お金の使い方、リソースの活かし方 「この子は邪悪」「さかなのこ」

20日線は抜けましたが、3月末の高値で抵抗されて、
もう一度-2σまでタッチしそう。
 
そんな今日このごろ、いかがお過ごしでしょうか。
私はぼちぼちで、来週は安値で拾えたら買う気でいます。
 
 
今週は、
習熟度の差というのは、与えられたリソースの活かし方の差なのかと、
なんとも複雑な気持ちになりました。
 
 
テアトル系で、ロングランすべき作品。
平日の午後、そこそこの入で、劇場は温かい笑いに包まれてました。 
「さかなのこ」

冒頭の言い訳と子役演技丸出しの序盤が苦手で、手放しの絶賛とはゆきませんが、
期待を上回ってくれてよかった。
 
さかなクンをモデルに、
小学生、高校生、社会に出てから、の3パートで構成されてます。
冒頭でベタな言い訳をするくせに、なかなかトリッキーな仕掛けが施された映画。
 
手牌の切り方が複雑で、私は翻弄されました。
 退屈させず、興味を2時間持続させるということは、
 こういうことなのか。
 
 
小学生編は、
 人間関係の布石という役割はむしろサブで、
 メインは、さかなクンが社会的な成功を掴めなかった世界線の提示。
 それを本人が演じるというトリッキーな企み。

 さかなクンがさかなクンのままで、
 社会に受け入れられているのは、逆に奇跡かもしんない。
 でも、これは絵空事でなく史実に基づくお話。
 ワンピースとは似て非なるもの。
 自由の代償を支払いつつも、曲げることなくそのまま生きる。
 幼稚なまま成長しないピーターパンとは違い、さかなクンは実在する。
 と観客に想像させる。
    
 
高校生編になり、
 磯村勇斗が登場し、途端に画面が安定する。
 子役の長セリフはリスキーだと逆に改めて思う。
 ユーモラスな場面できっちり笑いを取ってくる。
 これぞ沖田修一。観てて安堵した。
 しかし、豪華なキャスティング。
 プロデューサーが有能なだけでなく、監督の信用力も大きいのだろう。

 なぜ鈴木拓なのか、(ドランクドラゴン)が付かないのか?
 本物の同級生だと後で知るのだか、どうでもいい疑問も感じつつ、
 
 描かれはしないけど、史実では生きづらいことも多々有ったろうと想像される。
 中学時代はスルーされているが、水槽と吹奏を間違えて入部したらしい。
《いじめられている君へ》「広い海へ出てみよう」
https://withnews.jp/article/f0150531000qq000000000000000G0010401qq000012045A

ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。

 この時代の、この環境逆説的に生まれたヒーローかもしれない。
 これが実話だというのはやっぱ凄い。
 状況は同じでも、どう受け取るかは自分次第。悟りに近い達観。
 
 劇中描いていないだけで、迫害はそれなりに厳しかっただろう。
 でもそこは気にしないから、あえて描かない。
 
 劇中でも、家庭環境も間接的に描かれる。
 史実の父親は、
 秀行先生、依田紀基先生と同じ系譜、破滅型棋士の宮沢吾朗先生。
 その子供のハードモードが忍ばれる。
 心が強く、囲碁にだけ集中してれば、
 宮沢吾朗先生もっとタイトル獲ってたはず。惜しい。

 演奏は今でも達者で、劇中でも兼ねていてるとエンドロールで知る。

 
社会人編は、見事な回収。
 なんとか社会と折り合いをつけて生きている人への映画だと、観客が気づく。
 それぞれ大人になってゆくが、さかなクンはさかなクンのまま生きてゆく。
 劇中はTVチャンピオンで一躍有名にはならないが、
 就職で苦労したあと、絵の才能がようやく認められ、タレントとしても活動してゆく。
 研究者としての功績までは触れずに映画は終わる。
 研究に学歴は関係ないと観客は知っている。
 本人役の伏線回収なのだと、私はようやく気づいた。
 同時に、 
 事務所に干され、名前さえ奪われても、自分を曲げず、
 理解者、支援者を得て、
 いきいきと芸能界を泳ぐ役者さんが主役なのも納得。
 「この世界の片隅に」で大復活でしたね。
 
 好きを貫くには力も要る。
 けれど、
 優先度の低いことは気にせず、好きに夢中だったから、
 力も宿ったのかもしれない。
 働いてみると、ピーターの法則について、よく考えさせられる。
 水槽の中の出来事。
 
 劇中の人物達も、社会と折り合いつけながら、好きを大切にしてる。
 豪華なリソースを見事に活かした沖田修一監督の手腕に舌を巻く。
 「こちらあみ子」と素材は似てて真逆のメッセージ。
 沖田監督は家族と社会と仕事をいつも、ちょっと微笑みながら描く。
 この作家性を貫きながら大成したのだって、一筋縄ではいかない。
 
自分の好きは、まずは自分が大事にしなくちゃ。
才能はそういうものかもしれない。
 
 
 
「この子は邪悪」 ネタバレします。

TSUTAYAの受賞作と聞いて、期待した。
去年の「先生、私の隣に座っていただけませんか?」が良かったから。
 
うーん、
ホラーは低予算でも出来る若手の登竜門だけど、
だからこそ、演出の技量がはっきり出てしまう。
卵とネギだけのチャーハンのようなもの。
 
状況説明の序盤、大西君がヒーローとして頑張る中盤、
ドタバタして、サスペンスの謎が明かされる終盤の三部構成。
 
序盤説明が長い。不穏な空気を描こうとしてるのかも知れないが、
 玉木宏の悪巧みは観客は秒で理解するのに、延々説明の描写が続く。
  ”わかったから、話を進めろよ!”と苛立ち、やがて退屈。
 小津安二郎にインスパイアされた日常系の映画かと錯覚してしまう。
 お金も掛かってて、映像は充分に美しい。 
 
中盤までは、最初の説明どおりで、でしょうね。
 手牌の切り順が素直過ぎて、待ちを読み間違うことはない。
 どこかに謎がないと、興味の持続は難しい。
 
終盤は謎が明かされ、ドタバタと雑に畳む。
  大黒柱を失ってどうやって暮らしていくのだろう?
 オチとタイトルの意図は分かるが関心が別のところに向いてしまう。
 
 
謎の仕掛けが、超常現象オカルトのパターンなのですが、
玉木宏の目的自体は最初から動かないので、
塩ラーメンとおもったら醤油ラーメンでした、くらいの落差しかない。
オチないフォークはただの棒球。
ちくしょう、期待を下回る。
 
実は犯人は玉木宏以外という、立場逆転パターンじゃないと、
驚かしは無理じゃなかな。
 
先日の「俺を早く死刑にしろ!」と比べて、
リソースは潤沢で演技も撮影も確かで、構成に破綻もないけれど、
サスペンスを魅せようと演出する気あんのかと、疑問のまま終わってしまった。
 
虐待や洗脳という社会性高いテーマを、
ただの素材として扱う作り手の姿勢を非難する向きもあるけれど、
私はサスペンスとしての狙い自体が不細工なのが気になった。
説明がただクドくて、展開がアッサリと予想通り。
 
”俺があいつで、あいつが俺で” が得意なのかもしれないが、
監督の資質とテーマが合ってないのかもしれない。
リソースの活かし方のミスチョイスな気がする。
  
 
自分を活かす場所は見つけられなくても、
活きない場所は自覚して避けないとな。
 
環境を嘆くことなく、ただ避ける。
その分、優先すべきを優先。
 
才能とはそういうものらしい。 

 

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