最近、
読解力の低い人の無料お試しコーチングを、
二度ほど(別人)受けてみた。
彼ら向いてないと思うんだけどなぁ、、
本人達は自信満々。自己認知に欠ける。
現代日本において、失われつつある読解力。
そんな折、どうやって能力向上を図るか、良書見つける。
自らの読解力を高めつつ、
会話の中で相手の読解力も見極める必要性を感じる。
藤竜也主演「高野豆腐店の春」は、、
強い刺激は伴わず、優しく分かりやすい娯楽作。
情報処理にコスト掛からないから、脳は疲れない。
山田雅人、竹内都子(ピンクの電話)、徳井優、を登場させ、
”ああ、新喜劇やりたいんだな。”
と、関東人の私にも分かるように、
作り手の意図を最初に提示するのだが、
それを解さない人もいると驚いた。
コテコテの笑いが趣味に合わない、それはやむを得ないが、
企画意図を理解しないのは別の問題。
構造が分からないまま、鑑賞する観客は一定数いるんだなと、
ちょっと驚愕。こんな大衆娯楽作でも。
まあ、
物語そのものと、企画意図は別だもんな。
・「高野豆腐店の春」
小さな映画なのに、豪華なキャスト。
まだ、個人の豆腐屋さんが存続している。
商店街が活きているのだろうと、説得力のある街、尾道。
丁度いいローカルなロケーションが絶妙。
この時点で、作品として大きく外れることはないだろう。
撮りたいものは、思う存分撮れてるのだろうな。
”笑って泣いて、最後ほっこり”
人情喜劇なんだろうなと、想定される。
更に、
藤竜也が80過ぎて精力的に活動してることに驚いた。
藤竜也といえば、
⇓アレだが、当時の私が観られる訳もなく、
再放送で観た、⇓コレのイメージ。皆、華があったね。
https://youtu.be/geFldJLhpbY?si=3r_wzyYhGNWBTdI7
私の子供の頃の記憶を遡っても、
当時から渋いイケおじだった。コメディの記憶はない。
二枚目であることよりむしろ、
頑固なじじいの顔、年輪の刻まれた顔で勝負している。
そんな老俳優の演技を観るだけでも、十分モトは取れるだろうと確信して、
スクリーンに臨む。
やけに芸人多いと思ったら、新喜劇がやりたいんだな。
そして、個人商店の手作りの映画。
藤竜也と尾道のチョイス。その成功を確認し、ホッとする。
その後は、安心して新喜劇を楽しむ。
広島と言えば、「この世界の片隅で」も思い出したのだけど、
こちらは、画が精緻でかつ、情報量が多いので、
観る側の処理も多い。
観終わった後、脳の疲労を感じる。
アート系か娯楽系かの別でなく、
脳が疲れる映画と、そうでない映画がある。
ああ、全然脳が疲れない。
ただ、感情を委ねていればいい。
本来の大衆娯楽。
サプライズで興味を引く娯楽映画には食傷気味でもあるので、
体にやさしい。
関東人の私でも、
子供の頃、吉本か松竹の新喜劇の舞台中継をTVで夕方観た記憶がある。
そうだ、こんなフォーマットだったはず。
人情喜劇でも、藤竜也やっぱ上手いなぁ。
芸人さんだと、コテコテし過ぎるところ、映画的に寸止めしてる。
かと言って、
これ以上シリアスに演じても、作品全体のリアリティラインが壊れてしまう。
監督の情報は入れずに観たのですが、
ベテランの職人監督で、西の方の人なんだろうと、想像されました。
寄席に足を運んだ気分で、
美しい風景と、藤竜也のカッコイイ晩年も観れて、満足しました。
ほんとに、小さい娯楽映画の余地も残して欲しいものです。
ただ、一点だけモラルに反するかと、大幅に減点。
ヒロイン役の中村久美が80代には見えない。
80歳で清掃員のパートは雇われないだろう。
60代が妥当。
昭和20年に4歳くらいでなければ、幼少期に瓦礫の広島を歩いた記憶は無理。
時空が歪んでいる。
それは、被害者ズラ。
本当の犠牲とは違う。
本来正しく社会から救済されるべき人が放置されるという問題があると、
便乗する被害者ズラも出てくるんだよ。
どんな立場であれ、
被爆者救済の問題を、雑に扱う神経に賛成はできない。
主張のための捏造は正義ではない。
モラルに欠ける。
鈍感は悪である。
やるなら、真面目に扱えよ、
こういうディテールがダメってのは信頼できない。
荒木飛呂彦の爪の垢でも煎じて飲めよ。
それさえ無けりゃ、概ねほっこりします。
で、結局。
アラフォーの娘から子離れできない父の異常、
商店街の仲間のコテコテの笑い、
が許容できないという感想には賛成できない。
趣味に合わなかったのと、企画意図が汲み取れないのは別。
一方で、
新喜劇だからという理由で、被爆を雑に扱うのは、
作り手のモラルの欠落と断じる。
そこだけは、区別するよう情報を処理した。
「君たちはどう生きるか」でも、「スパイダーマン ノーウェイホーム」でも、
作り手の意図が分からない、文脈に沿った意味を受け取れない、
それは、作品の質でなく、観客の質の問題。
大人は説明しない。
「構造の読み解き」は次の三つの構成で成り立っています。
1 論説的文章を読んで、論理を読み解く
2 物語、情緒的文章を読んで、人の心情を読み解く
3 思考を組み立てて、解釈する/アウトプットする論説文の読解で論理的思考力を鍛え、物語文の読解で人物の心を読む思考力を鍛え、
自分がアウトプットするときは、それらを総合して文章やプレゼンを組み立てることが、
「構造を読み解く」ということなのです。
平易に説明されていて、良きです。
ロジカルに分析して構造を把握すること、は、
日本人もともと苦手だと言われ続けてきましたが、
せつない表情描いて、”せつない”とルビを振らなきゃいけない(byきたがわ翔)。
そんなご時世、
余白で表現された感情の機微を読み取る能力も低下してるのか。
未だに、空気を読むのは得意そうな民族に見えるけどな。
人を選び、選ばれるということは、思考の質。
自らの質の向上に努めつつ、付き合う人を選ぶとはそういうものだと、
思い至った次第。