TVはどう死んでゆくのか 褒めねば「バカリズムと欲望喫茶」「水ダウ」。 阿刀田高「魚の小骨」教養が無いのは哀しいことか。 

ちょっと前のことですが、
「バカリズムと欲望喫茶」と「水ダウ」津軽選挙回が衝撃的でした。
褒め忘れていたので褒めます。
 


もうフォーマットは出尽くしたかと思われましたが、
才能は汲めど尽くせず。凄いね。
自分の思考の外の発想に触れて、その上面白い。
 
youtubeでは、まだ自由な発想の企画の余地あるけど、
TVじゃもう出ないかと思っていた。
 凄い領域に行ってる。電波買ったのかと。 
 
社会的にまだ、意義があるかもしれない報道や天気などは残して、
あとは個々別々に枠をオークションで買えるように将来はなるかな。
 
マスに訴えたい、広告したいコンテンツは、
TVでブロードキャストして、別のメディアに誘導する。
番組の間にCMが挟まるというモデルは無くなる。
アベマ主導のテレ朝の番組もっと増えるかもしれない。
テレ朝が深夜バラエティに力入れているのは、アベマと提携してるからか。
 
アマプラやNETFLIXやU-NEXTも、
自前のチャネルへ誘導するために、TV番組持つようになるかな。
アベマだけ抜け駆けして、TV局と提携できたの大きいな。
千円割るんだったら買おうか。
 
企画をTV局に任せて、番組の合間のCMを電通に売ってもらう。
そのモデルは崩壊するし、崩壊していいよ。
才能ある人が主導して番組作った方がいいよ。
 
斜陽なテレビ局にもう人材は集まらない。
スシローぺろぺろと同レベルの発想に、限り有る地上波の枠使って欲しくない。
佐久間Pがテレ東辞めたのが、ターニングポイントだったと、
未来にそう分かりそう。
 
 


報道では、もう中立的で能動的な取材はムリか。
民放では特に、
圧力掛かっても何の後ろ盾もなく取材するのはコストに見合わない。
元首相がテロで殺されても、宗教への取材は腰が引けてる。
モリカケで騒いだときも、豊中の産廃業者に取材しないもの。
 
小説のような社会派のネタを、ホントドッキリとして料理する。
藤井Pのセンス凄い。
 
伊集院光、カズレイザーという守備範囲の広い確かな芸人に、
峯岸みなみという丁度よい達者、配役も説妙だね。
 
選挙はよく、戦国時代の合戦に例えられるけど、
閉鎖的でパイが限らている地域だと、負け組への粛清はエゲつない。
本当に滅ぼされてしまう。
日本で居住地探していたころは、そんな話もよく聞いた。
報道がそんなの掘り起こしても、
数字取れないし、クレーム入ってやりにくくなるだけ。
志ある記者が企画上げても通らないだろうな。 
 
社会が民放に与えた特権と国民へのリターンが見合ってない中、 
こんな形で提供されることもあるんだね。奇跡。 
 
ほんと、コンテンツ単位でバラ売りして欲しい。
番組のアナウンサーが謝罪する程度で、局が責任取ることないんだし。
 
 
いい感じで、時代に合わせて解体してくといいよね。
ところで、「君たちはどう生きるか」予習。
 
読み直すのもキツくてラクした。
ごく若いころ読もうとして、断念した。
閉塞社会では特に、メタ的自己認知や自由意志が大事なのは分かるけど、
善悪の価値基準が二元論的に硬直してるのが、辛くて。

動画内でも、ナポレオンに言及してるけど、
商業とテクノロジーの進歩が農業から主役の座を奪って、 
封建社会は綻ぶ。
前田百万石というけど、領地を安堵して、そこでの農業生産が豊かさの証。
士農工商といっても、
武士は商人に借金して高楊枝、そこに蒸気機関登場。
 
