愛されないで育つと距離感がとれない。ビジネスでは存在給でなく能力給に飛びつく。まだまだ承認欲求は消えない。

貢献とか考えてしまうのは、承認欲求ですよね。
成果が欲しいというのは、成果を以てして認められたいということ。

余計な欲心があってまだ、スマートな立ち回りが出来ない。
苦手なジャンルだから、仕方がないと割り切ってはいるものの、
もうちょっと、克服しておきたいこともある。
 

ふと、いつもの人生相談を読んで、
あっと、思った。

浮気や不倫をした人たちは、自分をきれいに取り繕う
https://cakes.mu/posts/29396

25歳の独身女性が、恋人がいても、何度も浮気をしてしまう。
ついに振られることになったが、
「どうにか信頼を取り戻し復縁したい」

無理、諦めましょう で、いいと思うが、
回答はまあ、けっこう長文。結局常識的な反応だけど。。
うーん、でも相談されたなら、違うこと答える。
相談者にとっての問題はそこじゃないじゃん。
理解が浅いとインサイトに届かない。
 
  
誰とでも寝る女性というのは、心が満たされていない。
って、橋本治かなんかに書いてあった。昔のことで多くは忘れた。

このサ○コさん、
 浮気してでも、無条件に自分を愛してくれる人が欲しい。
 渇愛で壊れてるから、言い寄って来る人はすべて愛だと間違えてしまう。

自分が愛情不全という病気だと、気づけよ。
彼のことはどうでもいいから、
自分の不幸を受け入れて、それから自分で自分を愛しなよ。
そしたら、
ちゃんと人を愛せるようになるし、
体目当ての奴らと縁が切れるよ。

伝えるべきことは、そういうことなんじゃないかな。
前回書いたシステムの仕事でも、
ユーザさんの言葉どおりに作るのが正解とは限らない。
もう一段深い、真の欲求(インサイト)に到達して、そこから解決案。
言葉にそのまま反応するのは、大抵不正解。
 
 
 
ああ、オレがスマートに距離測れないのは、サセ○さんと似たようなもんだ。
と気づいた。
 
愛されないで育つ人間も一定数いるからね。
親に搾取され続ける子供もいる。
厄介なことに毒親はエゴを愛だと思う程度の能力しかない。

そこで、もう一度読み直してみた。
  
自己受容。自分の不幸を受け入れる勇気。

まずは注意事項から、

愛されなかった人は、人間関係に気をつけなさい。
悩んでいる人は、友達関係が悪い。学生を見ていても、「この学生は変な顔になったなー」と思ったときには、だいたい友達が悪い。やさしさを利用される。使い走りとして仕えさせられる。
ところが、使い走りをさせられている人は、「利用されていること」を「愛されている」と錯覚する。
愛されていないから、利用されていることを、認められていると錯覚して喜ぶ。その人が才能があっても、すべて相手にとられる。
自分は幼児的願望が満たされていないと気がついたときには、まずまわりの友達環境を考えること。
もし望ましい友達がいなければ、よい友達ができるまでは書物を友達とすることである。
愛されていないと気がついたときに自分を変えるのが、人間の知恵である。

これがまだ上手く出来てないから、仕事すると虚無にやられる。
お金残る分、サ○コさんより深刻かもしれない。
 
 
距離感が下手、悪人をすぐ切れない。のには原因がある。 

母なるものを持った母親にうっとりと見つめられるときに、幼児はさまざまな幼児的欲求が満たされていく。
そうして育つから、母親以外の人に接したときに、「この人は母親とは違う」と感じる。そして、母親との関係を基準にして隣のおばさんとの関係、友達との関係、見知らぬ人との関係がわかる。
母親にとって自分が特別な存在だと感じることで、母親以外の、たまたま知り合った人との遠さがわかる。母親にとって自分が特別な存在だと感じるからこそ、たまたま目の前にいる人にとって自分は特別な存在ではないということが理解できる。

しかし、もし母親にとって子供が他人であれば、子供にとっても母親は他人である。その子供は他人との心理的距離がわからない。その子供にとっては、どの人との距離もさして違わなくなってくる。
したがって、「この人にとっては自分は遠い存在だ」「この人にとっては自分は近い存在だ」というように、それぞれの人にとっての自分の位置がわからない。

読み直して再発見。自己受容が足りてない。

運命の受容。

不幸な星のもとに生まれた人に必要な「決断」は、「私は神の子だ」という自覚である。そして私は「神の子」として生きていくのだという決断である。
その決断によって、不幸な星のもとに生まれた人は永遠の生命を獲得するのである。
残念ながら、彼は幸せの星のもとに生まれた人のように幸せな人生を送ることはできないかもしれない。しかし、それが自分の運命なのだという「決断と諦念」である。
私という存在を神が必要としたのだから、そう生きようという「決断」である。

まだ、勇気が足りてなかったね。
 
ロクでもない人に出会うには理由があり、
サ○コさんに体目当ての男ばかり寄ってくるのと一緒。 
自分が宿題だと気づいてるのは、こういうことなんだろうな。

愛を搾取される環境で育てば、どんなにその人が頑張っても、豊かなパーソナリティーになっていない。欠陥のある人格で頑張っても、結局は、さまざまな人間関係のトラブルを背負い込まざるをえない。
そのような人が乗り越えなければならないハードルは、自分の宿命なのである。肉親の愛のなかで育った人が越えなくていいハードルを、次々に越えなければならない。

普通の人と同じように、スマートな対応が出来ると思うのは、
2週間でジークンドーマスターに成れると思うようなもの。

 
 
 
そして、助けられないものは、助けられないと知ることかな。
まだ、その距離感が分からない。
世界一のコーチですら「素直じゃない人は放っておけばいい」と思っていた。
https://blog.tinect.jp/?p=66220

世界一のコーチですら「利口ぶるやつはコーチできない」つまり面倒は見ない、と言い切っているのだ。
そういう人々と信頼を築くことは不可能だと割り切ろう。
むしろ、彼らも「自己革新」など望んではいない。
彼らは「現実」を見たいと欲していないし、現状を変えたいという欲求も本気ではない。
そういう人々に現実をつきつけるのは、むしろ迷惑行為なのだ。
 
だから「素直じゃない人」を気に病む必要なんてない。
時間の無駄だから、さっさとそこを去って、自分と仲間のために仕事をしよう。
そして、もっと有意義で、楽しいことに時間を使おう。

  
それじゃ、絶対あとで困るから。
まともな技倆の責任者入れてくれって、何度も言ったけどね。
ずっと「大丈夫です」って彼は言ってたな。
彼がPMである時点で、大丈夫じゃなかった。
いい人だったけど。現実は見たくなかった。
 
Coachableとは現実を受け入れること。

今、元親と縁が切れて、初めて取り組める。
セルフコーチだと認識している。
かんたんでもないことが、ようやく分かった。

ソーシャルディスタンスないい時代になったな。

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