自由を勝ち取ったことのない人たちが自由を腐らす。

http://sanpome.net/?p=1604

これの続きですが、
野次の問題から離れて、一般論に移ります。

リバタリアンはモラリストを母とする。私は常々そう思っています。
 
 
自由の敵は誰なのか?
何がダメなのか、ちゃんとやっておきましょう。

依存した人間の自由とは何か、よく分かります。
引用します。
http://ameblo.jp/tomaatlas21/entry-11882646203.html
 
この手の人達って、
実態は依存の肯定なんですよ。隷属した精神のガス抜き、
反権力のポーズを取ることで、自分に免罪符与えてるんですよ。
実用のチャンスない英会話の勉強みたいなもんです。

まあ、昭和の時代ならこれでも通用したんでしょうけど。
こういうのが、カッコ良かった時代もあったのでしょう。 
まあ、30年くらい前ならね。

今の時代を生きるなら、
嘴さえ広げてれば、何でも与えられた、
古き良き時代を懐かしんでも無駄。
 
 
自由を守るのは、内的規範です。
内的規範が無いから外的規制が必要になるのです。
反権力のポーズを取りながら、
権力側にこういう人間が結局、口実を与えます。

「議会に野次は、つきものです」
そうでしょうか?
イギリスの野次を肯定する一方で、何故か、
アメリカでは禁止されていることはスルーです。

自分の言ってることの矛盾に気がついているのでしょうか。
彼らの言う少数なんて、言うほど少数じゃないですけど。
ま、それはおいて。

「言論の自由が、セットになっていて、議会などでは、野次が飛んだり、
 場合によっては、殴り合いになったりするのが、自然であり、正常な状態なのです。」

これ、戦争の肯定なんですよ。
誰かから安全に「言論の自由」を与えられているから、
「野次が飛んだり、殴り合いになったりする」甘えが許されている。
そういう状態です。
 
話し合いで決着つかないから軍の出番なんですよ。
それが自然で正常な状態なんですよね?
平和ボケしてるから、こんなこと言っていられますが、

彼らには、
民族や宗教、貧富の差などで、
話し合いでケリつかない問題のリアリティがないんです。
ガバナンスが機能してることが無条件で、
それは、統治者への甘えであり、依存です。
 
 
自分達の自助で、クオリティ維持できないなら、
このレベルの人達に自由与えても無駄。
彼らのやってることは、そういう方向への作用を生みます。
 
 
昔、ニュースステーションで久米宏が言ってたことを思い出します。
うろ覚えですが、

ビートたけしのフライデー襲撃に際して。

「暴力に訴えるのは言語同断だが、ビート君の気持も分る」
こんな発言を時の権力者側の後藤田正晴にさせてしまって、
「報道の自由」だなんて、のんきに言ってたら、報道はダメになる。

久米宏は語気を強めていました。

 
で、今、マスコミってどうなったか、

役割を終えたということもありますが、
ダメなマスコミを助長したのは、日本の社会自身です。
 
自分達でクオリティを維持しようという自律(オートノミー)は、
そこにはありませんでしたよ。
 
 
ほんとに、そんな反権力のポーズが有効ですか?
 
彼らこそ愚民化政策の産物です。
 
自由を勝ち取ったことのない人たちが自由を腐らせます。
 
 
民度に相応しい政治では、もう通用しない。
今を生きる人には必要な感覚でしょう。
 
依存して生きて行けると思ってる。
が、そんなに世の中、安心したもんじゃないよ。
これからは。


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