるかは別にして、
youtuberの態度には、むしろ清々しさを覚えた。
 
昔は、出題者に忖度する作業の無意味さが、散々と批判された。

懐かしく久しぶりに読んでみた。改めて、
 悪意ある民明書房のような入試問題が、まず素晴らしい。
 4択に、「北京の秋」と「続・社長漫遊記」が並ぶのがオシャレ。

「ここで大切なのは、設問に正しく答えるということだ。そうだろう。問題の文章を理解したってしょうがない」
「でもそうしなければ問いに答えられないんじゃないでしょうか」
「それがきみの勘違いだ。この種の問題は、原文とは無縁の点取りゲームにすぎないんだよ。そしてそのルールを知っているものだけが正解することができる。つまりそのルールをマスターすることが大切なのだ」

 ぐうの音も出ない合理にも痺れる。
 この世で生き延びる要諦も教えてくれる。

閑話休題、
現代文の問題は、サイエンスのように検証は出来ない、
出題者の主観に所詮過ぎない。
そして、それはテクニックである程度正解することも可能で、
そんな勝負を競っても、国語力は向上しない。
 
子供の頃から勝利至上主義では、武道としての成長は見込めない。
との理由で、柔道は中学生以下の選手権を廃止した。
当時の批判に対して、公務員の方々もいろいろ考えてはいるのでしょう。
 
しかしまあ、
均等で質の良い都合に合う労働者を育成すること、を彼らが意図しているのなら、 
正しさがどうであれ、決定権を持つ者に忖度する能力は、
日本で労働してゆく以上は必要であり、今でも指導するだけの価値はあるように思える。
 
もう、労働者にはそんなことさえ無用なのか、
孫正義は汎用AIに投資全振りしてるけれど、
時代を読む目を持たねばと、身が引き締まる思い。
  
  
とはいえ、
「握手」の解説では、
答えの無い領域に踏み込まない、解説者の頑な態度にも、やはり納得が行かない。
ビビってんじゃねーよ。
仮に、無意味な作業(ブルシット・ジョブ)に耐えることこそが、
現代を生き抜く上で最も大切な能力だったとしても。 
やはり、その解説の無意味さに納得が行かない。
  
しょうがないので、違和感を感じた箇所を抜き出し、
自分なりに納得ゆく解説を考えてみた。
内容は以下↓で再度確認。

 
 
0.類推する状況
0.1.卒園後は没交渉。語り手は施設に顔出しもしていない
 卒園後にやり取りがあるなら、最後の会食で話題に出るはず。
 
1.違和感を感じた箇所
1.1.”賑やかな天国にゆくために神様を信じて来たという”リロイ氏の告白
 そんな薄っぺらい理由で修道士(出家)続けられるものか?
 聖書にあるように、だいたい信仰は命がけで報われないもの。
 本当の信仰告白とは思えない。
 人と個々に接することが神様より大事になったという”解説”もあったが、
 生涯を捧げるには、軽すぎる。
 
1.2.最後の握手で、”痛いですよ”というリロイ氏の素っ気なさ
 涙を流してもよし、強く握り返してもよし、あまりに冷淡。
 ”ふざけて”そうしたという解説もあったが、ふざけている記述はないし、
 ふざける場面でもない。
 物語の構造上、始めと終わりを揃えるのはキレイだが、
 それだけでない理由があるはず。 
 
1.3.語り手はリロイ氏の死を快く見送るべきだ
 葬式にて語り手がNGサインを送る理由が、
  1.3.1.リロイ氏が他者への献身にかまけて寿命を縮めたことへのダメ出し
  1.3.2.死の前に何もしなかった後悔
 と、いくつかの動画でも”解説”されていた。
 それに異論は無いのだが、お話としては気に入らない。
  1.3.1は、本人が納得してるなら、大きなお世話。
  1.3.2は、0.1を根拠に、語り手には後悔する資格が無い。
 語り手の現実を受け入れない、駄々っ子のような態度が腹立たしい。
 ”幸運を祈る”と見送れよ。
 
2.一貫している箇所
2.1.具体的、個別に、一人ひとり、対応してゆくリロイ氏の信条
 エピソードも説教も、
 一人づつ最後の挨拶に来る(お別れ会でなく)ところも、一貫している。
 
2.2.一方通行な意思疎通。教師と生徒のような関係
 最初の握手は一方的なリロイ氏の思い。”逃さず、必ず庇護する”契約の証。
 エピソード内で、殴ったことと無視したこと、それぞれ受け止め方の違い。
 最後の握手は語り手の思いは伝わっていない。リロイ氏はそっけなく拒絶。
 
 
これが例えば、荻原浩なら、
最後は”えんがちょ”サインにして、ホロリとさせつつ清々しい人情噺に仕上げそう。
  
そうしないのには、理由があると思われ、
2.2を起点に、推理してみた。
一方的な意思疎通という切り口で、違和感を解消してみた。
 
 
1.1は、
 信仰を持たない日本人の常識に敢えて合わせた。と解釈。
 死の恐怖から逃れるために宗教は生まれた。とよく言われる。
 語り手を納得させるには丁度手頃と判断したのではないか。
 自分の死を受け入れるようにという、メッセージが裏にはある。
 
1.2は、
 自分の死を受け入れて欲しいから、情に流されて同調する訳にゆかない。
 敢えて、語り手の思いを拒絶したと見える。
  
1.3は、
 語り手は、リロイ氏の思いを汲まず、
 現実を受け入れない、駄々っ子であることを示している。
 
 
思いは一方通行だったと解釈すれば、解釈出来ないこともない。
ああ、信仰の問題といえば、
色川武大は「ヨブ記」で「カラマゾフの兄弟」に触れたけど、
 司教の遺体が腐るのは自然の摂理で、(寒いロシアでも)
 聖人の神聖さとも、信仰のあり様とも、関係なく受け入れたらいいのに。
そんな感想を得たことを思い出した。そういえば。
 
契約はあるけれど、意思疎通は常に一方的で、相互理解に乏しい。
 信じることと、納得することは別。
 功利を目的にする行動は信仰ではない。
 救われるとは、報われることとは似て非なるもの。
   
そんなこと言われても、、文化圏が違う。
 ご先祖様は天国に行けないのか?
理解は無くとも、
人糞まみれの手から、彼の献身を信じるくらいが異教徒には丁度いい。
 
キレイな人情噺に出来ないのには、そんな実体験があるのかもしれない。
 
 
まあ、サイエンスでないから正解は無いし、
数学の整数問題でも解く方が楽しい。

パターン(2乗ならmod3)で解けるのは同じでも、根拠も明快で、
忖度無用だし、ちゃんと頭使う。 
  
論理的思考と処世の術は別と、理系と文系に分かれたが、
三菱銀行の頭取が理系出身になる時代、
もういよいよ文系理系の別は廃止したらいいのに。
  
せめて国語の時間は、現代でも古典でも、美文名文を鑑賞する時間に充てたい。

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