晩年と狂気「夢」「ノスタルジア」「花筐/HANAGATAMI」 歳を取ったらもう自由でいたい。

ノマドランド」観て、晩年の過ごし方について、考えさせられる今日この頃。
いかがお過ごしでしょうか、私は相変わらずです。
 
部屋で映画三昧の日々です、
前回の続きで、狂った晩年の作品に興味惹かれるのですが、
ジブリ作品は配信で観ること叶わず。
ポニョは一番狂ってるらしいから、観たかったのですが。 
 
そこで、
 死後評価が確定ぎみで、
 晩年が気になるもの観てみました。
 
黒澤明、タルコフスキー、大林宣彦。
晩年変わる人、変わらない人いろいろ。
時代も変わりますし。 
 
 
ついでに、自分のこと振り返ると、
 タイタニックを船ごとなんとかしようと足掻くと失敗し、
 自分だけでも救命ボートで逃げ出そうと画策すると成功。
そんな人生だなと、我ながら驚きます。
 
失敗するのは、
 努力の方向がまちがっているから、
 間違ったことを正しいと信じているから。
 
上手くゆくのが、正しい道。
いっぱい間違って来ましたねぇ。
そんなことも、思い出してしまいます。 
 
 
 

wikiなど参考に、雑に要約すると、
 映画演出の才能は最初からあり、
 戦前戦後と検閲には苦労する。
 
 観客を満足させるストレートな作品を第一としつ、文芸作もこなす。
 三船敏郎と出会い、さまざま映画演出技法も開発。
 これまでにないリアルでダイナミックな演出。
 国際的評価高く、名作、ヒット作多数。
 日本の映画黄金期そのものの人物。
 世界のクロサワになる。
 
 70年代に入ると、
 テレビの時代になり、制作費も上がる。
 大作映画を撮るには不向きの時代。
 自殺も図る。
 
 外資の協力も得て、大作を撮る。
 興行的に成功したり、失敗したり。
 最後の3作は、最晩年の小さめな作品。
 
 
 春日太一クロサワ評で、なるほどと、膝を打つのは、
  
 適度にダサい、大衆性。
 オシャレより分かり易さを大切にしている、
 物語の王道。
 ドラゴンボール、ワンピース、黒澤明。
  
 映画が娯楽の王様だった時代の代名詞という印象を持ってます。
 その最晩年、狂ったイメージも表現されていると聞く、「夢」観てみました。
 ダメだったところ、観ておいて良かったところ、記します。
 

 その特異な制作体制の一つに、共同脚本が挙げられ。

黒澤は共同執筆をする理由として、「僕一人で書いていると大変一面的になるおそれがある[110]」と語っている。共同執筆の方法は、脚本家全員で同じシーンを書き、それを比較して良いところだけを取り入れて決定稿にするというものだった[111]。
<中略> 
橋本は「黒澤組の共同脚本とは、同一シーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、混声合唱の質感の脚本を作り上げる―それが黒澤作品の最大の特質なのである[111]」と述べている。

 撮影もそう。

複数のカメラでワンシーン・ワンショットの長い芝居を同時撮影するというもので、この手法は「マルチカム撮影法」と呼ばれた[118]。マルチカム撮影法は『七人の侍』で決戦場面など撮り直すことが難しいシーンを、数台のカメラで一度に写すことから始まったもので、次作の『生きものの記録』から本格的に導入した[118][119]。黒澤はこの手法を使うと俳優がカメラを意識しなくなり、思いがけず生々しい表情や姿勢を撮ることができ、普通の構図では考えつかないような面白い画面効果が得られるとしている[71]。
<中略> 
複数カメラで撮影した同じシーンのフィルムをシンクロナイザーにかけ、一番いいショットを選んで繋げるという方法で編集をした[121][123]。複数カメラで長いシーンを撮影すると、スタッフは映像のイメージがつかみづらくなるため、黒澤は撮影したシーンのラッシュフィルムが仕上がるとすぐに編集してスタッフに見せ、ロケーションにも編集機を携行した[121][124]。そのため撮影が終了する頃には、編集もほとんど済んでしまうことが多かった[124]。

 なのに、
 晩年の3作品では、単独の脚本。
 脚本が最初から決定してる作品は出来がよくない。とも言われる。
  
 映像に比べて、セリフにこだわり無いのに、ちょっと驚きました。
  江戸時代の武家の嫁、平安時代のやんごとなきお内裏様も、
  口調が全て現代口語。映像のリアリティを減ずる。
   
  説明セリフが多すぎ。興ざめしてしまう。
  もっと削れる。最小限に留めた方が映像に集中できる。
 
 演技も記号的で、観ててノイズになる。
  上手くない子役にそんなに寄らなくても、
  寺尾聰に、わかり易さ優先の演技させすぎでは?
  
