情熱の有無。「生きててよかった」「シン・ウルトラマン」共鳴しないものは不快。信じていい不評と関係ない不評。

最近は、ITの副業してますが、
ここ露払いしておかないと、痛い目にあうから潰しとこう。的な会話で盛り上がったり、
”決めてもらえないから分かりません”というベテランとも対峙し、久しぶりに感情が強く動きました。
 
こっちはサラリーマンのアマチュアなんだよ、趣味でやってんだよ。
タモさんも言うように、ゴルフのためなら朝早く起きんだろ。
真面目に取り組めない奴と一緒にやりたくないんだよ。こっちは趣味なんだよ。
  
 
大怪獣のあとしまつ」観て、怒る観客の気持ちがよく分かりました。
ホントは、怒りの対象は個人でなく組織に向けるべきなのですが、
感情は理性のようには動きません。
  
描きたいものへの情熱では、両極端の二作を今週は観ました。
  
 
 
「生きててよかった」
 
想像より入りは芳しくなく、
意外と”脚本と演出が酷い”という評あり、観終わって、意味は分かった。
なるほど、鈴木太一監督はもう映画撮らない方がいいかもね。
 
ライティングは素晴らしく、絵作りは良い。
 
なによりもね、
映像で観る限り今の鈴木監督の体はブヨブヨで、
主演の中年に体脂肪率3%を命じておいて、
 
格闘家のストーリーで、減量中の食事シーンは無い。
リアルに一日一食、豆腐と納豆と春雨で過ごしているのに。
 
何がドラマなのか? ドラマとして魅力あるのか? という嗅覚が鈍い。
三木聡もそうですけど、ブランク長い人で感覚が鈍ってく人はいます。
 
演者さんも、スタントチームも命がけなのに、

監督に情熱がなくて、おざなりでありきたりなお話を拡散してるだけ。
最初のアイデアからブラッシュアップされていない。
そこまで素材の良さ削って、その人間ドラマ入れる必要あんのか?
 格闘家が生活の中で犠牲にしてるものとか、
 研ぎ澄まされた食生活とか、
 不慣れな寝技の練習とか、(ホントに撮影で絞め落とされたらしい)
もっと観たいシーン、魅せるべきリアルは他にあった。
 
 
 ”ドクターストップでボクサー引退” と冒頭から設定の說明があるけど、 
 どんな症状なのか、生活にどんな支障が出るのか、
 後遺症はあるのか、ないのか、その後一切描かれない。
 このあと地下格闘技の総合にゆくにしても、影響ないのかな。
 他のドラマパート削っても、主人公に寄り添って描くべきじゃないのかな。
 ボクシングは命懸けなのに、それを描かない。
 
 ”柔術の先生つけます” も、一言で済ます、
 練習量がすべてを決するのに、寝技は一朝一夕で上手くならない。
 
 未来でこれなら、いわんや萩原おや。
 
 
 鈴木監督の元で働くすべてのスタッフは気の毒に見えた。
 素材の良さを殺してしまう。皆の一所懸命が台無し。
 
 
格闘シーンとセックスを重ねるとか、感覚がちょっと古いかな。
現在では、ありきたり。
 
 わざわざ東洋太平洋のチャンプにチン撃ち抜かせてて、
 後遺症とも紙一重な撮影なのに、
 
 そのインサートは失礼じゃないの?
 
 ちゃんと試合を魅せて欲しかったですね。
 監督と他の関係者の間にものすごく熱量の差を感じました。  
 
  
良い監督は、もっと対象に思い入れもって調べるし、
脚本もキャスト次第で当て書きする。
 
 是枝監督とか、白石監督とか。
 あんな、ジャストアイデアのまま最終稿にはしない。
 
 アイデアはロッキーに憧れてでいいけど、そこにこだわるべきか?
 
