[2015.03.02-2015.03.10]
マザーハウスのボランティアは、マザーテレサの愛の精神の体験である。
悪意なき純粋な気持ちを味わい、自分の中に呼び戻す。
そんな時間でした。
反面、
ボランティアだから、無償の愛で居られるという意味もある。
普段生活してたら、そういう状態ではなかなか居られない。貴重な時間。
学生さんが体験するよりもむしろ、
一旦、社会生活に疲れて離れた人が、
復帰のためのリハビリとして、人間性回復を図るに最適かと思う。
他者と協力して作業すること自体が、もう随分昔のことに感じる。
それが何の利害も無く活動するとなると、何十年ぶりのことだろう。
ボランティアだから責任を負わない。
反論する人も居るだろうけど、責任を負うとは損失を請け負うことである。
賠償請求された人は基本居ない。
責任があれば、成果も問われるし、効率も追う。
また、
組織や特定の人の地位の維持の為に生産性ゼロの仕事も発生するのも、
責任というものが存在するから、それを回避する仕事の為仕事、
ゴールの為のパスでなく、パスの為のパスも生じる。
ま、負担を感じるか、虚しさを感じるかの二択だ。
洗濯、清掃、炊事、あるいは患者さんのケアと、
行動の結果がダイレクトに見えるのもイイ。
やりがいを感じやすい。善意が善意として結果に現れる。
浄土では、利他と自利が一致すると聞く。
責任フリーというのは、うんざりする必要がない。素晴らしい時間。
文字どおり、有り難い存在。
愛の体験自体が、人間性回復のリハビリである。
と同時に、
ボランティアに熱心な人とビジネスで絡むと、痛い目に遭う理由もよく分かった。
こんな話も聞いた、
日本人の看護師がボランティアして、患者さんの皮膚を消毒した。
ここインドでは日本と勝手が違い、消毒を染みこむようにキツ目にしないと効かないそうだ。
で、上手く処置できず、それ以来日本人の看護師は敬遠されてるとか。
「死を待つ人々の家」では、末期がんの患者さんにオイルを塗った。
理科室の模型に皮を張っただけのような体で、
おしりには固くたこが出来て、随分と床ずれしていた。
ときどき声を上げるその老人の背中さすることもあった。
痛みが出るのかもしれない。言葉は理解できない。
食事はもう採れないので、流動食を流し込む。錠剤も。
ただ、この爺さん、それをグズる。
液体を飲み込むのさえ辛いのかもしれない。
私は彼の手を握っていて、シスターが流動食を口に流し込む。
そのとき、私は彼の手を放してしまった。
彼がそうしようとしたから、自由意志の尊重。
彼は流動食の漏斗を振り解こうとした。
顔と襟元はびしょびしょになった。
私はシスターに怒られた。
まあ、その後なんとか、全部飲むのだが、
シスターは、なだめたり、すかしたり、あの手この手であった。
フォアグラが非人道的だというなら、
飲みたくないもの無理に飲ませない方がとも思うが、
ここは医療機関でもあり、
最期まで、彼の生命のため最善を尽くす責務がある。
そこに悪意や私利私欲が無くても、
責任というものが発生すれば、イヤなことでもしなければならない。
善意なだけでは居られない。
人間はさほど器用な生き物じゃない。
ボランティアに熱心な人とは、仕事で付き合わない方が無難だ。
フト、走馬灯がよぎる。
屠殺、死体処理などを穢れた仕事とする地域はあるが、
本当の意味で、誰もやりたくない、汚い仕事というのは糞尿処理とかじゃなく、
私利私欲という大義名分すらないのに、プラスマイナス両面ある決断をすること。
いつも出す例だけど、
東電が悪だとは言うが、株主責任には言及しないのは、
当事者性を突きつけられ、無垢な被害者ズラだけでは居られなくなるから。
デメリットもある決断を迫られる。
あ、逆だね、
功罪両面ある部分に踏み込まなければ、
無垢で善意の存在でいつまでもいられる。
そんなに危険だというなら、福島の人に帰還するなと言えばいいのに、
何故そこで黙る?
積極的に、強制避難地域拡大せよと言えばいいのに。
穢れたことに浸るより、欺瞞というネバーランドの方が快適だもの。
それはさておき、
施設の中のボランティアだけは責任フリーでいられる。
汚い仕事に手を染めなくていい。
責任が無い気楽さで、私は手を離してしまった。
此処に居る今だけは、穢れ無き西方浄土。
しかしいずれ、東の穢土へ戻らねばならぬ。
学生さんよりも、仕事にくたびれた人のリハビリに最適と思う所以である。
若い内に責任を負う経験しといた方がいいと個人的には思う。
バイトでもただ指示されるだけより。
古くなってからでは手遅れ。
改めてそうおもう。
質問コーナー、お問い合わせは、sanpome.net@gmail.com まで。
メルマガ 三歩目の不動産投資で海外移住。