 
 斜陽化した後の日本映画の特徴かなあ。
 あんだけの映像なのに、それでは台無しなのではないかと。
  映像で伝えればいいのに、
  もう自由なのだから、
  そんなに分からせようとさせなくていいのに、
 と勿体なく観てました。
 
 当時は、
 反原発や農本主義が社会批判として好意的に受け止められようですが、
 宮崎駿が引き継ぎますけど、薄っぺらい。
  大量に電力消費する娯楽産業に従事する者の罪悪感の発露を、
  他者への批判という手段で行うのは、支持出来ません。
  反対は分かったから、対案を実践してみせてくれよ。
 晩年にもなって、
 言ってることとやってることが違うのは、感心できない。
 

 自分語りをするに、骨格はとても良いと思うのだけど、 
 なんで、
 宮崎駿の「風立ちぬ」のようには行かなかったのだろう?
 芸術に寄せて、ストーリー犠牲にしても大ヒットした。
  分からせようとしない。最後だから、
  分からない観客は分からなくていいという、思い切りの良さ。
  結果は散々という自己評価だけど、悔いはない。
 その差を感じる。

 こちらはプロデューサーのタガが効いていたからか、
 過去の成功体験が、苦痛だったのか、喜びだったのかの違いか。
  
 美しいものだけ撮ってていいのに、
 罪悪感が全編に渡り、顔出しすぎで、邪魔になる。
 良き脚本家ついていれば、バランス調整出来たかもしれない。
 
 
 それでも観ておいて良かったのは、
 CG以前の当時の合成技術で、美しい画を観られたこと。
 今残っていて、観ること出来るのは貴重な体験と思いました。
 
 それと、散漫だという批判はあたらない。
 連作短編の試みは成功と観てました。
  短編が8本で、
  幼年期、青年期、壮年期、映画監督としての時代、そして近未来。
  時系列に描いて、
  最後ニューオリンズの葬式みたいな葬式で締める。
 散漫ではないよ。 
 
 でも、
 近未来の放射能編は一本にまとめて、主張はそこに集約して。
 水車編は主張をセリフで言わすのやめ、葬式のシーンだけで、
 最後に、ゴッホ編で締めれば、、
 その方が良かったかなぁ、
  
 脚本の段階での、取捨選択がまだ甘い。
 もっと良くなる余地あったのに。
 当初はもう少し短編多く構想してて、
 予算との相談で本作の構成となったらしい。
 水車編を最後に持ってきたのも、その結果。
 うーん、 結論を急いだか。
 
 
 「夢」でも、もし共同脚本だったら、
 もっと世界から絶賛される作品になったかと。
 しかし、これが最後かもしれないから、
 傑作生み出すより、好きなように撮ること優先した。 
 まあ、私がとやかく言うことでもないか。
 
 ゴッホ編も死のイメージあるけれど、
 そこだけ贖罪が無くて、自身の映画人生だけは肯定している。
 それで終わった方が人生カッコいいと思うのだけど。
 
 
 

 眠いっす。 
 退屈ですから。忍耐を要求される感じが苦手です。
 
 その長回し要るのか? 必要かなぁ。 いっくらなんでも長すぎじゃあ。
 と観てる間に徐々に映像が変わってゆくのですが、緊張が持ちません。
 
 無理に理解しようとせず、映像に没入できればよいのでしょうか。
 私は上手くゆきません。
 
 それでも、一度はタルコフスキー経験しておいても、損はないかと。
 他では、経験できない、圧倒的な映像体験ですので。
 
 
 ネタバレは気にしても意味ない(サプライズを楽しむ映画じゃない)、と思うので、
 有料ですが、先に町山さんの解説先に聞いちゃった方がよいかもしれない。
 そんなの分かんないよ! ってシーン多いもの。
 懇切に説明してくれてます。
 
