狂った映像が観たくって「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」「時空の旅人」「三尺魂」 やっぱりストーリーが王様だった。撮ってから脚本はやり直せない。

映画は三度作られると言います。
撮影前の脚本、撮影、編集。と工程があり。
やっぱ、脚本あっての映像。と思うことも多い。

今回観た3作は、それぞれテイスト違えど、映像は素晴らしいです。
脚本については歴然たるものがありました。
 まどマギ  やっぱ虚淵玄すげえ。
 時空の旅人 良い脚本なら世界のカドカワになったかな。 
 三尺魂   テレビならOKでも、映画ではね。
 
 
私も、準備不足のまま進めて、痛い目に会うこともあり。

自分でも気づかないほど、
精神的打撃を受けていることってあるのですね。
先週、
 そういう人と会わないで済むための活動のはずが、
 そういう人を紹介されるという経験をして、
大きくショックを受けてしまいました。
最初に打ち合わせしたんだけどね。
 
そのストレスで、
 自分では制御出来ない感情の爆発が起こってしまいました。
 爆発せずに押し殺せたら良かったかというと、
 それもまた良くない。
  
理性でNoなる存在にNoと伝え、
失敗を失敗と認め、
撤退なのか、転進なのか、次善策を考えれば良いことなのですが、
 
想定外の否定が起こったときこそ、
度量が問われますね。
 
  
そんな今日この頃、我が身を省みつつ、
逆に凄い人がいるもんだと、Tver観てました。


おぎやはぎも、劇団ひとりも、双津Dも流石で、
視聴者をイライラ、ハラハラさせながら、
19歳の天才を追い込んで、そのポテンシャルを発揮させる。
 

 
なぜか、まどかマギカ思い出しました。
 
おぎやはぎが、まどかマギカ贔屓だからかもしれません。
10年ぶりの続編やるんですね。3.11をまたいでの10年。 
 
 
 
前回、大林宣彦の晩年観て
いくら映像頑張っても、シナリオが我儘なだけだと、
鑑賞に耐えない。と知る。
 
まあ、まどマギなら、
映像も狂ってて、脚本も高い整合性保証されてるので、
安心かと。昔の続編おさらいしました。

サプライズのために制限せず、イヌカレー初手から全開だった。
 
 確かに、完璧な終わりかただったので、続編は蛇足かと思いきや、
 表面と裏面、これでニコイチ。
 
 脚本も、
  テレビ版は連続モノらしい謎の提示と展開。
  映画版の続編は映画らしい、お話運びでした。
 
 映画は基本、2時間三幕ものなので、
 今回は、XYZ構文と私が勝手に呼んでる構造でした。
 X→Y→Zと2回転する。おや、まあおや。
 
  X:また別の時間軸に戻ったのか、しかし何かおかしい。
    誰(どちらの)の仕業か? 目的は何か?
    犯人はそっちなのかと思いきや、、 
 
  Y:やはり、アイツは曲者で、
    若干の種明かしもあり、チームの戦術で勝つ。
    観客が溜飲を下げる、サービス満載のパート。
 
  Z:本作の主役の本当の目的が明らかに。
    (最後は多分、続編作るんだろうな。
     これで、悪魔がワルプルギスの夜に成れば、
     完全な円環構造だね。)
  
 
 分からないとこも多く、考察系も検索しました。
 細かいことよく気づくなあ、と驚くことも多いですが、
 うーん、無理やり解釈し過ぎても、とも思います。
 
  「ホントは概念化したくなかったと知って、、」という解釈も。
  流布してるらしい。
   元来、使命感ってwantじゃない。
   やりたいかどうかの問題じゃない。
   誰だって、責任なんか負いたくない最初から。
   実際の救世主ですら、最後は弱音吐いたのだから。
  それでは、決意の意味からして、ブレてしまう。
 
  対立構造についても、
  神と人間、天使と悪魔で、
  神と悪魔を対比とは言わない。
  無理やりな解釈は却って邪魔になるかな。
 
  テレビ版は
   メフィスト的なインキュベーターが少女を搾取する。
   秋元康とアイドル的な関係が提示され、
 
   更に実はループものと分かる。
   試行錯誤のはてに、最後は遂に少女の中から、
   「神の子」が出現し、全魔法少女を救済する。
 
   しかし「神の子」は概念化してしまうので、
   もう触れ合うことは出来ない。 
   裏主人公の孤独な戦いは今日も続く。
 
  ファウストのラストは、少女の純真による救済で、
  まどマギはそれを下敷きに、キリスト教の救済を描く。

ファウストの物語は、13世紀に『聖母奇跡物語 (“Les Miracles de la Sainte Vierge”)』の筆者ゴーチエ・ド・コアンシ (Gautier de Coincy) が書いたテオフィラス伝説に多く類似点を持つ。つまり、徳高い人物が地獄の支配者と取引するが、聖母マリアの慈悲をうけ、社会への責務をはたすことで救われる[3]。