 主演の木幡竜さん、
  リーチ長いし足さばきも華麗。
  現役時代は綺麗なアウトボクサーだったんじゃないかな。
  視力をカバーするためにインファイトに徹した、たこ八郎には見えない。
 
 相方はキンコメ今野なら、
  役者じゃなくて、売れない芸人でいいじゃん。
  相方のトラブルでダメになるとか、その方がよっぽどリアル。
 
 監督が自分のアイデアにだけ固執してるので、
 見てるものとのズレを観客が感じてしまう。それが違和感。ドラマの説得力を弱める。 
 客の脳が快じゃない。シンクロ率が低下する。
 ダメになってゆく三木聡って、まさにそうだったんだよなぁ。残念。
 
 
ですが、 
アクションが凄いので、お金払ってスクリーンで観る価値は充分あります。
 
 
ただ、年々レベル上がる独立系の日本映画で、もう撮るべき監督じゃない。
10年以上時間が止まってる。
 
怒りに満ちた酷評に同意です。
スタッフが皆身を削ってるのに、それに無頓着なら責任者やるべきじゃない。
客ともズレてる。 
 
 
 
「シン・ウルトラマン」

感涙の出来でした。対象に対する思い入れの強さが伝わる作品です。
 
上映後トイレにゆくと、若者二人組がいて、
”もう一人ウルトラマンっぽいの居て” と話してました。
 だから、ゾフィーだよ。劇中ではゾーフィだけど。

ゾフィー知らずにこの映画観るのかと、ジェネレーションギャップに衝撃を受けました。
知らない昔には帰れないので、
私は、ゾフィー知らずにこの映画観る人の感想は想像が出来ません。

子供のころ観たウルトラマンにどれだけ思い入れがあるか、それとも無いか、
それで、賛否分かれるのは仕方ないんだろうなとは、思います。
ウルトラマンへの無知を前提にした否の意見に、賛成できるような意見はありませんでした。
そうなのかもしれないけど、そういう見方は出来ようもなく。
 
まあ、そういう意味でも、どファンムービーでありました。
小ネタは拾えても、拾えなくても大丈夫。
ただ、何故まどマギなのか、それだけは訳が分かりません。 
 
 
ただ、賛否どちらも、
ウルトラマンのメタファーは在日米軍と弥勒菩薩の二種あり、
そのどちらにも触れてない評が多すぎ。
多くの評には、とても違和感を感じました。
 
 
既に、この国は外星人の手に落ちているのではないか。
 
 ウクライナは降伏した方がいい、という説をメディアで見聞きするにつけ、
 侵略は武力だけで行うとは限らない。と思い知らされます。
 
  中国って、すげー。こういうこと何千年も。筋金入りだなぁ。
 
 かつて北京五輪決定を諸手を挙げて喜んでた築地の新聞社の記事で、
 私は思い知ったものです。
 
  ”ウクライナに勝利を” を ”平和を望む” と訳すテレビ局は、

 いったい誰のお金で運営してるのだろう。
 
 結局、自衛権と対抗できる能力なければ、座して死ぬよりない。
 ノンマルトはセブンですが、当時の反戦な主張と時代が変わり、
 有事のときの反戦論が、外星人の暗躍に聞こえる。
 
 ウルトラマンのようにツルンとして、作品は政治的主張はしませんけど、
 懐柔の物語をどう解釈したのか、感想を語る人が少ないのは、それも不気味です。
 
  
美と正義と真実の化身、弥勒菩薩。
 
 長澤まさみとの恋物語でもバディものでもなく、
 ワンピースのような仲間ものでもなく、
 
 光の国から、衆生を救いにやってくる。
 今は「どうやって人間を救おうか」と頬杖をついて考えている。
 ちょっと楽しそうに考えている。

  
 ゼットンとゾフィーの最終回はそれを外しては語れない。
 その超越的な慈悲の精神に、思い馳せることなくては、
  ”そんなに人間が好きになったのか” が響かないと思うのだか。

 ”地球の平和は人間の手で掴み取ることに価値がある。”
 というゾフィーとのスタンスの差、
 そこに共感がないと、感動があるのかなと、私には想像がつかない。
 死を受け入れるのが人間というものという、改変も良かった。
 
  
しかしまあ、目が覚めて、現実に戻ると、
 
この後開発する人たちの憂い無きよう、スムーズに進行するようにと、
思い仕事をしてみたのですが、
”言われたことさえ、やってりゃいいや” という冷気に当てられました。
ゾフィーの必殺技のように。
予想外のダメージを受けました。復活しなくちゃ。
 
スノーゴンは新マンでした。続編のセブンも期待したいです。

 

 

 
 

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