シナリオ作家協会さんは、
何故シナリオ作成してから動画撮らないのだろうか?
”とうとう出たね”的なSNSのオウンゴールを教訓にしないのだろうか?
UPする前に誰もチェックしないのだろうか?
そんな疑問も湧き、過去のトラブルにも注目してしまいました。
最近ようやく、
人間は学習しない存在 だと受け入れた方が生きやすい。
と学習し始めた私は、
吉本はじめ、日テレや小学館は、
無視が最適と学習したのか、
社会的信頼を失うことに無頓着なのか、
どちらか判然としません。
テレビ業界全体の崩壊を予想するものの、
組織として誠実に対応するのが正解なのかどうか、私には分かりません。
”今は何言っても騒ぎたい人が騒ぐだけ、言うだけ無駄。”
それはそれで、一理ある気もしています。
そんな中でも、シナリオ作家協会さんはちょっと特異で、
ひょっとしたら、まともな人の集まりじゃないのかもしれない。
そういう印象を受けます。
この団体の理事辞めても、引責の意味あるのか?
所属してると却って悪印象だから辞めただけじゃない?
そう疑う程度にはヤバそう。
そこで、
アマゾンの力を借りて原作も映画化も鑑賞してみました。
※「原作と同じじゃなきゃダメですか?」は未読。
(キンドル無く、中古本は高値過ぎ。)
各々レビューします。
とりあえず、結論から言うと、
原作が原作である必然性に乏しい。
原作者が脚本の出版を嫌うのは理解。
あとは契約上の問題なので司法の場で決着すべし。
この主張で権利保護は両立しないダブスタ。
裁判終結後も延々と攻撃は判断力に疑問。
松本人志同様に裸の王様的な認知の歪みを感じてしまった。
闇深い部分が暴露されたということかな。。
私は脚本家個人には同情的なんですけどね。
「イッツ・オンリー・トーク」
もともと幾つかの作品はとても趣き深く読んでいた。
特に初期は、
恋愛とも言えない男女の淡い友情を描くに巧みで、
ハードボイルドな文体とも相まって、
ノワールもののような切なさと清々しさが読後迫る。
そんな魅力が文學界新人賞受賞作に溢れている。
本作では、
精神的に不安定で、セックス依存症かもしれない中年女性が、
必ずしも性的とは限らない4+1通りの友情のカタチを風景のように描く。
特に終始、女性はイクが男性は逝かないのは象徴的。
エア布団のシーンは「蒲団」かと思いつつ、
こういうスケッチ系はセンスが要る。映画化となれば尚更。
これとか、
最近なら、
小津安二郎的淡々日常系おしゃれ映画は、脚本監督とも力量が問われる。
ちょと雲行き怪しくアマプラで観る。
「やわらかい生活」
最近のアメリカ映画に3大悪癖があるように、
当時の日本映画にもアリ、
・とにかく分かりやすく、何でもセリフで説明
・客を呼べるキャスト優先
・無理やりベタにドラマを盛り上げようとする
魅力もあるが、弱点は典型的だった。
原作に惚れて映画化したわけじゃなさそう。
想像するに、
監督と脚本と寺島しのぶ、に文学賞の原作。
同じ座組で二匹目のドジョウを狙った。
が、これならオリジナルでやった方が良い。
タイトルも変えてるし、シナジーは無い。
映画の魅力は、
トヨエツの現実離れした男前な色気に、
中年女性の迫真のリアル。
ストーリーは、
蒲田の街を舞台に、危うくて奇妙で刹那的な二人の同棲と別れ。
原作の他のエピソードは無くても構わない。
むしろ「蒲団」に寄せた方がノイズが無い。
二人のエピソードだけでいい。
死ぬのも蛇足。
4+1様の関係をスケッチする原作とは趣旨が違う。
浮世離れしたトヨエツを愛でるのは、それはそれで良いのだけれど、
原作である必然性が無い。
足して2で割る折衷案は、日本的意思決定の悪いところが出た。
それと説明セリフがオシャレじゃない、
