なぜ「ジョーカー2」は面白くないのか? ストーリー構造で読み解く。「Save the catの法則」「脳が読みたくなるストーリーの書き方」「ファイト・クラブ」「ワルプルギスの廻天」

”思ってたんと違う! ファンへの裏切り” という酷評に対して、
”それも制作側の意図のうち。” という用意された反駁を超えて、
 
 ”一本の映画として単純に面白くない。”
 ”ミュージカルでも構わないが、そのクオリティが低い。”
という冷静な反応も出て、評価が定まりそうな「ジョーカー2」。
 
「天国の門」「ワン・フロム・ザ・ハート」のような破壊力を伴う、
ハリウッドの再編が、これから始まるでしょうか、
配信の時代になって、
古いものが淘汰され、環境に適応したものこそが生存する。
映画産業の転換期を迎えそうな予感もします。
 
石破総裁決定により、全力で売り玉建て、現在は忍耐中。有言実行です。
衆議院選大敗でも、無事に通過してしまいました。
まあ、しかし、
 お客に対してベネフィットを訴求するという、
 制度に即した当たり前が、実現されるのであれば、
意思決定出来ないトップも、これもまた健全なるアポトーシスの始まりかと納得してます。
 
 
それはさておき、この謝罪会見映画の物語の分析を試みる。
演出、とくに聴覚効果が視覚効果に比べ劣る問題点もあるのだけど、
本来は面白くできたストーリーが、
 恐らく編集の段階で、”フワちゃんの謝罪文”と化し、
 心惹かれない、凡庸な代物になってしまったのか?

演出や演技の問題でなく、ストーリーとプロットの問題として、
それを紐解いてゆきたい。
世に流布するレビューでは、その言及に満足出来ない。
ので自分でヤることにしました。 
 

1.ベースはイカロス型のストーリー 
ヴォネガットの6タイプで物語を分類すれば、
「ジョーカー2」はイカロス型。
有頂天に昇ってから、一気に叩き落される。はずであった。
 ①恋にのぼせて、アーサーがジョーカーに闇落ち。 からの、
 ②幻想と裁判周辺でのオン・ステージ。 拍手喝采という絶頂。
 で、
 ③夢から覚めて、妄想だったと気付く。孤独な容疑者アーサーの現実に戻る。 
 
まんま「ファイト・クラブ」である。

これは上手くゆくかなぁ。。
 
ガガは誘惑者で、ブラピのように架空。
すべては主人公の妄想。最後は悲劇的な現実に還る。
で良かったのに。
 
 
このパターンで大事なのは、
①の上昇プロセスで、お客を没頭させないとね。
 ところが、アーサーの孤独で惨めな状況の説明が長くて、くどい。
 それは前作から知ってたこと。
 歌以外の演出であっても、冗長で退屈なのは同じ。
 ガガの誘惑に負けてく様は、おそらく編集で切られている。
 配分のバランスが悪い。

②では、まさに劇場型。ジョーカーが喝采を浴びないと。
 舞台は妄想でも、法廷でもストリートでも構わない。
 素顔とは違う、仮面を被った芸人としての陶酔も描きたいところ。
 なんにしても、ここは絢爛豪華でなければ説得力が無い。
 
③の小さいおじさんに説得されて、は陳腐過ぎ。
 ハリウッドの悪いクセだが、
 ちょっと会話して和解するくらなら、2時間を返せよ!
 だったら、最初から問題解決しておけよ。
 結末は、キャラクターの返還式だから仕方ないが、
 お話としては意外性なく凡庸。
 
と、3つの場面でのお約束。
とにかく弱い。
 闇落ちのプロセスも、
 有頂天の時代の表現も、
 現実に戻るインパクトも。
謝罪会見で、ジョーカーが大衆を煽るような所作は不謹慎である故、
編集の段階で、自粛が決定されたと想像している。
監督、主演、制作会社、少なくとも三者三様のスタンスで謝罪会見に臨んでいる。
チグハグで当たり障りない物語にせざるをえなかった。
 
