予備知識無しで観ました。力作でした。でも静かにノーと言おう。
お話としても破綻してます。
主張のためのご都合に流れた分だけ、後半失速します。
私は、
キャスリン・ビグロー監督のやり方に賛同しません。
この映画を無批判に喝采する観客のリテラシーも信じません。
昔と変わっていない点は、
ハリウッド映画がネイティブ・アメリカンを悪役インディアンとしたように、
善悪は作り手の主観次第ということ。
映画のチカラは一つの方向に向けるのに、方向性問わず有効ということ。
フィクションのチカラで主張するという手法も、
その主張のやり方になんの疑問も感じずに同調する人にも、
賛同はしません。
その背景を理解したとしても。
この人達はただ対立煽ってるだけなんじゃないかと、その疑問も去らない。
以下の順で、思い浮かぶことを整理しておきます。
・作品としての評価
・作品としての欠陥
・この映画の主張のやり方に対するスタンス
・良心的な監督ならこの主張でどんな作品とるだろうか?
・有事の危機管理としての教訓
作品としての評価
行政がコントロール失った都市のロケと撮影はすんごいです。
え、戦車まで? って。
バンコクで赤組がサイアム燃やしていた当時思い出しました。
野次馬してたら、警官隊のゴム弾が隣に居たタイ人の胸直撃して、血吹いて倒れたり。
その後も黄色組が民主記念塔周辺占拠して、カオサンのまわり迂回したのも。
今となっては懐かしい思い出ですが。
役者さんも凄いです。拷問付きの尋問されるシーンの緊張感。
私の場合はパキスタンでホテル訪ねてきた私服の二人組は紳士的でしたが、
「ちょっと来い」と言われたらもう生きて日本の地は踏めないかも。
でも何も知らないから、拷問されても材料は無い。
今となっては懐かしい思い出です。二度と経験したくはありませんが、
映画館で体験する臨場感だけでも、1800円の価値はあります。
撮影と役者さんと音楽に関しては満点です。
この3つにおいては、主張抜きにアカデミーノミネートされても順当と思います。
で、予備知識なく観てると、
これが史実に基づいた物語だと分かってきます。
暴動のさなかこんなこともあったのかと。
ただ緊迫した一夜が明けてゆくとともに、
お話の展開の不自然さが気になります。
そのため、映画がやろうとしてる感情の導線に違和感を感じます。
容疑者の白人警官を悪役に描いて、憎悪煽ってるけど、
そんな単純な処理をして大丈夫なのだかろうか、
過去の資料から史実と確定してるもの、
現在当事者から改めてインタビューした内容、
想像で補った創作部分、
この3つ、区別つけないで、
「これはフィクションです」をこの予算、この公開規模でやるの?
監督まさか、
塀の高いセキュリテイ厳重なビバリーヒルズみたいな高級住宅に住んでないよな?
昔インディアン、今レイシストなプア・ホワイト、
自分の正義の為に、分かりやすい悪役を選んだのは監督の方じゃないのかな。
観終わった後のモヤモヤは、
現在も白人警官による黒人暴行のニュースが極東の地まで届くことじゃなく、
キャスリン・ビグロー監督のやり方に対してでした。
映画人としての倫理として如何なものか?
今の時代、
ハリウッドが白人警官を悪に描いても忖度する必要ないと私には思われるので、
事件の新事実が出たら捏造呼ばわりされかねないリスクを恐れ、
作品賞と監督賞は見送りとしたのではないか、
そんな想像をしました。
主張のためにお話破綻させ、
演出的にも憎悪の感情に乗れない人にとっては後半失速するので、
私も、作品賞と監督賞は製作者の倫理的な問題をおいても、完成度的に微妙かと。
竜頭蛇尾感が、年末に観たベイビードライバー彷彿とさせます。
最後まで、ドキュメンタリな姿勢で撮るなら、結果違ったと思われます。
作品としての欠陥
劇中では、
「一人の悪ふざけによって、おもちゃの銃で空砲を警察に向け窓から撃った。」
と裁判で当事者の一人がそう証言しますが、
他の証言は映されません。
また被告である白人警官側の証言は一切提示されません。
強要された自白は証拠とせずは分かりますが、ではその後どう証言したのでしょう。
映画では彼らが口裏合わせ隠蔽工作測りますが、
それ、誰の証言を元に描いたの?
そこ創作なら捏造と形容するレベルでしょう。
モーテルで黒人達が拷問付き尋問を受ける際、
皆、口をそろえて「銃は無い」と言っています。命の危険を感じても。
最初すぐ死んだ奴がおもちゃの銃撃ったのなら、そう言えば解放されます。
史実では、おもちゃであれ、本物であれ、銃は見つかってないそうです。
映画の最初の方で描かれる、「悪ふざけで空砲を撃った」というシーンに疑問を感じ始めてしまう。
強要された自白は分かったけど、
誰が最終的にどう証言して、誰と誰が食い違ってるの? 或いは一致してるの?
