一昔前のアカデミー主演女優賞を穫る映画。
こういう映画が作られ日本に公開されたこともあったと、感慨深い。
無駄にハプニングでストーリーを盛り上げない。
ベタでわざとらしい音響も無い。
映像技術に依存しない。
じっくりと演技を観せて、心情に寄り添う。
無理にLGBTとか、人種とかブッ込まない。
安い説教とかしない。
安易に家族愛のハッピーエンドにしない。
厳しい現実は現実としてそのまま見せる。
悪人を無理に善人に描かない。普通の人の悪意を描く。
今年観た、類似点の多い「ザ・ホエール」と比べてしまう。
舞台が元ネタで、主演がアカデミー賞受賞。
元ネタの脚本の良さと、役者の演技力には、共通点あるも、
それ以外はとても対称的で、
ベタな娯楽映画しか作れなくなったアメリカ映画の現状。思い知らされる。
ま、それはさておき、
滅びゆく、古き良きアメリカがテーマの上映に、
参加できるチャンスを得た。
第二次大戦後、落ち着きを取り戻したアメリカ。
日本なら昭和30年代頃の感覚か、
バウンティフルは大都会ヒューストンから2千キロほどの場所。らしい。
入植者はかつて、荒れ地を開拓し農業を営んでいた。
土地が痩せてしまい、産業構造も変わり、
主人公の老婆が頼りにした、最後の居住者も亡くなってしまった。
物語は、
死ぬ前に故郷のバウンティフルを一目見ようと、
息子夫婦のアパートから脱走し、
通りすがりの善意にも助けられて、願いを叶え、
迎えの息子夫婦に、連れ戻されるまでを描く。
役者は皆さん素晴らしく、
アカデミー賞の主演はもちろんであるが、
悪役の嫁もいい仕事してる。
悪人というより、
満たされない現実と折り合いがつかず、
その分、自分より弱い立場のものに攻撃的で、
憂さを晴らす。
旦那が病気になるもの必定。
更に、姑の年金まで狙う強欲ぶり。
ああ、丁度よいリアリティ。
かつて私が経験した家庭の夫婦の姿を思い出してしまった。
性悪と、卑怯な甲斐性なし。
死ぬ前に、願いが叶ってよかったね。
と思う反面、早く死ねるといいけれど、
老婆にとっては、余生の同居は苦しみしかないだろう。
そんなことを私に予感させて、物語は表面上は美しく終わる。
無理やりな安いご都合に着地せず、私の心も満たされる。
衣装や車はじめ、舞台装置がオールドファッションで、当時を再現。
現代に置き換えて制作費削減などと、ケチなことはしない。
こういうものは、滅んで逝くんだなぁ。
「モンテ・ウォルシュ」「ダンス・ウィズ・ウルブズ」、
そんなタイトルも去来する。
賛美歌を歌う老婆と、
オシャレと娯楽が好きで、現実を生きる嫁、
対称的に描かれる。
せめて一人で死ねたらいいのに。あの美しい故郷とともに。
個人的には、
孤独紙が容認される社会になって欲しいと願う大家である。
あの嫁も、姑に関わらなければいいのに、
満たされていないから、
外の世界をコントロールしようする。
渇望を埋めようとする。埋まらないのに。
ああ、あのひとと同じ病気だ。
放っておけばよいのに、もっと放っておけばよかった。
懐かしく、思い出してみたので、
オーディブルで聴く。
先日は、
とあるコミュニケーションコーチのセミナーに参加。
アメリカの動画らしい。
ピザを一人で丸々一枚食すのに、
8等分にカットするのか12等分か?
と問われ、
8等分の方が8回で済むから、総量が少ないと主張する成人女性と、
薄笑いを浮かべながら、その間違いを正そうとする成人男性。
の会話を見せられた。
講師曰く、
表現を工夫して(円の図で説明するなど)、
正解を理解させるのが望ましいらしい。
コントロール不能な他人は放っておく
いやいや、その知能の人に理解させるのはオレの仕事じゃない。
私は親でも算数の先生でもない。相手は子供でもない成人である。
あざ笑う必要はない。
しかし、相手の知能の受容が先で、
今回コミュニケーション工夫しても、それは対処療法に過ぎない。
そういう知能の相手と、今後どういう関係性であるべきか、
得た情報から対応の修正の判断が問われる。
小手先の工夫は問題解決どころか、
消耗を重ね、より状況を悪化させる。
彼らは、”金槌を持つと全てが釘に見える” 万能感に支配されている。
ポンコツばっかだなぁ。コーチ諸氏。
おっと、バカにすることはなく、放っておかねば。
彼らは、彼らでそれで生きてて、問題ないのだし。
無理に分かり合おうとせず、尊重しないとな。
”誰とでも仲良く”という洗脳は深いなとも思う。
自分で抜いていかなきゃね。
疎で、生きて死ぬ。
まだ、学びが必要なみたい。