仕事を選ぶ基準を聞かれ、
”プロジェクトの責任者を助けたいかどうかで選ぶ。”
そんな会話を先週しました。
現場で苦労している人は助けたいのです。が、
それが結局、良くないプロジェクトを助けることなる。のなら、
助けるべきではない。
苦しい境遇の人を見捨ててこそ、得られる選択がある。
良い組織が繁栄するように、自分のりソースを投じてゆきたい。
”眼の前の人を助けるのは、ブラックを助長すること。”
最近ようやく、学習が終わり、
そんな視点で判断できるようになりつつある先週。
このタイミングで公開とは、予言者かと私も思いました。
統一教会の名前も出さず、一切取材もしないTV報道も目にしました。
日本人の自己評価ほど、安全でも快適でもない社会だと思うんですけどね。そもそも。
自らが自らに施す洗脳もあります。
「ベイビー・ブローカー」
とても綺麗な映画です。
最初から、ストーリーに無理があるなぁ。とノイズになり乗り切れない。
皆無理やり善人に描き過ぎ、綺麗に感動させようとし過ぎ。
監督は遠慮してるのか、役者を追い込まない。
これなら、「パラサイト」で主演男優賞あげてもよかったのに、
「オールド・ボーイ」の主演男優さんが韓国初でもよかったし。
そりゃもちろん名優ですけど、無理やり感は否めない。
「ミナリ」で、おばあちゃんじゃなく、子役にあげたい。
と、同じ感情が湧きました。
「万引き家族」とどうしても比べてしまいます。
必ずしも善人でない人物造形に引き込まれたのですが、
韓国に渡って、判で押したような善人ばかりでは心動かないよ。
闇を描くなら、金のためなら臓器売買でも、というのなら納得するが、
中途半端過ぎるし、ビジネスとして成立するのかな。
この人達はこういうふうに生きているという説得力がないので、
その感動は安すぎないか?
という疑問が常に頭をよぎる。
殺人事件の重要参考人としてさっさと身柄確保せず、
乳児売買のおとり捜査で泳がせる。
半島では、そんな警察なのか?
いっくらなんでも、デタラメ過ぎないか。
韓国の監督なら、
人物造形は単純でも、もっとメリハリ効かせた展開と演出にするだろう。
是枝監督が日本で撮れば、
リリー・フランキーに善も悪もないまぜな人物演じさせ、
安藤サクラを追い込むはずだ。
遠慮して、悪いとこ取りになってしまった。
そう思わずにはいられません。
遠慮した中では最善ですけどね。
善人ばかり多すぎ。
それで自己肯定というメッセージに感動しろと言われても、、
私は子供のころ、性善説という洗脳を受けてきた。
”どんな人にもいいところがある。” そんなこと言う人、今でも居ます。
悪人だなぁ、と眺めます。
人生いろいろあって、今は。
責任観念無い人は悪人の箱に入れます。もちろん私も悪人。
「ビリーバーズ」
相変わらずカメラを揺らすの、やめて欲しい。
ホントに予言者のようなタイミング。
映画化に漕ぎ着けた事自体、評価されるべきなんだが、、
城定監督が職人監督過ぎて、素材と合ってない。
狂信、洗脳を描くには、手前で処理し過ぎかな。
人は信じたいことを信じる。という本能に迫っていかない。
本能と壊れた理性を描くより、手前の物語を手慣れた感じで運びすぎ。
議長の宇野祥平にわめかせ過ぎかな、欲望に飲まれていく様が単調。
彼らは何故信じて、救われたのだろう。
極限の状況でも、信じることを辞めないのは何故だろう。
手前で説明し過ぎなのか、寸止め感が否めない。
原作100%完コピで良かったんじゃないかな。
漫画の切迫感はもっと再現できたかな。
無理にラスト周辺から改変しなくても、主人公はone of themの方が良くないか?
自分の外側に敵を作ること、選民意識を持たすこと、
長続きする組織の要諦かもしれません。
原始仏教の組織はそれをしなかったから滅んだとも聞きます。
ただ現実を眺め、受容するって、難しいですものね。
認められなくてもいい人に、認められたいという欲求くらいは、
捨てられるようになったかな。
いくつかのプロジェクトの話を聞いて、そんなこと思いました。