分かりやすく着地しようとするのもベタ過ぎ、
今なら、
それこそ今泉監督で蒲田の街を舞台に原作を撮ったなら、、
「アンダーカレント」のように興行的にどうかは別として、
もっと愛すべき作品になったかな。惜しい。
これで”原作”だと言われても、、
と芥川賞作家が難色示しても、なるほどとは思う。
”それならオリジナルで映画撮って、原作者の権利主張すればいいのいに”
客観性が育っていない駄々っ子のように見えてしまう。
一方で、原作者の対応は適切。
法的な対応のみで、余計な発信はしない。
一般に向け弁明する必要もないし、
断るのに理由はいらない。
今後シナリオ協会と関わりたいとは思わないし。
スルーする力を見習いたい。
同じく、
いつも森保監督のスルー力には感嘆する。
どんな試合でも横綱相撲で勝たないと気がすまないファンの存在は、
ブラジルですら悪影響で有害無益。
常にその場の平面的牌効率しか見えてない麻雀ファンの打牌批判の如く。
W杯の優勝をゴールとするなら、
選手は過密日程で参加し、荒くてレベルが一つ落ちるアジア杯。
その大会の意味付けから総括して欲しいところだが、
プロの評論家すら目先だけで聞く価値がない。
ま、キーパーと最終ラインのコーチは強化した方が良さそうだけど。
閑話休題、
それでも脚本家個人への誹謗中傷は、
ミヤネ屋的存在に正義を与えるだけで、まったく同調できず。
最初の利害調整が曖昧なまま見切り発車で、
リカバリ不可能になるプロジェクトは、さほどレアケースでもないので、
ある程度の社会経験ある人材なら、
マネジメントの弱い組織では日常茶飯と思い至るものではないでしょうか。
顧客に直接話しを聴くとぜんぜん違うとか、
間にいろんな人が居て、機能不全。
そんなプロジェクトは決まってスケジュールもタイト。
充分な情報なく誤って悪者を特定しまう。
なんでも安いラブコメに改変すると批難されても、
偏差値40のテレビで視聴率取ることがミッションだし。
同情は禁じ得ない。
仕事の内情をSNSで暴露するのは職業意識に欠ける行為なので、
その軽率さの謝罪をしたなら、あとはお悔やみ申し上げるよりないかな。
仕事してればこの手のトラブルはあるし、
軽率に攻撃してしまったとしても、その死の責任は無い。
死は原作者側の判断ミス。
パーティ会場でなく撮影現場で挨拶しろと迫る。
それを原作者の正義だと賛成する人は、
それじゃ流石に自己完結しないと生きてゆけないだろう。
他者は他者の都合で存在している。
他人の仕事の時間を奪うことに痛みを感じない人は仕事が出来ない。
そんな折、鑑賞。
オードリーが権利関係許可せずスルーなのも、闇を感じる。
想像を超えて凄まじい。見て辛かった。
パンクでアナーキー。
岡山天音の全力が引いてしまうレベルで恐ろしい。
菅田将暉が”地獄を生きろ”と言う。まあそれしかないよね。
原作者は生き延びて、吉本新喜劇の座付作者なども受けてるらしい。
文藝春秋社が協賛というのが、味わい深い。
カート・コバーンとか例にしてるけど、
こういう人は永野みたいなピン芸人になるしかないかな。
舞台に立つのもダメなら、書くことで完結しないとな。
協業は無理だよ。
対照的に岡山天音本人は、麒麟川島のよう。
いつも助けてもらってるから、MCのときは助けるよ。
そういって仲間が盛り上げる。
他者不在なのに、仕事は他者の為という地獄。
表現者の深い業は壮絶で、見ててしんどい。
それは、制作者の魂が乗っている。
分かりづらいとこもあるのですが良作です。
原作が原作で映画化する必然がある。
技量が及ばないものは、コントロールしようとしない。
自らを見極めて諦めて生きるのが知恵だなあ。
生きててよかったね。
結果論だけど、若林から離れて正解だったのかな。