円熟の枯山水、荻上直子「波紋」。コミュニティは心理的安全を担保する第三の場所。コミュニティ・ビジネス西野と中田の違い。中田への提言

ヨーロッパの賞レースに出せば、なにかは取れたと思うよ。

映画「波紋」はちゃんと面白いのに、
その表現力は、現代のありがちな大衆娯楽コンテンツと一線を画す。
 
TVの安牌野郎(by永野)には、怪しい集団は描けない。映画は現代を描く。
しかも、偏った思想の資本でなくフラットな視点。
 
水を売る信者ビジネスは本当に天才だと、感心するばかり。
教祖かカリスマか、パーフェクトヒューマンはたどり着けるか。想像を巡らした。
 
 
かつて宇多丸は荻上直子を酷評していた。
リスナーがカメラワークを褒めても、同意しなかった。
いや上手いよ、カメラに限らず演出全般。今は。
 ないものがあり、あるものはない。
今こそ説明過多な大衆娯楽でなく「波紋」をまっすぐ批評してよ。
 
現代日本社会では、与えられた帰属は息苦しい。
だから、第三の場所を選び直す。精神のバランスを保つ為にそれは必須。
テーマも素晴らしい。
水を売るって発見した人天才だといつも思う。
コミュニティで付加価値を付けて売る。もっと天才。演技も素晴らしい。
 
安心の後に、物語付きで売る。
信者ビジネスといえば、
師匠西野と中田のあっちゃんでは、どこが違うのだろうか、
夢と野望の違いは、意外と大きいかもしれない。
 
 
  
ガーデニングが趣味の夫が失踪して、妻は石庭を造園。
雨の中、笑いながら花壇の植物を抜いていたと、セリフで聞く。
 ”絶望を笑え”
コビーも的を得ている。これも正解。 
帰属ゆえの我慢と、帰属のない孤独。
演技演出ともに円熟の域。
 
アメリカ映画でも、現代漫才でも、説明と誘導で埋め尽くされて、
観客の想像力でレバを掛けることは、リスキーと拒否している。前回の続き。
安牌野郎が、と毒づく永野に自分を仮託してしまう。
 
「まつもtoなかい」は全方向に撒きすぎで低視聴率。深く絞るのは怖いんだね。
 なまじ能力が高いから、演者以外の仕事も成立させてしまうカリスマに対して、
 独特の脳内イメージを観客に見せるのなら、
 それを実現しようと汗かいてくれる技量ある専門のPや監督と組まないと。
 助言した佐久間プロデュースでやればいいのに。
 
「波紋」は、この表現を成功させるための、確かな座組あってこその完成度。
悪意の解放は言葉にしない。
人は皆、密かな思惑を抱えて生きている。
 見えていないものがあり、見えているものは無い。
現代ではあまり供給されない枯山水の表現をやろうと、
意図して、それが出来るのは監督の力量。
お金を払い、わざわざ足を運ぶ価値のある演出。 
 
  
家族も職場もストレスフルだけど、人間は社会的ないきもの。
無関係だけで生きるのは辛い。
 
主人公の筒井真理子が、
最も生き生きするのは戦友の木野花とのリアルな交流で、
信者のコミュニティではなくて、
でも、無帰属では精神が保てない。
 
今は安心できる帰属を自ら選び直す時代。
露悪的というより、正直な抑圧からの解放。
だから、コミュニティはお金にもなる。
 
支部長?のキムラ緑子は水を売る。
 夫のガンにも効くという。
 あなたにだけ特別にと、希少性に訴える。
 が、死んで欲しい。 
 
宗教の権威性と、裏腹な思惑がつきづきしい。
私はため息をついて、感嘆した。
 
 
水素水を定期購入してるという女性と先日会話した。
余命宣告を受けた猫のためだと言う。
 朝に汲んだ水道水は夕にはヌメる。
 水素水にはそれが無い。殺菌効果があるのだろう。
 獣医さんから薦められて、水素水に変えたら、
 それまであまり水を飲まなかった猫の便秘が治った。
 