ナポレオンは王政から選挙による議会制への移行期に、
歴史の特注品として登場した。 
日本でも織田信長や吉田茂など、そんな特注品が歴史の転換期に登場する。
彼らの共通点は、その役割を終えると、あっさりと表舞台から退場すること。
 
歴史を眺める視点は、英雄崇拝とはまた別、
原作者の主張には共感できなかった。
私の少年時代は、もちろん、
”どう生きたらいいのか?” 死んでしまおうかと思う程度には、
生きづらかったのだけど。
 
↓こっちの方が、子供ごころに叡智を感じた。

頭が柔らかいうちに、現実世界の大人たちからできるだけ逃れ、
知恵ある人と接することが出来たのは僥倖だったと、今は思う。
教養ってこういうことなんだと知った。

小説というものは、端的に言えば、読み終った読者に、 
――セ・ラ・ビ。うん、ここに人生がある――
と感じさせる営みである。 
どんなときに人は〝セ・ラ・ビ〟(これが人生だ)と感ずるのだろうか。 
この発見がモチーフ型のアイデアと言ってよいだろう。人生を切り取る箴言の提示と言ってもよい。 

 
たしかそのころ、(元)親から、
当時ベストセラーだった「窓ぎわのトットちゃん」を勧められ(彼は読んでない)、
この人とは分かり合えることは一生無いかもしれないという、疎外感は覚えている。
 
ま、しかし、
素直に助言に従っていたら、リトミック教育を知って、
自ら音楽の才能も育てられたかも。
結局アートの鑑賞だけ、教養人から読書で吸収するに留まった。 
  
  
それはさておき、
いいとこの出で宮崎駿は傑出した教養人。富野由悠季でも敵わない。
前作「風立ちぬ」では、その面で、ちょっと本気出した。
今風の言い方をすれば、”バカは分からなくていい” 

分からなくても構わない、空に憧れ、空を駆けるだけ。
鳥が出てくるのは当然で、メフィスト役かな。
 
その前の作品で、遂に物語の整合性は捨てた。らしい。
横溢するイメージを最優先。

今回もマザコンでロリコンな母なる地球を描いてると聞く。

もう充分客にも媚びたし、成果も出した。
日テレも電通も徳間ジャパンも出資してない。
描きたいものをわがままに、もう描く。
そんなに時間は残ってないのだから。 
 
  
CGを見れば工業製品のような評価しかしない層に向けても、
抽象画のようなコンテンツをぶつけてるらしい。
 
アクションペインティングに接して、
”デッサンが” とか静物画と同じ文脈で鑑賞してるのかな。
若い内に、 
 ”なんだか分からんが、圧倒されるほど凄い” 
という経験はしておいた方がいいと思う。年取ってからじゃ手遅れ。
 
普段、大衆娯楽映画しか観ないレビュアーが、
”分からない” という理由で酷評してるのを確認すると、
期待が爆上がりしてしまう。ゾクゾクする。
 
そもそも、”分かる” のレンジが狭いのに、
分かるものしか楽しめないのは、退屈そうだけど。
脳が快楽物質を分泌するポイントが違うのだろうね。
  
 
どうしても、予想してしまう。
映画の王道に従い三部構成らしい。
 
第一パートは、
 幼年期を自伝と吉野源三郎の流用で描くだろう。
 退屈との向きもあるが、人生を決める決定的な時期。
 客に媚びず、丁寧に描きたいものを描いていると期待。
 
第二パートは、
 メフィストにいざなわれての冒険。
 ジブリ社史や己のフィルムグラフィーを
 「微笑がえし」的に振り返るだろう。
 ここは客にサービスしてると思われ。
 
第三パートは説教パート。
 説教臭くないと評判のよう。
 いやいや、オブラートに包んで脱臭してるだけじゃないの?
 米津玄師の曲からすると意外と感動するかもしれない。
 
そんな予想をしてしまう。
ネタバレは避けて、感想を検索してしまう。
  
夏休みとはいえ、連休明ければ余裕もって観られるだろうと、
ワクワクしながら、待機している。

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