 ググっても、他に有効な解説見当たらない。
 町山解説は、以下の点以外では、とても有効でした。 
  当時の政治状況についての説明は、相変わらずバイアス。
  亡命や受賞について触れてない部分あり。
  宗教についてはノータッチ。

 逆に、
 映画だけで分かるのは、
  主人公は監督タルコフスキーそのもの。
  マリア信仰と女性崇拝が強い。女性はすべて母。
  イタリアとソ連の間で悩む。
  祖国への郷愁は強い。
  家族と上手くいってない。女性にはだらしない。
  家庭を営むのに恐怖心がある。
  権威的だが実は自信はない。
  父親との葛藤を未だ抱えている。
  幼年期に苦労した。
  最後は決断する。みたい。
  死期が近い予感がある。
  芸術至上主義?

 くらいなので、
  ソビエトから西側へ亡命を決意することの意味、
  幼年期の経験や父親との関係はどうだったか、
  家族との関係はどうなのか、離婚したのか、
 あたりの情報は事前に入れておいた方が楽しめます。
 密接に関連があります。 
 

 お話は実は、しっかりシンプルに進行する。
  迷い→キッカケと決別→決意表明→死と理想
 この構造は入れてから観た方が分かりやすく、
 むしろ退屈しないで済みます。
  
 郷愁を捨てられないが、祖国を捨てるべきか。
 愛人にも見捨てられ、踏ん切りがつく、
 父と同じように、家庭捨てても芸術に生きる。
 (書を燃やすのは昇華という表現あり)
 
 意志表明は、
  公的な宣言(狂信者の演説)と、
  私的な実行(温泉を渡る)が、
 並行で描かれます。
 エンドは死と理想(イタリアで故郷を描く)。
 
 ラスト周辺、
  温泉を渡るシーンは、
   過去にも亡命試みて断念したのか、
   離婚して3回まで家庭をやり直すことなのか、
  どちらかを表しているように思いました。
 
  焼身自殺は死ぬまでは煉獄で生きる。ようにも見えます。
 
 
 まあ、年寄りは主語がデカイなと、
 共感出来ない主張もあるのですが、
 予備知識があると、あんがい言いたいことは明確です。
 全部映像で表現するので、分かりにくいですけれど。
 
 
 あと、
 町山解説との重複を避けて、いくつか書きます。 
 
 宗教について、
  カソリックとロシア正教の違いは、私には分からないので調べました。
  千家とか本願寺みたいなものでしょうか、
  ローマ帝国の分裂で仲違い。東西に別れたくらいしか知りません。
 マリア崇拝

18世紀及び19世紀において、様々なプロテスタント教派が「マリア崇拝」(Mariolatry[6])という用語を使い始めた。この用語はカトリック教会におけるマリア崇敬、聖公会のアングロ・カトリック主義、そして東方正教会における聖母マリアへの信心業の実践について言及したものである。この用語を使用するプロテスタント各教派の見解によると、マリアに対して極端に注意を払うことは、神に対する崇拝から道を逸っているばかりでなく、実際に偶像崇拝に接触するものだとしている[7][8]。

  映画の中で描かれる宗教はキリスト教というより、マリア信仰に見えます。
  宗派によっては異端扱いされるジャンルかと、うろ覚えで確認しました。
  マリア像がよく出てくるカソリックはもとより、ロシア正教でもアリ。
  イタリアとソ連なので、プロテスタントは関係ないですし。

 ロシア正教会とカトリックの違いは何ですか?
  注目したのは、
      ロシア正教 カソリック
   原罪    なし    あり
   煉獄    なし    あり
   音楽   聖歌隊  オルガン
   離婚  3回まで    ダメ
 
  タルコフスキーは正教よりも、カソリック的と言われる部分あるらしく、
  離婚以外はカソリック的なのかもと思いました。
  特に、原罪と離婚の後ろめたい感じが重要な点かと。
 