それなりにお高いが、愛する猫には一日でも長生きして欲しい。
 
原価はいかほどなのだろうか、
それを本人にではく、愛する者の命を人質に、売る。
天才としか、言いようがない。
 
絵本やランドセルのような、本人向けでない用途は安心が大事。
キンコン西野も言ってた。
因みに、N字はチャート読みでも使う人間の感情のパターン。


コミュニティと、過程をストーリィで売るのは強い。
しかも、自分以外に向けての消費。
 
真面目過ぎても、サロンじゃないのだから、
盛山の回し、視聴者への媚は絶妙の芸人だったね。
感心しつつも、サボらない。
確かに、これならサロンの方が伝達のコスパも良い。
 
で、コミュニティ・ビジネスについて、インプットしようと。

安全に関係性が複数確保された自分で選んだ居場所。それが新たなコミュニティ。
 孤独でも、1人ではない。
生きている限り、この世の苦しみからは逃れられないが、
人間としての社会性は満たされる。
 
安心が担保される居場所では許されるものが、外では許容できないものがある。
あたかも、イジりの仮面を被らなければTV芸者(byマツコ)は成立しないが如く。
マスなバラエティは偏差値40でなければね、Eテレでもテレ東の経済番組でもない。
ただし、
宣伝効果を狙う媒体としては、ちょっと時代遅れで非効率か。
昔、
「金森重樹 通販大家さん」は「カンブリア宮殿」に好んで広告打ってたな。
世帯別視聴率は無効。属性が絞れない。
 
「M-1」という競技の弊害で、
手数多く、空白を埋め続ける技術偏重になったかな。
制限時間の中でポイント挙げなきゃ。
競技用の漫才とウケる漫才は違う(byノンスタ石田)のだけど、
演る方も見る方も、それがスタンダードに定着して抜けられない。
決して審査員のせいではないと思う。
彼はむしろ、
 ”ジャンピング・クイーズ”とか言ってたころは、
 ”アレは漫才じゃない” と横山やすしに怒られつつも、
 言葉で表現しない余白で、微妙なニュアンスを伝えていた。
 今見ると、浜ちゃんの受けが絶妙に上手いのだけど。
 それはB&B、ツービート、紳竜からのスタイルを遂に終わらせた。
まあ、
映画では、客を信じてそれが出来ないと宇多丸は評していた。
 いいブレインが映画では必要なのでは、
 松本人志ともあろう人が、
と嘆いていた。
彼の本質は演者だからねぇ。
今のTVでは、気の利いたコメントするしか居場所がない。
本物の信者なら、彼を解放して、全力の作品を望むはずだが、
祭り上げられた権威は窮屈になるばかり、
まっちゃん、大崎会長の居ない吉本は辞めて、自由に創作したらいいのに。
 
 
それはさておき、
仕組みの話が聞きたい。
とても読みにくいが他に見つからなかった。

コミュニティの要素は、
 ミッション、エンゲージメント、バリュー。
 
コミュニティのミッションと、参加者へのバリューは分かりやすいけど、
エンゲージメントとは?

日本語に訳すと、”きずな” が近いですかね。
帰属する組織に対する、参加者の関係性。
エンゲージメントのモデルが三種類あり、
 コンシューマ、サポータ、コラボレータ。
 
スクール型で教えられるのは消費。
クラファンなどで、プロジェクを支援するタイプもある。
 
キンコン西野は、セカンドクリエータ、プロセスエコノミーを謳い協業型。
もう日本市場には飽き足らず、
言語の壁を超えて、コンテンツビジネスを協業者を募りながら拡大している。
テーマパークも映画も配信も、帝国ディズニーに本気で挑む。
 
最初に掲げたミッションから変わっていないが、
”アレは芸人じゃない” という程度のアンチは、
敵としてはねぇ、もはや力量不足。
経営やマーケティングやデジタル技術の話をする種族でないと、お話にならない。
  