映画進むほど疑問が沸いて、
監督が悪役を悪役として煽れば煽るほど冷めます。
顔出しNGでいいので、
現在インタビューしたのなら、そこは映画の中で出すべきです。
食い違いがあるなら、それはそれで、そのまま提示すべきでしょう。
作りとしては、テレビの「アンビリバボー」みたいに、
史実の紹介、現在のインタビュー、再現シーンの3つで構成されるもんじゃないかな。
これ監督の思惑通りには行かない部分あったのじゃないかな。
解明されてない謎とか、(黒人側の中でも)証言が食い違うとか、
なんかそれを、差別主義者への憎悪に、強引に引っ張る。
脚本の構成としても、演出としても上手くない。
そんなことしなくても、
白人にだけ取調中の人権キープされるとかなら、主張できるのに。
憎悪に駆られてるのは監督の方で、判断誤ってるんじゃないかなぁ。
最後まで観ないと評価確定出来ないからと、最後まで観ましたけど、
途中で席立とうかと思いました。
この映画の主張のやり方に対するスタンス
昔、「Sun City」という楽曲がありました。
「We are the world」後に作られた、メッセージ・ソングです。
誰だか忘れしたが、
「We are the world」には参加しても、
「Sun City」は参加しないと表明した人が居ました。
差別主義者でもないし、(当時の)南アでは演奏もしないが、
このやり方をすると、政治的に強い音楽と弱い音楽を生む。
それは私が音楽でやるべきことではない。
確かそんな趣旨の発言をしてました。
今ならそんな声はかき消されて、僻地の島国まで届かないかもしれません。
史実をフィクションとして扱い、
映画のチカラで感情を煽るということに対して、
静かなノーを表明する人を見つけられないのは、大変不気味です。
寛容を説く人からは寛容さではなく、他者の非寛容の糾弾しか聞こえず、
多様性を説いても、言うことは一律で、
ヘイトスピーチを憎むその言葉はとても汚い。
ファシズムに反対してるらしいですが、やり方はファシズムから良く学んでいるようです。
この映画、例えば赤狩りのときに、
(チャップリンみたいに)ハリウッド追われた映画人が作ったプロテストじゃないんだよな。
反差別を描くにしても、良心的な人はこのやり方は取らない。
そして、憎しみが原動力で、差別解消を目的としてはいない。
私はそう断じます。
良心的な監督ならこの主張でどんな作品とるだろうか?
現代の、白人警官による黒人暴行を、ストレートに証言集めて、ドキュメンタリで撮っちゃダメなの?
ただ、切り取るんじゃなくて、
どういう経緯で、どういう場所で、どんな容疑なのか、
ちゃんと順を追ってやってよ。
それじゃ、ヒットしないのだろうけど、
主張優先なのか、興行成績目指すのか、選ぶべきじゃないかな。
昔は武装出来なかったけど、今はスマホあってyoutubeにアップできるもの。
ネットを使って、事実を公開してゆくのが現代の対抗策ってことで、
実際、そうして拡散されてるじゃん。
ネットは言論寡占してる側の敵だから、嫌いなのかな。
有事の危機管理としての教訓
ああ、振り返ると、モーテルのシーンも綺麗に描きすぎか、
ただ巻き込まれた人と、
酒とクスリとセックスの乱痴気さわぎしてたグループと居る気がする。
何か撃ったのなら、酩酊してなかったのかな。
軍も出動するような状況で、
大人しくしていないというのは正気の沙汰じゃない。
あの時のカオサンでは、夕方全ての店でシャッター降りたが、
そこで赤いTシャツ来てる日本人見た、キ◯ガイとしか思えなかった。
危機感が無いのは想像力の欠如でしかない。
まあ発砲音がするようなとこには極力近づかない。
危機感が無い人間とは関わらない。逃げる。
夜と昼では危険度が全く違うから、
可能な限り安全な場所で朝を待つ。そのためにお金はケチらない。
そんなこと思い出しました。
あと、デトロイトと言えば、天竜さんという人が居た。
都市としてのイメージはヤバイけど、
エリアを選べば、ちゃんと管理出来て買っても大丈夫で割安という。
結局、エージェントとのやり取りトラブって、
いろんな投資家に迷惑掛けたまま、消えちゃった。
疎遠になった後で、別の投資家からその話聞いた。
必ず現地を自分で確認して、管理会社とも自分で直接交渉できるのでなければ買わない。
私はそうしてる。
ある投資家から天竜さんへのクレームも聞いたことあって、
内容確かめようとも思ったのだけど、
肝心のある投資家の言うこともあやふやで、この投資家の力になっても意味無いなって、
それでその件、引いちゃったんだけど、
天竜さん、途中まではちゃんとビジネスしてたように見えたんだけどねぇ。
商売継続するために、ムリなところまで手を出したのかな。
手を広げるときは、おずおずと。だなあ。
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