 
 政治状況について、
  テーマが亡命ですから、避けては通れません。
  1962 キューバ危機
 
  1975 サイゴン陥落
  1976 ポルポト首相誕生
  1978 アフガン侵攻
  1979 イランアメリカ大使館事件

  1981 レーガノミックス開始
  1983 「ノスタルジア」公開
  1884 亡命宣言
  1985 ペレストロイカ開始 
  1986 チェルノブイリ事故
  1986 「サクリファイス」公開
  1986 ゴルバチョフによる名誉回復
  1986 パリにて死去
 
  1989 ベルリンの壁崩壊
  1991 ソビエト崩壊
 
 
  町山さんは映画解説は優れてますが、
  イデオロギー的なバイアスはよくない。
 
  60年代は米ソ対立核ミサイルの恐怖にリアリティあったでしょう。
  しかし、
  70年代は、地域紛争への大国の介入の時代になり、
  介入しては泥沼化し、
  が、介入しなければ、それはそれで良いことばかりでもない。
  核じゃなく、枯葉剤やクラスター爆弾ならいいのか?
  そういう時代に移り変わります。
 
  80年代になりレーガン大統領登場し、
  ここからは、核戦争の緊張ではなく、共産主義の敗北の歴史。
  共産主義は資本主義に負けたんです。
  映画は関係なく、世界は世界の都合で動いている。
  その後は、ボーダレス、グローバル化が加速します。
  
  前出の黒澤明の晩年でも、ヴェンダースの「夢の涯てまでも」でも、
  巨匠たちが老害化するのは、
  既存の秩序崩壊を伴う自由を把握出来ていないからとみます。
  遺作でタルコフスキーは核戦争を扱います。判で押したよう。
  彼らの描く核戦争は、
  自分に安定ももたらしてくれた秩序が瓦解してゆくことへの不安の象徴。
  一見批判に見えるけど、内実は不安だから攻撃してる。
  真面目に向き合ってはいない。
  あなた方も望んだ自由は世界が勝手に実現したじゃないか。
  そこスルーして、社会批判はご都合すぎねえか?
  
  未来人の視点では、巨匠たちの時代感覚はズレてます。
 
  
 1983年のタルコフスキーの人となりについて、
  私はあまり好きになれない。それが映画からも伝わります。  
  wikiを鵜呑みですが、
  共産党の文化事業として、映画制作が出来て、
  彼は特権階級にあった。
 
  もし若くして西側に亡命していたら、
  ハリウッドでなくアート系に理解あるヨーロッパであっても、
  商業映画として成功しただろうか。
  ヒッチコック、黒澤明も自宅を抵当に入れてる。 
 
  それで、亡命にあたり正義ぶってもなぁ。単純化はできない。
  しかも実際のところ、

相談を受けたコンチャロフスキーが助言したように、この頃のソ連は各種の規制緩和が進んでおり(ミハイル・ゴルバチョフ書記長のペレストロイカは1985年)、わざわざ亡命を宣言する必要は無かったと言われている。事実 コンチャロフスキー、ニキータ・ミハルコフ兄弟は亡命もせずに西側で映画を撮っていたのである。ソ連当局の検閲に対するタルコフスキーの積年の嫌悪と恨みはかくも強烈だった。

  深刻ぶった割に、現実の時代背景は自由化の方へ変わっている。
 
  そして本作で、カンヌ受賞とさらりと言及する人多いですが、

ソ連を出国した後も、『ノスタルジア』の撮影中には最上級ホテルのスイートルームと最上級の食事を要求し、その上で西側のプロデューサーの支払いが悪いという愚痴を日記の中に延々と書き連ねているし、「芸術が大事なんですか?お金が大事なんですか?」とプロデューサーに詰め寄ることもあったという。また、カンヌへの『ノスタルジア』の出品に際しては大賞受賞との交換条件での出品を強く運営サイドに要請。同時期に『ラルジャン』の出品で同様の要求をしていた、ロベール・ブレッソンとの板挟みになった運営サイドは、『ノスタルジア』には特設賞の創造大賞を贈ることで決着を付けた。

  芸術至上主義というには、俗物過ぎないか。
  コンプレックスの裏返しの特権階級意識がそこかしこに見られて、
  かつ、映像に比べて、現実の振る舞いは美しくない。
 
  町山さんは百も承知でソフトに語ってますが、
  私は疑問も感じます。好きになれません。
 
  映画観てても、タルコフスキーの人格がノイズになってしまう。
 
 
 そういえば、
 宮崎駿の「風立ちぬ」が鑑賞後、清々しいのは、
 主語が常に自分で、正当化しない。
 業の肯定だから。
 宇多丸評的には、正しくなさの肯定。
  エリート意識はある。
  バカは分からなくていい。
  人非人で人情を解さない人格だ。
  家族は省みなかったが後悔してない。
  結果は散々だったが、作品に人生を捧げた。
   