現実路線で、わざと下手に唄ったとか、どんな言い訳しても、
ホアキンの歌に、そこまでの商品価値は無い。
大枚はたいているのに、ガガのパフォーマンスを切るのは、苦渋だったとは思う。
 
 
 
2.誘惑者メフィストを定石通り、キチンとやらんと!!
「ファウスト」は歌劇でもバレエでも上演される。
中でも、「ワルプルギスの夜」という一幕は見せ場である。らしい。
ストーリー的には、有っても無くても成立する。らしい。
 
悪魔メフィストが主人公に快楽を味合わせるため、
ブロッケンあたりの夜祭に誘う。魔女たちによる乱交三昧。

”僕と契約して、ジョーカーに成ってよ。” って言えよ。
ただの信者では文字通り、お話にならない。 
 
ガガの悪魔的表現は一部あったのだけど、
堕天使の誘惑と、それに負ける主人公はチャント描いて、客も魅惑しなくちゃ。
 
”悪魔の誘惑”を、盛り上げず、ハラハラさせず、感情移入させない。
そんな意図されたドラマを私は初めて観た。
定石をはずし、面白くなるものを、わざとつまらなく提示している。
 
もちろん、
”期待してたハーレークインと違う!” とは一線を画す。
マーゴット・ロビー版との比較はどうでもいい。関係無い。
あくまで、メフィストは魅惑的でないと。

  
 
 
3.テーマにフォーカスしよう
まあ、つまり、
誘惑と闇堕ちの導入がないので、
本来見せ場である、舞台での憑依と陶酔、芸人の仮面と素顔が描けない。
感情移入させず、納得感が無いから、盛り上がりようが無い。
で、更に。あれでは、
 
 ”アーサーはジョーカーなのか?” 
というテーマにならない。
法廷でも論点のハズなのに、既知の情報の再提示だけ。
誰もテーマに迫らない。
結論ありきで、唐突に、
 ”ジョーカーなんて居ない。”  と言われても、
誰も説得できない。納得する客は居なかろう。
夢から現実に戻る理由が無い。有っても理由にならない程度には弱すぎる。

焦点とは、物語を生みだすためにひとまとまりとなって働く三つの要素、すなわち、主人公の抱える問題、テーマ、そしてプロットが統合されたものだ。〝主人公の抱える問題〟は根本的な要素であり、前章で述べたストーリー・クエスチョン、すなわち主人公のゴールから生まれてくる。


ピントがボケた物語の特徴が複数挙げられているが、2つピックアップ。

・主人公が誰かはわかるが、その人物が到達したいゴールを持っていないように見えるため、物語の要点が何か、あるいは物語がどこへ向かおうとしているかがわからない。

・起きたことが主人公に影響を与えているとしても、それがもっともらしく見えないため、主人公に現実味が感じられないばかりか、なぜ主人公がその行動を取っているかもわからず、次の行動を予想することができない。

ストーリーの教科書では、こう↑結論付けられている。もっともである。

これらの問題は、読者の脳に同じ影響を与える。物語を読み始めたときに感じたドーパミンの噴出が止まってしまうばかりか、期待するものと実際に与えられるものとをたえず比較している脳の一部が、これは面白くない物語だという情報を送ってくるようになる。つまり、読者はいらだちを感じることになる。

 
 
 
4.魔法のランプには、教訓が必要
「Save the catの法則」の10タイプには、”魔法のランプ”という分類が存在する。

量産される”異世界もの”などは、全てこのタイプで、
実写と違ってファンタジーを描きやすいアニメと相性がいい。
ただし、面白くなるには条件がある。

“魔法のランプ〟から呼び出された精霊が、どんな願いもあっという間にかなえてくれるのだ。そして、空飛ぶ絨毯であれ魔法の豆であれ、魔女の呪文であれ、すべての物語は以下の警告を繰り返す。しっかりと心に刻んでおくべき教訓だ。
すなわち、何を願うかにご用心!