 
コミュニティは内と外の関係性だから、
敵が居る方が熱狂を産む。カルトはそうでなければ、
オリラジ中田のコミュニティは、どうもコンシューマのスタイルっぽい。
 もともと池上彰のyoutube版で再ブレイクなのだし。
 ゴールが夢というより野望だし、
 先行者西野ほど、新鮮味もない。

丁度良い、用済みになった敵を取りに行ったのだね。それだけは分かる。
本人の権力欲に相反して、カリスマや教祖に向いてるのか、
なんだか有能な実務家過ぎて。
 

と疑問を感じ復習。

カリスマの仕事は、その影響力で人々の世界観を変えること。
カリスマの4要素は、
 シナリオライター、パフォーマー、プロデューサー、トリックスター。
 
 ”世界はこれからこうなる” どちらも合格と思う。台本は書いてる。
 演者としても問題なし。売れてないアンチより遥かに能力高いよ。
 企画統括の仕事は、むしろ師匠より弟子の方が得意かもしれない。
 
 で、トリックスター。 
 お騒がせで観客を翻弄する、正体が掴めないヒソカな存在。
 なにかと社会に波紋を呼ぶ。

 ”ひな壇に出ない” の頃から、天才的にイジられ燃えてきた一方、
 あっちゃんは優等生過ぎて、ここでようやく準備万端というところ。
 
ただし、カリスマと教祖は決定的に違うらしい。
カリスマ目指しても、もと高学歴芸人は教祖にしか成れないかも。

西野は最新のマーケティング、コンテンツマーケティングを日本に導入し、
具現化してくれると思うよ、ジョブズがガラケーをガラケーにしたように。
確かに吉本興業は過去のモデルではある。
 
認知でなくクリエーター個々の人気で配信を売る。それが主たる利益の源泉。
だったら、事務所通す意味あるのだろうか。
 
今の時代に合ったマネジメント代行してくれる、
そんなエージェントのニーズあるだろうけど、 
吉本の経営陣が刷新されないと、そこでは出来ない。と予想。
日本の縮図で、捨てられないものが多すぎる。
 
だから、
あっちゃんが芸能事務所で覇権取るという目標は現実的とも思えるけど、
実務家過ぎて、ワクワクが足りてない気がする。
でも、徳川家康はそんなタイプだったのかもしれない。
最後は神様になったし。仙台では私も必ず東照宮参拝する。
 
教義を教え指導するタイプはカリスマでなく、教祖になる。
そこで、  
 
 
中田への提言は、
カリスマでなく教祖を目指せ。
 
 個人の学びから、ややポジションシフトして、
 もっと社会変革を伴うビジョンを掲げ、敵を大勢作る。
 キリストや釈迦が、
 既存の宗教や社会へのラディカルな反逆であったように。
 反社会性と弱者救済がもっと必要。
 
プロダクションの覇権では野望がパーソナルで小さすぎる。
教祖を目指せ。
 
人々を不安にして引き込み、解決策を提示する。
水を売るかのごとく。
もっとやれるはず。中田。
 
だいぶ、怪しげでいい感じだけれども。
 
ま、それよりも前に、肝心のイデオロギーが弱い。

イデオロギーとは、思想の傾向、または社会や政治に関する主義を意味する。カルトブランディングの場合は、社会や社会課題に対するスタンスを明確にすることで、ブランドがイデオロギーをまとうようになる。

この退屈で閉鎖的でストレスまみれな、
この低生産性のガラパゴスな社会に反抗できると思うのだけど、
「the second」退屈だけど、そうでない大勢も居るなら、
選民思想とカルトは相性がよいし、
このくだらない世界から解脱する呪文を唱えて欲しいところ。
 
まだまだ、全然弱いと思うよ。

 

                                

カテゴリー: コミュニティ, テクニカル, 書評、映画評など, 未来・天国編, 評価経済 パーマリンク

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