 
  一方で、映画の新編は、
   神と人間、聖と俗、光と闇、天使と悪魔が対比される。
   テレビ版と構造を混同しないほうが、スッキリな理解だと思うけどな。

   キリスト教圏でない我々は、ダンテ神曲やミルトン失楽園には疎い。
   が、永井豪のデビルマン由来で、元ネタを理解する。
   ただし、水木しげるの悪魔くんは実写化されたと聞いたことあるが、
   流石に古すぎて知らない。
   
    Xパートで、やり直しの今回の世界線の提示、
    Yパートが、テレビ版の搾取の構造の逆転を果たす。
    Zパートは、堕天して悪魔になってでも、人間的な愛を貫く。
    エピローグ、「人間」は取り戻したが、しかし悪魔となった私は、、
   と、
   前の構造とは切り離して整理し、シンプルに解釈した方が見やすい。
   特に、
    神の子が聖霊的な存在になることと、
    神(全宇宙の秩序)そのものと同一視しない方がよいよ。
   そこはコネクッて考察しても、特にそれ以上の感動はなかった。
   町山さんの予習復習くらいまでかなあギリ。
 
   近代に神が死んで、
   愛の意味が人類愛から、個人的な情愛に変わる。
   という指摘は、なるほど。対比が全部ピタッとハマるんだな。
   虚淵玄は隙がない。
 
   ふと思い出すのが、
    仏教での慈悲の意味も本来は、
    怨親平等なあまねく無私な愛、パブリックな愛だった。が、
    日本では親子の情愛に例えられて歪んで説明される。
    自分の子は愛して、隣の子は愛さないのは慈悲とは言わんよね。
    滅私奉公はあっても、博愛は日本に昔はなくて、
    近代に入ってから日本に再輸入された気もする。
 
   使命、お役目が描かれているのに
   「本当はやりたくなかった」とかの考察が幅利かすのは、
   博愛的な愛、パブリックな愛という概念が、
   日本で希薄だからかな。 
   そんなことも、考えた。

   逆に、その対比としての絶望より深いプライベートな愛。
   相手のことすら考えないエゴイスティックな情念。
   すら、マイルドに処理しようとする解釈は興醒め。
   相手の気持ちとか、そんな軟弱な正当化はいらない。
   意気地なしな自分にテーマを寄せるのはどうかな。   
 
   そもそも責任回避のカウンターなのに、
   背負うものがあって、覚悟決めるって、そんな人が居ない。
   もともと右肩上がりの経済成長に乗ってただけだし。
   リーマンショック→民主党政権誕生→3.11の時代が背景で、
   誰も責任は取らない。取れない。そんな能力は無い。
   そしたらほんとに、ワルプルギスの夜のような危機がやって来た。
 
   危機に際して、非力な人間(少女)の意思決定という、
   人間讃歌は勇気の讃歌的な物語がブレては、
   台無しでは?
   それじゃ考察という行為そのものが本末転倒と思うのだけど。
     
 
 映像表現は、アニメだから出来ること、
 という視点でも、特異ですよね。言わずもがなですが、
  キャラクターの萌え絵と、
  趣味性爆発で精緻な背景と、
  イヌカレー。
 三位一体というか、
 慣れるまで、何見せられてるのか納得するのに時間掛かる。
 新編は特に、イヌカレーの手数多くて、大満足でした。
 
 スクリーンで観られたら凄かっただろうな。
 ストーリー入って来なかったかもしれんけど。
 当時日本には居なくて、タイミングを逸してしまった。
 
 とはいえ、
 脚本あっての映像。虚淵玄あってのまどマギ。
 お話について、やっぱ語ってしまう。
 
 
また佐久間P繋がりですが、
ゴッドタンのみならず、あちこちオードリーも良かったです。


特に、吉住と若林のやり取りに感動しました。
 
思考停止して、若手芸人を使い捨てようとしてるTVスタッフに対し、
MCの若林は、若手への雑なイジリのくだりを敢えて飛ばす。
曰く、
 昔のTVは絶対権力でみんな従うものだったが、
 今は違う。
 第7世代なら「TV出なくてもいい」と言いかねない。
 時空の歪みを自覚してないTVスタッフはまだ居て、
 ここ数年、意図的に台本スキップするケース多い。
 
私ももっと早く、
付き合うべきでない人にNoを言える存在になっておきたかったですね。
オードリー若林みたいに、
現場の裁量で上手く進行出来るマネージャも稀だし。
過去に戻ってやり直すのも、しんどいけど。
 