迂闊に悪魔と契約しては、酷い目に遭う。

すべての〈魔ラン〉物語には、これまで見てきたジャンルと同様、このカテゴリーの目印となる、三つの特徴的な要素がある。それは1〝願い〟、2〝魔力〟、3〝教訓〟だ。

主人公を魔法を授けられるのにふさわしい存在にするのは、どんな〈魔ラン〉ストーリーでも〝願い〟にどれだけの説得力があるかだ。

ホアキンのジョーカーが他のDCコミックスと一線を画す理由は↑それだと思う。
次に制約と成約。

放たれる〝魔力〟は――それがどのように授けられるにしろ――ユニークで、〈魔ラン〉に今まで見たこともないようなショットを生み出し、そして、制限がなくてはならない。我々脚本家が魔法を思いついたときには、諸ルールと呼ばれる限界のセットを作っておく必要があるのだ。魔法と限界が一緒になれば、ワン・ツー・パンチだ。

トッド・フィリップスの設定は、逆張り的に秀逸だった。
 舞台では悪のカリスマとして輝くが、特殊な能力があるわけではない。

アメコミの平面的悪役に奥行きを与えた。
しかし、前作も含めて、教訓は?

魔法を使う映画の場合、主人公が学ぶ〝教訓〟は、彼が物語の最初に持っていたものこそ、ずっと求めていたものなのだと気づくことだ。実は大半の〈魔ラン〉映画が描いているのは、一周回って振り出しに戻ることなのだ。

大ブレイクした前作の段階で、着地が甘かったんだろう。制作側の。
残念だが、この時代には、 ”ジョーカーは居る。” 
”無敵の人”を生み出す社会に対して、
安い感動で前言撤回は軽すぎた。イージーな選択だった。
  
芸人アーサーは舞台の上で仮面を被りジョーカーとして生き、
パーソナルには報われない孤独な人生しかなかった。
挙げ句、笑いながら死んでゆけば、それで良かった。
それ以外に選択肢は無い。
それこそが、エンターテイメント!
 
謝罪会見を開くのは自由だけど、
”ジョーカーは居ない”は虚偽。
その着地は無理だと最初に気づけよ、ほんとバカ。
   
しかし惜しい、2/3はクリアしたのに。
 ジョーカーたらんとする願望も、
 煽られる大衆の力も。SNSなどの魔法の杖も、
 
教訓は本来、
 偶像はいつでも使い捨てで、
 安易に付和雷同的に乗っかる社会が、その代償を払う。
ってあたりだと思うんだけど。
ファイトクラブ的なエンドしか思いつかん。

現実は救いがないのに、結論がお花畑な妄想。制作側が夢見がち過ぎた。

 
人間には、つかまえる人とつかまる人の二種類あり、
その区別がはっきりしている世の中が治まる御世だと、聞いたことがある。
監督も役者も元々は、つかまる側の人なのに、その覚悟は無かったね。
ミュージカル(風)だからダメって訳じゃない。
お話が構造上、面白くない。
個人的には、酷評するほどではないので、努力賞あげるけどね。
 
 
まあ、兎にも角にも、
続編は難しい。結局一発屋で終わるものも多い。
たまたま時代の要請に合致しただけの芸人のように。
  
 
民主党政権で、東日本大震災の頃、
栄華の終わりの時代に伴って生まれた物語が、またやって来る。
もしかしたら、そろそろ戦後日本が終わるのかもしれない。 

これは時代の要請が作らせる作品だと思っている。
 
来年の冬までは生きていようと思う。
 
 
2024.11.04 現在
不正などなければ、トランプ勝利と思うんだけど、
議会との捻れが、株価に影響すると言われている。
単純な話ではないらしい。
与党が安倍派憎しの代償に過半数割れしようとも、
雇用統計は数字悪くても、無事通過したとて、
まだ、待っている。 

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