 社会が悪いとか政治が悪いとか他人のことは言わない。
 自分語りに徹してる。
 似たような主張もする人なのに、そこに、
 晩年一線を画した成功の秘訣があるように。思われ。
 
 
 まあ、マーベルが席巻するような時代、
 この時代では、お目にかかることが出来ない映像表現。
 どんなに技術が進歩しても、埋められない才能。
 紙一重な人にモラル求める方が間違いですね。
 
 ソビエトで生まれ育ち、崩壊とともに去った。
 父親同様に家庭を見捨てても芸術に生きた。
 実際は俗物でも、映像表現は唯一無二。
 
 逆に、それで良かったのかもしれない。
 
 とりあえず、その時代のその才能を愛でるのが正解。
 寝てしまったら、それもまたよし。 
 一度は経験しておいて、損はないかな。
 沢山経験したいかは、好み。
 
 
 
最後は毒食らわば皿まで。 

 寝てしまいました。序破急と章分けされてるようなので、
 章ごとに休憩いれて観ました。
  
 原作は読んでみました。理解するには読んだ方がいいですが、
 読むと映画の問題点が気になって、逆に楽しめないかもしれない。
 
 三島由紀夫が読んで作家を志したという無頼派檀一雄の作品。

 原作から、ちゃんと狂ってます。
  サイコパス気味で本来モラルない若者たちの群像。
  現実を写実してるのか、妄想を描写してるのか渾然。
  エピソードが並列に並ぶ、ラストも幻想的。
  思春期の性欲全開、同性愛も重要な要素。
  戦前が舞台で裕福な家庭。反戦はまるで関係がない。
 
 
 ああ、
 無理やり反戦ぶっこんでくるから、歪むんだ。無駄に長いし。
 食い合わせ悪いな。一番気になった。
 原作は時代が日米開戦より約10年近くも前か。
 映画は時代考証に違和感感じるもんな。
 それは後回しにして、原作について、

  夏目漱石の「こころ」思い出しました。それに石原慎太郎ちょい足し。
   気取った文章。
   海岸のイメージ。
   若者の同性愛。

  「太陽がいっぱい」だけでなく「こころ」も、
  たしか淀川長治が言及してたはず。
  
  女性に親友を取られることからの愛憎。
  ルネ・クレマン監督が否定しても、ホモだし、アラン・ドロン好きだし、
  そりゃダダ漏れますよ。
  
  檀一雄はそれ群像劇にして、イメージ横溢させて、
  ファンタジーとも悲劇とも判別つかないような幻想的な終わり方してます。
 
  原作は三島由紀夫が感化されるのだから同性愛は当然ですけど、
   文章のフォーマット壊すような描き方、
   歪んだ性欲と平然とモラル無い青春群像、
   感情を説明するようで、まったくしない。
  画期的で、衝撃受けたのだろうと、想像します。
  性欲が原動力で、サイコパスな行動に出るのは檀一雄テイストですかね。
  狂ったように世界が見えるってことが、即ち、才能。
  ゴッホのように。生きづらいって才能です。  
 
  若き大林宣彦がこれ映像化してみたいと、意欲持ったのも、なるほどです。
  
 ですが、
 マンガの映画化みたい。日本映画の弱点全開。
 映像は面白くても、キャラクターが似せるのに精一杯。
  男性陣のキャスティングは、満島真之介はアリとしても、
  他は、、若くて上手い俳優選べなかったかな。
  特に、主役の窪塚俊介の顔芸ではマンガの実写そのもの。
  長塚圭史もおじさん過ぎるし、特別上手くもない。
  女優さんが演技頑張っても、台無し。
  原作にキャラ寄せるからこそ、演技力がより大事だと気付かされます。
 