 
昔を思い出したくて、観ました。

竹内まりやのこの曲が、もともと好きなのですが、
80年代にタイムスリップした感覚、味わいました。
昔は二本立てで、このくらいの長さの方が客に優しい。

 映像の完成度の高さに驚きました。記憶を凌駕していました。
 お話はラストに駆けて、雑になっていくのは残念。
 声優さんにバラツキあるかな。今ならもっと音響監督厳しそう。
 
 萩尾望都のキャラクターデザインも美しいですが、 
 特筆すべきは、メカニックデザインが森本晃司。クールです。
 丸みを帯びて、それでいて無駄がない。日本はオシャレだった。
 
 1986年公開は角川映画の最後の方の時代。
 マッドハウスと組んで、大人の鑑賞に耐えるアニメ映画ヒット飛ばしてました。
 
 昔は、筒井康隆の「時をかける少女」が代表的ですが、
 眉村卓や豊田有恒たちが少年少女向けのSF沢山書いてました。
 一作目の「犬神家の一族」以来、
 文庫も売れるメディアミックスが角川商法。
 
 現代では、制約だらけの原作もの多いですけど、
 先駆者の角川春樹は真面目に仕事してますよね。 
 まだ、日本が元気で、自分の脳使ったら報われる時代。
  
 当時もう斜陽だった日本映画に活力与えたの偉業です。
 頑張るなら、活力ある頑張り甲斐のある所に限ると、
 自分の歴史も振り返ってしまいます。
 
 エンドロールのアニメータは全て日本人。
 この時代、採算取れてたんですね。
 CGっぽさもなく、完成度高い。
 まだ、職人の仕事が報われる時代か。
 奇をてらうことなく、桜の表現は特に細やかでした。

 90年代に向かい、このあと、
 配給権を巡っての既存大手との対立からの敗戦。
 日本らしい足の引っ張り合いとも見えるけど、
 角川春樹が、もうちょっと上手く立ち回ってたら、
 日本映画の歴史は変わっていたかもしれない。
 まあ、是非も無し。
 
 
 お話は、
  未来→現代→東京大空襲→幕末→関ケ原→本能寺、と遷移し、
  違法な時間渡航者とそのハンター、時間管理人と三つ巴の捕物。
  なのですが、、
  
  幕末編が残念です。
   一貫して負け戦を描くのに、関係ないエピソード。
   せめて白虎隊くらいは、登場させて欲しかったな。
   テーマ性を弱めている。
   
  キャラも主人公のボーイフレンドのラガーマンは要らない。
   何の役にも立たない。 
   時空を超えて、いつも生まれ変わりの美少年と恋に落ちる、
   ヒロインの設定に邪魔。
  
 負け戦という歴史は変わらず、束の間の悲恋を繰り返す。
 として、ストーリーも完成度上げること出来たはず、
 原作の再構成が雑だったかな。尺の問題じゃない。
 
 脚本は職人的技術力だけでは、解決しないものか、
 ストーリー弱くて、技術力だけでは、
 海外展開は難しい。
 ここに致命的だった「ルビーカイロ」の失敗、
 その萌芽をここに読み取るのは、こじつけかなぁ。。
 
 画の完成度、職人芸に比べて、ほんとに勿体無い。
 
 
 
大人向けアニメといえば、「オッドタクシー

来週最終回で、伏線回収しきれるのか、
画の意匠がオシャレですが、こちらも絵柄を裏切るハードコア。
 
 ジャンルはハードボイルドミステリーですね。
 一話完結エピソードもののように見えて、連続ものでしたね。
 終盤は怒涛の伏線回収ですけど、
 ワンクールでなく、もっと長くていいのに。

 まどマギも特に裏主人公、ハードボイルドですが、
 フィリップ・マーロウみたいなオジサンが主役は、
 今の日本じゃ難しく。少年少女じゃありきたり、
 ああ、そんな手があったのかと、途中から気づきます。
 
 映画と違って、TVシリーズの楽しみとして、
 どんな順でカード切ってくるのだろう? という楽しみがあります。
 TV版まどマギ以来の巧みさと言っていいんじゃないでしょうか。
 褒めすぎですかね。
 クオリティの割に話題になってない。らしく。
 それでも、映画版もやって欲しいものです。
 
 
テレビと映画では脚本が違う、そんなこと考えまして。

インディーズ系でちょっと前に気になった映画。
「キサラギ」のようなワンシチュエーションで、舞台が元かと思いました。
オリジナル脚本らしいのですが、うーん勿体無い。
ネタバレ全開で書きます。
 
 脚本の前に、映像の話を、
 カメラワークが的確で、
 止めるところと動かすところ、常に適切で快感を覚えるくらい。
 近年、カメラ動かすの主流で、
 うるせーよ、ってノイズになることも多いですが、 
 魅せるべきところでは、きちっと止めます。
 しかも、
  話がグルグル廻るとこでは、デ・パルマぽかったり、
  不安なとこは、ブレアウィッチプロジェクトを思い出したり、
 ほんとに的確で、低予算なのでカメラ台数多くないのに、
 カメラワークは気持ちいい。

