よく通ったなこの企画「唄う六人の女」ジャンル分けし難い、とりあえず映像は美しい。「Who Not How」誰と組むかで結果が違う。

たままた、出先で観た映画。
「オーマイキー」の監督と聞いて、興味惹かれた。

風景を活かし、個性的な綺麗な女優さんを美しく幻想的に撮る。
それが最大の長所でしたねぇ。
 
不条理寄りのコメディではどうやらない。とすぐ分かるが、
 
アート系の抽象的な表現かと、観はじめたんですけどね。
そうでもない。
ちゃんとサスペンスやろうとしてる。
 
アリアスター的かというと、そうでもないと思うよ。観たことないけど。
「遠野物語」+サスペンス・ホラーかなぁ。
「砂の女」とか、寓意や不条理感はあまり感じない。
 
だから弱点は、
サスペンスとして観るには、
抽象的表現の繰り返しが多くて、ダレるかな。
 
 
ああ、そういう内容だったのね、と終盤でやっと分かる。
「もののけ姫」とか「千と千尋の神隠し」とか、
宮崎駿がまだ子供向けに作っていた頃と同じジャンルかな、観てないけど。
というような着地でした。
 
そこにわざわざ着地しなくてもいいのに。
竹野内豊の説教臭いセリフが安い。
それ言っちゃうなら、終盤はもっとベタな展開でもいい。
 
エンタメで当てるタイプの映画ではないので、
分かりやすい結末でなく、不条理に振っても良かったかと。
 
エンタメのカタルシスとしては微妙。中途半端か、
それも弱点かな。
  
不条理監禁モノでゆくなら、竹野内ひとりでいい。
山田孝之居なくても、竹中直人だけでも成立するし、
その方が良かったんじゃないかと、思ってしまう。
 
田孝之が居なければ、企画として成立しえなかった、
というのも分かるのだけど。。
  
 
エンタメのパートがちょっと弱い、
社会問題を使うなら、それはそれでちゃんと描いておかないと。
謎の成立に同意できない。
いきなり提示されても、とってつけたように見えてしまう。
終盤の展開に説得力が薄い。
 
 
「オーマイキー」の監督は、ウェルメイドなエンタメは得意とは言えない。
万人受けはそもそも狙えない。狙うべきでない。
ありきたりだけど、
不条理監禁モノをアートで和を取り入れた表現で魅せる。
一点突破、弱者の戦略に特化した方が賢明ではなかったか。
 
 
それでも、 
予告編観て、この映像をスクリーンで堪能したいと思ったのなら、
足を運ぶ価値は充分あります。
 
動植物をモチーフとした、6人の女優さんが、よいキャスティング。
ハマッてます。
水川あさみの蜂でスタートしますが、惹き込まれていきます。
絵力強くて、素晴らしい。

それだけで、充分かとも一方で思う。
このへんてこりんな企画が通って、作品として実現したのだから。
山田孝之がプロデュースに参加してるからこそ。その功績は大きいと察する。
 
 ”誰と組むか?” 

その答えで明確に結果が違っただろうな。 
 
私事ですが、
チームの再考を迫られる場面を最近また迎えてしまった。
チームを組み替える決定をした。 
  

取り組みを広げ、勝てるチームをつくりたいのであれば、自分の弱みを自覚し、チームを信頼することが必要になる。そして、
1)自分でなくても「どうやるか」のほとんどの部分を十分扱える、
2)自分自身は、情熱をもって最大のインパクトを与えられる分野に全力投球すべきだ、
ということを理解すべきだ。あなたの注意力とエネルギーは分散させてはならない。

どうやって目標を達成するかではなく、「誰と」仕事仕事をするかを重視することによって、達成のレベルが劇的に向上する。
その結果、時間、お金、人間関係、人生の目的という、私たちにとって重要な4つの領域で、自由度が劇的に増えることになる。

当たり前のことかもしれないですが、
凡事徹底と思い読んでみました。”Who Not How”
 
誰か(Who)に方法(How)は引き受けてもらう。
自分より、やり方に精通してる自分以外の人に委譲。
できていたつもりだし、それで成果は挙がっていた。
でも、時の流れの中で、担当者が代わってしまうことがある。
 
私は、
WhatとWhyを説明し、誰かにどうやるかを実行してもらう。そのプロセスは拘らない。
”如何に”を考える変わりに、”誰に”を考える。この方が遥かに効果的である。

「私がこれを達成するのを助けてくれるのは誰か?」だ。
「誰か」に助けてもらうという決断をして、決断疲れから自分を解放しよう。

担当者が代わってしまうと、特に業務に慣れない人材の場合、
急激に精神的負担も増えることもある。関係性を変えざるを得ない。
そういう経験をしたので、”誰か”が居ることのありがた味も身にしみた。

が、問題は、
適切な”誰か”に”どうやって”出会うか?になってしまう。
本書の答えは結局、他者にとって価値のある存在であれ、ということに尽きる。

何か意味があるものを提供できないのであれば、誰かに近づこうとしてはいけない。
「誰か」と人間関係を築きたいのであれば、「彼らにどんなメリットがあるのか?」と自問すること。
ビジョンを作成する際にも、そのビジョンがその「誰か」の目的と一致し、彼らの個人的な願望の実現に、明らかに役立つものでなければならない。

さらに、
間違った”誰か”と手を組まないように、断る。

「常に買い手であれ」。どのような状況にあっても、売る側ではなく買う側になるべきという意味だ。買い手は売り手を拒否することができるが、その逆はないからだ。チャドは買い手だ。彼は顧客を選ぶことができる。彼と一緒に仕事がしたいと思っても、誰もがそうできる

自分のビジョンに合わないことを断固拒否することだ。買い手になるには勇気が要るが、慣れてくれば、これ以外の方法で人間関係を結ぶことはなくなるだろう。自分の将来やビジョン、優先順位が極めて明確になると、あなたはいっそう人間関係を選ぶようになる。

 
言い方は様々なれど、
OPT(Other Peoples Time)のレバレッジを説く人は多いが、
日本の場合ややもすると”みんななかよく”に着地してしまう。
安い着地。成功してない人にも耳触り良い。
 
実際は、
 選んで、好ましくないものは歯を食いしばってでも断る。
 相手にとっての価値が、自分になければ、どうしようもない。
身も蓋もない話である。
 
  
竹野内豊は石橋監督の投影だとして、
山田孝之も主役級の関与。

ジャンル分けし難い、方向が分散してしまう成り立ちも、
”完成まで、いろいろあったんだなぁ” と、想像してしまう。
私は得意に集中しようと、逆に思ったが。。

 

 

 

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