前回の続き、「ルックバック」の感想を拾っていた。
映像表現を褒めるもの、音楽含め原作よりベタな演出に否定的な人、は一旦置いて。
絶賛系は概ね3種類に分類することにした。
1.ベタな分かりやすい感動
2.自称クリエーターの良いとこ取り
3.現実直視の感慨
1が無ければ、
内容が素晴らしくても「リズと青い鳥」のように爆死しかねない。
世界は残酷だが、そういうものだと受容する。
お涙頂戴とは言い過ぎだけど、
他者承認、友情、相棒の死、京アニ事件へのレクイエム、etc。
ドーパミンが放出されるベタな感動はヒットには必要と思う。
3での絶賛は、
評価者本人の立場がどうであれ、納得感はある。
私は、そこまで手放しは出来ないが。
たしかに現実は厳しい。
2はねぇ、
自分の名前で勝負してなかったり、売れてない芸人さんの、
絶賛を見ると、白けるし、不快感が残った。
そんなヌルい話じゃないように見えるのだけど、
「チェンソーマン」以前ならまだしも、
今や押しも押されもせぬ第一線で活躍する週刊連載の漫画家と、
同じ現実に直面して、彼らが覚悟を問われるようには全く見えない。
自称クリエーターの自己投影はなぜ不快なのか?
頭に浮かんだそのままの疑問文を、ちょっと深堀りしてみようと思う。
ちょっと申し訳無いが、引用。
違和感を感じたのは、↓このセリフ。
”ネタを書かなきゃならない”
いや、頼んでねえし。
ヤなら辞めちまえよ。という反発心が湧いた。
藤本タツキはそんなところで戦ってねえだろ。
都合のいいとこ取りすんなよ。
時の総理大臣が大好きな ”ねばならない” だけど、
以下、同じ構文ではあるが、
消防士さんは、休日でも火事となれば現場に駆け付けなければならない。
とも、
脚本家としても多忙なバカリズムは、「バカ狭い史」の台本を朝までに上げなければならなかった。
とも、
同じ意味を持つとは、到底思えなかった。
あっても無くてもいい商売
コロナ禍の折、生前の円楽(楽太郎)師匠がラジオで、
弟子の伊集院光と、落語を称してそう言っていた。
曰く、
”寄席も開けないこういうご時世で、
あっても無くてもいい商売だとバレないようにしなくちゃ。”
真意は、
今は拡大防止を最優先にして、
また、寄席も復活できる日が来たら、
その時は、笑いで世の中を盛り上げてゆきましょう。
師弟ともども、そんな話をしていた。感心したので記憶に残っている。
やっぱ違うなぁ。
芸人が偉いと勘違いしちゃってトップから転落する人も居るのに。
芸能、エンタメ、プロスポーツも含めて、
娯楽で成り立つ商売だもの、本来は、あっても無くてもいい。
お米作ってる訳じゃない。
それで、一生使い切れない金額を稼ぐ人も居る世界なのだから、
才能もあって、
プロとして継続できる資質も、
両方ある人しか継続的は生き残れなくて当然である。
才能あっても、結局は破滅しちゃう人いくらでもいるじゃん。
逆に才能なければ、年齢制限ある囲碁・将棋の方がまだ優しい。
10年で目が出なければ見切りをつけろと言う島田紳助は優しい。
漫画の才能は、実は藤野の方という残酷
いしかわじゅんがBSマンガ夜話で説明するように、西原理恵子は絵が上手い。
漫画での絵の上手さは、写真のように絵が描けるってことじゃないから。
それが読み取れないようでは、クリエータとしてヤってくには厳しいのではないか。
ストーリー系のコンテンツで勝負するには才能無いと思うのです。
絵が描けても。努力して絵が上手くなっても。
それだけではプロとして続かない。作画担当に徹するのでなければ。
適正の無いところで努力しても報われないって残酷さでもある。
でも自分じゃ分からないから、
間違って努力もしちゃうし、才能の限界を後から思い知ったりする。
藤本タツキは、
アートなのにエンタメ性を兼ね備えたコンテンツ作れる才能があって、
美大に行って、絵の実力も身に付けた。
劇中では、キン肉マンのように分身してるけど、そういう才能の話だよなぁ。
芸人として売れてなくて、”ネタを書かなきゃならない” というのは、
自分の才能と向き合っているのかな?
プロとしての適正
プロとして名を成すような人なら、
同級生が遊んでるときにバッティングセンターで打撃練習してるイチロー少年のように、
その程度のことは誰でもだろう。
凡人の努力と同列に語るのは、おこがましい。
プロ目指すなら当然。
そういう継続が平然と出来る人がプロになってゆく。理由は関係ない。
プレッシャーや孤独や誹謗中傷にも、平然と耐えられるのが、プロの資質。
逆に才能だけあって、プロに耐えられる資質が無ければ破滅してしまう。
売れないうちは、
売れても「ファイヤーパンチ」くらいの知名度の時は、まだしも、
雑誌の看板背負うくらいに成っちゃうと、
耐えなきゃならない重圧も、凡人の想像では及ばないと思うよ。
芸人として売れてなくて、”ネタを書かなきゃならない”って言う人が、
自己投影できるような世界が描かれているのかな?
精神を病むような敗北者から、
道半ばで強制終了してしまう人、
モロモロにも耐えて、第一線で活躍続ける創造、
作中、三者三様に描かれるけど、
中途半端な人が自己投影できようなストーリーだとはどうしても思えない。
むしろ共感するより、自称レベルの自分を恥じるもんじゃないかな。
で、 なんで不快なのか?
多分だけど、
対価を払わない人を泥棒だと思ってるんだと、思う。
泥棒と関わると酷い目に遭うってこともあるけど、
泥棒的思考に感染するのが怖い。だから、アラートが脳内で鳴って嫌悪する。
ヌケモレ無く、トータルで物事を評価出来る方がリスクが少ないと思っている。
自分の信念になってるかもしれない。見落としのせいで罠にハマるのは嫌だと。
だけど、実際は、
都合よく、いいとこ取り出来るのも能力で、
この世界で生き延びるには適した才能。私には欠けている才能。
少数与党の質疑応答で、質問する活動家のように、
自分の願望を世論と言えるくらいの図太さが資質というものかもしれない。
ただ嫌悪してるだけの自分は間違っている。
その世界で生きてゆく才能は無いのだから、
適することが出来る環境を選択しなければ、
たとえ孤独で死んでしまったとしても、
もっと早く労働を断念すれば良かったなと、
無駄な足掻きをしてしまっという後悔はある。
いいとこ取り出来るのも才能、彼らは彼らで社会に適応して生きている。
やっかむんじゃなくて、
私は私が適応出来る場所を見つけないといけない。
何かを諦めてでも、生き延びてゆかねばならない。