 撮影と音楽担当したのは八重樫肇春。
 油絵とニューヨークで磨かれた感性八重樫肇春監督の切り取る絵の力

映画学校では作品が高く評価された上に、撮影の腕を買われて、常に引っ張りだこだったそうです。
ニューヨークで撮影の技術が高く評価された背景には「絵を描いていたんで、やっぱり絵のことが気になる」という監督のこだわりが大きく影響していたようでした。

「映画って決められた枠の中で、表現しないといけないんで、どういうことが一体、効果的なの
 かというのを考えるのがすごい楽しかったんで、あんまり撮影の人に知り合いがいなかったん 
 で、全部自分でやっていたら、その腕を買われてジャンジャン撮影が入ってきた。それで鍛えら
 れた。向こうは撮影の人が照明もやらなきゃいけないんで、照明によって雰囲気を作っていくと
 か、その時はフィルムカメラだったんで、どういう風に光を当てて、どういう風にカメラのセッ
 ティングして撮って、どういう風に現像するのかを散々こなしてフィルムの感じを覚えていっ
 た。」

 初めて聞く名ですが、そりゃそうでしょうね。納得です。
 劇伴も的確でセンス良いと思いました。
 日本映画には珍しく引く所は引く。
 監督作品も観てみたい。八重樫肇春監督には今後も期待してます。

 キャストは津田寛治が安定の回し役で、
 他の役者さん達も安心。
 舞台的な演技にした、演出の勝利かもしれません。
 
 途中までは、とても上手だなと観てました。
 もし、脚本が上手ければ、
 「キサラギ」や「カメラを止めるな」のような可能性も、
  

 ループものって、着地が難しい。
 何故ループしてるのか、脱出のクリア条件は何か、
 最初にメカニズムを明確にした方が良いですよね。
 というか、必須ですよ。
 
 本作では、JKだけは救う。なのですが、説明が弱い。
  若いから、将来あるから、やり直せるから、
 では、それだけじゃ説得できてない。
 
 クリアしたとして、その理由が、
  ループしたから。真心に触れて、
 いや、それじゃ、ゲームが成立しねえよ。

 励ます言葉が全てステレオタイプで、
 とどのつまり「頑張れ」としか言ってない。
 監督は自殺考えたこと無いのかな。
 相手に響く言葉って、
 そんなどこにでも書いてあるような綺麗事か。
 
 簡単にザッピングされる、 
 TVのワイドショーならお手軽で。それでいいかもしれないが、
 映画だから、
 そこはちゃんとやらないと、二時間付き合うのはキツイ。
 
 具体的解決に至らず、単にヒューマンドラマに逃げるのは、
 映画作家志すなら、そこはそれこそ頑張らないと。 
 
 自殺志願者達がJKだけは救おうと、自己矛盾劇場繰り返す。
 
 励ますだけでなく、具体策提示したりして、
 感動に逃げずに、コメディとして成立させて欲しかったな。
 
 安易に感動させようとするから、カタルシス生まれないので、
 エピローグが蛇足に感じる。お約束感が強すぎて。
 テレビの単発ものならいいけど、映画だからね。

 素材としては、
 ちゃんと笑わせて、カタルシス得て、最後感動もする。
 「カメラを止めるな」になる可能性秘めてたのに。
 
 あのシチュエーションなら、
 「ここでボタン押しても無駄だから」という諦めのアクション入れて、
 どうしたら、ループから抜けて成就出来るのか?
 という場面での盛り上がりが必要で、

 そこから、JKを思い留まらせる試行錯誤の提示、
 途中携帯が出たのは、良い小道具だったのに、
 解決に向けてのドラマなく、着地しちゃうから、
  え、それで翻意するの? 
 TVドラマならそうかもしれないけど、
 というモヤモヤが残り、お約束的なエピローグでは、
 無難過ぎてハネない。予定調和が好き過ぎる。  
 
 二時間暗がりで付き合って貰うって、そうじゃないよなー。
 監督が映画を志してないのかと、勘ぐってしまった。
 途中までは、充分面白いのに。

 あ。でも途中いいセリフ。
  娘のためって、娘に責任押し付けてんじゃねぇよ!
 ズルいって指摘するシーンあります。
 ズルいし、弱い。人のせいにすんなよ。
 
 愛を名乗るなら、絶望より深く。
 ありふれた弱さでなく、普段御目に掛かれないものを観たい。
 TVじゃなくて、映画なんだから。
 
 
最後はやはり、最終決戦かな。

鏡のアリスっぽくもありますが、
円環な伏線回収も、狂った表現も期待してます。

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