本年中もお世話になりした。来年もよろしくお願いします。
最近は、ZOOMの活用が活発でありがたい世の中です。
オンラインの交流会とか出ると、孤独でないです。
まだまだ人間は苦手で、コミュニケーションには悩み、沈黙も怖いですが、
どうやら、
今の所エピソードは私は豊富なようなので、なんとかなります。
空気を凍らせる発言してみたり、
人の質を見極める質問してみたり、
いろんなこと試してみてます。
効用はあり、
優秀な人も居れば、無能な人もいる。
賢い人も居れば、愚かな人もいる。
心根の良い人もいれば、悪い人もいる。
そんな現実を得て、
ブループリントというかビリーフを書き換えようとしてます。
幼年期を遡ると、
私の周りには愚かで信用ならない人間しか居ない。という思い込みがあり、
しかし、どうやら、
現実は80:20の法則が効いてるようで、「しか居ない」は事実ではないようです。
ZOOMによって、日本国内のみといえど、多様性はあると知ります。
賢い人も居れば、愚かな人もいる。
どうやらこれが、今の自分に適切な信念のようです。
まあ、
過去を振り返りつつ、今と比較すると、
この世のまぼろしを生きてると、実感が迫ります。
やっぱ、人と関わって、手際が悪いのイライラするので、
この世のまぼろし実感できて、手際の良い映画見ることにしました。
キム・ギドク追悼。
まずは、思い出すのは「他人の顔」ですね。
自分の相手にとっての価値は何なのかという信念。が問われることがあるらしい。
この映画は、なんともコマシ屋っぽい男優さんが良いですね。
まあ、
こんな男とは切れて、信じても安心できる存在を選ぶべきと思っちゃいますよね。
執着から信頼が揺れたとき、自分が信じているものが問われてしまいます。
ああ、過不足ないな、
説明過多も、観客置いてけぼりも、演出家として有能とは言えない。
日本だと、ややもするとなんでも説明しなきゃ気が済まない、
客はバカだというテレビ的信念が蔓延してますが、
キム・ギドクの無駄のないチープさ。得難いものを観せてもらいました。
ストーリーを描いてから、必要なシーンをどのロケで撮るか、
たぶん頭の中で再編成してから、無駄なく撮影してると想像します。
撮るのが早いとよく言われる監督ですが、メカニックな資質を感じます。
ま、
早いのが偉いと勘違いしてる頭おかしい発言にも出会ったことありますが、
それはともかく、編集能力の高さは演出では大事ですね。
後年、
セクハラ・パワハラで訴えられて、バランス崩したかなとも思います。
責められる側になって、政治批判とか安い攻撃側に逃げた感は否めない。
あなたが社会に不自由感じるのは、政治とは違う話。
不可避な厄災に対処する術は持たなかった人なのかと、
時代が彼の問題意識を無意味化してくような象徴を感じてしまいました。
まさか、立憲民主党から死人が出るとは、
会食とか、ZOOMでやれよって、思いますよね。
くだらない批判はどーでもいいですけど、
会ってバレるなら、オフライン極力排した方がよいなと。
風の時代とか言ってますけど、昔でいうところのエイジオブアクエリアスですよね。
水平と依存は相性が悪いので、
キム・ギドクの批判は相性が悪い時代になったかもしれない。
鬼才なのは間違いないが、放埒よりは閉塞に相性がいい才能。
しみじみとしてしまいました。
アマゾンになくて、youtubeにあったので、久々に観ました。
この世のまぼろしを描いて、余すところなしと、大好きな映画なのですが、
この年末無性に観たくなりました。
ああ、ダニー・デヴィート繋がりで、監督がミロシュ・フォアマンなんだと、今更気づきました。
Netflixで、当時のジム・キャリーの憑依っぷりを流してるらしいですが、観てません。
youtubeでアンディ・カウフマンの動画と見比べながら映画は観てました。
ホントに驚異的です。
生前の彼にゆかりの人物が多数出てるそうですが、
現実なのか、映画なのか分からなくなっても、無理ないですね。
とてもゴージャスで優しくて残酷で、どこか虚無をまとう演出がいつも大好きで、