 セリフが棒。
  敢えての意味もあるでしょうけど、原作部分は完全にコピペ。
  役者さん達の会話が棒で、どういう感情でそれ音声にしてるの?
  観てて問い詰めたくなりました。
  そのリアリティラインでって、あえての演出でしょうけど、
  それでも正直2時間はキツイです。

 大林監督ノンケ過ぎる。
  キャステインングは本来、
  主役が満島弟で、陰鬱役が柄本弟で、お調子者が窪塚弟。
  とスライドさせて、
  長塚息子の出番は武田鉄矢や村田雄浩でよく、
  美少年役は、満島弟よりももっと歳相応な美少年選べよ。
  アラン・ドロンとまではゆかなくとも。
  あまりにも執着無さ過ぎ、ならこの原作選ぶなよ。
  原作無視も大概にしろよ。
  逆に、
  女性を撮るのには、意欲的ですが、
  男性の色気に興味なさ過ぎ。
  男女の絡みで、女性を脱がすんですよ。
  いや、そこはせめて満島真之介のフルチンでしょう。
  彼の裸は綺麗なのに、ギリシャ的な、
  若く美しく色気ある男性描けないなら、
  原作に選ぶの間違ってますよ。決定的に間違ってる。
  忠実に映像化しようとしてるだけで、少年美はおざなり。
  お役所仕事な日本映画の実写化に先鞭をつけてしまった。
 
 反戦が原作とマッチしてない。
 反戦か檀一雄の狂気か、どちらか選ぶべきだった。
  日教組的、善悪二元論でステレオタイプの反戦なことはおいても、
  なぜこの原作選んだ? テーマが全く一致しない。
  せめて、まともな人の純愛とかじゃないのかなぁ。
  「この世界の片隅に」「風立ちぬ」も先の大戦が背景に描かれますが、
  純愛であってこそ、戦争の理不尽さが対比されます。
  狂った人達と反戦じゃあ、心動かす要素にならない。
  途中からは、原作レ○プですね。
  自分の主張のために利用している、
  原作へのリスペクト感じられません。
  
 反戦やるなら、真面目にやったら。
  唐突にぶっこむばかりで、プロセスが描かれない。
  「この世界の片隅に」「風立ちぬ」では背景に戦況の変化が、
  刻一刻と描かれます。過剰なまでの情報量で。
  そういう周到さは、一切ないです。雑。
  反戦描くなら、
  ちゃんと向き合って多面的に描くべきと思います。
  ただ二元論的な反戦ぶっこんでるだけなので、
  老害の時代遅れな説教にしかなっていない。
  「進撃の巨人」はそういうストレスが無いので好きです。
  負けたときに、
  ちゃんと意思決定のプロセス総括しておかなかったから、
  戦争が悪だというだけで思考停止してしまった。
  その世代に成長は望まないけど。 
  安易すぎないか。  
 
 
 映画で啓蒙は危険思想。
  そもそも、主張の方向がどちらであれ、
  映画という手段を通しての洗脳ですからね。 
  反戦ならよい洗脳、戦意高揚なら悪いプロパガンダって発想は、
  ソ連の核なら綺麗でアメリカの核は汚いってのと同じ。
  黒澤明の晩年からそうですが、
  映画監督が映画を洗脳の手段としてしまうのは、
  自らの作品を貶める行為に見える。巨匠の傲慢。
  
  
 処女作で、綺麗な若者揃えて、原作に忠実だったら、
 斬新な映像表現は評価されただろうけど。
 男の色気に興味ないから、無理かな。
 
 
映像は主観で、脚本は客観。
歳取るとどうしても、認知は歪む。
 
似たような左翼思想なのに、
宮崎駿はどうして、客観も維持したまま、
引退作作れたのだろう。
狂気は狂気のままの映像表現なのに。
 
逆にその特異性を再確認しました。
 
 
当たり前ですけど、自由な方が個ですもの。
老いたら主語小さくしてゆきたい。
衰えた分、なおさら脱力しないと、なんか損。

伊集院のらじおとで、
https://www.tbsradio.jp/597154
「癌になって、ようやく早口が治った。」
と円楽師匠が語っていたように、
 
かつて、
「なくてもいい商売だとバレちゃいけない。」
とも、語っていた。
芸術家でなくアルチザンの美学。
 
そういう老い方って、カッコいいな。
客観力は衰えず。脱力。
かくありたいと、逆に思った。

 

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