全盛期の松本人志みたいなカウフマンの軌跡が、まんまなので、
やっぱ人脈って大事なのかなって、思ったりもします。
演出自体はそんなに奇をてらわず、むしろ伝統的な手法ですが、
基礎力が高いってこういうことを言うんだなと、再確認しました。
逆に、
下手な演出って、
説明のため不自然にカット入れるから意識の流れ邪魔して、
観てる方がイラっとする。
そのメカニズムが分かりました。
ZOOMセミナーでストレスフルなの、ほんとに演出が下手ですよね。
有料でも途中でギブアップした方がよいな。
ま、それはさておき、
個人的にはこの映画のコートニー・ラヴが魅力的なのですが、
冷静に見ると美人というよりはゴツいですよね。
でも、好きです。
この映画と彼女の無頼がよく調和してると気づきました。
マン・オン・ザ・ムーンというのは、
舞台で一人ピンスポットを浴びてる姿のことだそうです。
人類が月に行ったのは未だにフェイクを疑われますし、
カウフマンは忽然と姿を消した。月よりの使者だったのかもしれない。
年末はしみじみと、映画観ました。
松岡茉優の「恐ろしい子」っぷりを世に知らしめた映画。
改めて観てもすげー。
特徴のない顔だからアイドルは諦めたって、マヤっぽいですよね。
漫画とは違い多才なので、
カンヌ女優なのにバラエティも達者って、
当時こじるりからしたらタマったもんじゃない、なんか同情しちゃいました。
大九監督は本作でも、奇をてらった演出をしてて、
それも松岡茉優あってこそ。
モブな人生でも充実を観せておいて、一転モブの悲惨に突き落とす。
あの演出は見事だと思うものです。
そしてまた今年、「私をくいとめて」高評価。
このご時世で、今映画館ゆく気がしなくて、、ちょっと辛い。
明日観にゆくかな。
ま、それはさておき、
特に衣装ですけど、色彩に神経細やかなの初見では見落としてました。
そしてなんといっても、
物語の構成について再認識しました。
松岡茉優は俯瞰して見ればモブキャラでも、それなりに充実した生活を送ってる。
と描かれて、モブじゃない王子様のイチとモブでウザキャラの二が登場。
インドア派の主人公に対して、ニがアウトドア派なのは設定が秀逸ですね。
イチにモブの現実を突きつけられて、
喪失のサイクルを経て、ニを受け入れてゆく。
そこまでの演出を改めてうっとりと堪能しました。
で、終盤に向けて、わざとヒロインに共感しづらくして、
並行的に、ニのウザさがひたむきさ転化してく。
これ↓の後半で語られるけど、
読者の感情移入が、マヤから亜弓さんに移ってくのと、同じなんだよね。
いくらなんでも、めんどくせー女すぎる松岡茉優に対して、
不器用でやりすぎだが、あくまでもひたむきで健気なニ。
そしてエンディングは今はなき黒猫チェルシーで、ニ目線の曲。
演出の手際だけでなく、
お話の構成も見事だったんだなぁ。
まあ、ホントに、
手際の良さに快感感じて、段取りの悪さにストレス感じる。
そんなこと思い出した一年でした。
直近で手際の良さといえば、オリラジの吉本退所。
誰も傷つけず、ゲスにも邪魔されず、スマートなもんです。
あっちゃんにとってもう、吉本のマネジメントいらないし、
シンガポールに移住するなら、尚更関係ないし。
それは当然の帰結としても、、
事務所より、相方を選んだ藤森慎吾が意外でした。
退所する理由は特に無いのに。
信頼が厚いのでしょうね。
信頼とは、
他者を必要とする側の取りうる戦略。
と最近学びましたが、
藤森慎吾にとって、事務所はどこでも、フリーでも選択肢はあるけど、
あっちゃんの代わりは居ないということなんでしょうね。
信頼には、能力と誠実さ両方が必要。
誠実なだけじゃ信頼には値しない。リターンが無い。
そして能力や価値は時間とともに推移するので、
youtubeでの成功は大きいかもしれません。
相手にとって長期的にメリットない関係は成り立たないし。
自分にとって有害な関係は切ってかなきゃなんないし、
信頼できない人ばかりではないと、ビリーフ書き換えて、
信頼という戦略を、見極めつつ使いながら、
人との交流増やしていく、予定です。
よいお年を。