”生きてるうちにスクリーンで観る最後のチャンス”
と宇多丸師匠に言われて↑、即予約してしまった。
衝撃を受けたのは高校生の頃、ホームビデオの録画で観たきり。
スクリーンの中の彼は、
お変わりなく、カッコいい。
実話ベースというから、”小説より奇なり”とはいえ、
こんな超人をリアルに存在させられる役者は他に居なかった。
今は尚更居ない。
演技派の名優はこれからも発掘出来たとて、
スティーブ・マックイーンは不世出である。
自由を希求する生き方に影響を受けたのは間違いない。
子供の頃から理不尽相手に負け続けた人生を様々思い出した。
(ただ見捨てれば良かっただけなのに)
それはさておき、
先住民が忽然と居なくなるのは、
TVの尺都合でカットされた為と解釈する私は、
見直しても、やはり理由が分からない。
まあ、
当時のまま、
記憶と違うところ、
今では感じ方が違う箇所、
いろいろではあるも、やはり怒涛の2時間半。
お尻は痛くなったが退屈はなかった。
そして最近、
原作もの実写化について考えたため、構成も意識してしまう。
座席のポジションをモゾモゾ変えながら、記憶が蘇ってきます。
ああ、そうだった、そんな3部作構成だった。
過酷な獄中生活、
逃走中な冒険活劇、
ジジイな結末、
明確にパートが区切られ、トーンも変わる。
その中でも、”逃走中な冒険活劇”のパートは、
エンタメし過ぎていて、テーマから外れてしまうのではないかと、
脚本のバランスが気になりハラハラ。
シリアスものにしては、
未開の南米ありきの謎展開が過ぎないか?
まあ、
実話ベースの原作にそう書いてあるなら仕方ないか。
とも納得しそうになるけど、、
罪を着せられても仲間を売らず、ハリウッドを追われた脚本家には、
このテーマなら、もっと言いたいこともあっただろう。
それを敢えて、このバランスで収めたことは、
(尺はちょっと長くなったが)優れた手腕だと、今は思う。
エンタメも大事で、マックイーンのアクションも眼福だもの。
辛い展開だけでは、観客も耐えられない。
主観に寄り過ぎず、原作の魅力を損なわず、調整するのも大事な仕事。
原作ものの成功は脚本家の能力も必須。
と改めて強く思う。
構成とは別に、内容で一番大きく感じ方が変わったのは、
自分にとっての憧れが交代していたこと。
自由を奪いに来る社会に抗う、不屈の男から、
承認欲求に因われることなく、現実を楽しむ達人に。
現代のヒーローを的確に描く漫画が現れたことに驚いた。
その件も含め、
改めてスクリーンにて鑑賞した本作の、
印象に残る内容的な部分を以下にまとめた。
・”人生を無駄にする罪”について
・先住民と幸せに暮らすじゃダメか
・ラストの別れは昔と感想が変わった
なお、
作品の素晴らしさや、伝説のスターの魅力については、
ライムスター氏の前出の動画で充分に紹介されていて、
拙い重複は極力避けようとしている。
・”人生を無駄にする罪”について
心に残る抽象的なシーンにラジオスターも言及している。
その意味の解釈が昔と今では違っていることに気付いた。
当時でも、
軽薄なコーチングのような感想では無かった。が、
今は強く、そこは勘違いしてはいけない、と思うことがある。
嵌められて悪魔島に送還された以前のことは別に扱おう。
仲間を庇って、独房行きになってしまったのは仕方ない。
仲間を売らないことを、裁かれる筋合いはない。
脱獄に賭けるのも、この場合は合理あると思われる。
ただ、
反抗心からイタズラに刑期を伸ばしたのなら、それは無駄。
その場合に限って罪。
結果は選べないのだから、
無駄にしてしまったこと自体を罪に問うのは間違い。
社会への敵意に囚われていたのなら、それは人生を無駄にしたこと。
状況の中で、
曲げずに全力を尽くして、結果が伴わなかったとしても、罪ではない。
人の脳は因果律が好きで、とかく結果論でジャッジしガチだけど、
”結果的に無駄にしたかどうか”で判断するのは思考停止。
安い着地ほど、自由とは程遠い。騙されちゃダメだ。
大事なのは、結果ではなく在り方。
敵意に囚われたのではなく、信じた最善を遂行しただけなら無罪。
昔は、
損得だけで判断するのは違う、妥協が正解とも一概には言えない。
程度の感想でした。
今は、
むやみに結果では判断しない。
ただし動機が反抗心だったなら、それは無駄。
・先住民と幸せに暮らすじゃダメか
そこで、逃走中な冒険活劇の終盤。
魅力的な現地妻と幸せに暮らしました。メデタシ。
じゃダメなのかと、チラッと思ってしまった。
主役が同じの「荒野の七人」みたいに。
テーマから外れてしまうけど、
ベネゼエラ政府から自由を承認されたから自由。
というのも結局、自由は社会次第なのかと疑問も湧く。
与えられた自由が自由か?
理不尽に自身を脅かす社会から逃れることが叶うなら、
その上で幸せに暮らせるなら、人生逃げ切りだった。
それで終わっちゃ、ストーリーがお話にならないから、
もう一つ展開があるのだけれど、
やはり、忽然と消えるのは不自然なので、
原作に構わず、移動の途中の嵐で散り散りになるとか、
創作しても良かったんじゃないかな。
尺の問題は頭痛いけど。
ノコノコ捕まらず、自分に害なす社会とは無縁に暮らせば、
その方が解放ではないか。
奴隷が市民権を得たから自由というのは、
テーマがちょっと違う気がした。冒険譚としては面白いけど。
・ラストの別れは、昔と感想が変わった
感動のエンドであることは揺るぎない。が印象が違った。
波高く潮速く危険なスタント。(ダイバーが見えるとか以前に)
ヤシの実の浮き袋で、サメだらけの海を2日漂流は無理。断る。
自分なら、そこまで脱出自体にこだわる動機を失ってしまう。
当時は、
堅い友情だけど、生き方はそれぞれ違うという納得でしたが、
改めて観ると、無謀としか言えない断崖でした。そりゃ断る。
自由を得ても、結局ドガのような余生を送るのじゃないかな。
それなら、運命に勝ったというより、遠回りしただけ。
自由はそんなに変わらない。
ベネゼエラで社会復帰というのは、自由とは関係ない。
ドガだって、
自由を得た結果、その優秀さを悪事に利用してしまうのなら、
今の生活の方がマシだよ。
日本一影響力ある映画評が言うように、昔なら、
”パピヨンになれないドガに自己投影する” のかもしれないが、
今は、
脱出は手段であって、目的ではない。と考えてしまいそう。
まあ、不屈の男を止めはしないし、尊いと思うけど、
脱出した後に、よりマシなビジョンが描けない。
人間や社会の煩わしさが無く、自給自足で暮らせるなら、
それで満足してしまいそう。
ヒーロー像が、時を経て変わってしまった。と自覚した。
最近、菜々緒でドラマ化されたヒロイン。
職場で必要とされようとされまいが、価値があろうがなかろうが、
一切頓着しない。ただ居るだけ。正直に無能なまま。
カッコよすぎ。
内容はアンジャッシュみたいな、すれ違いコメディなのだけど、
ああ、こんな風に生きられたら良かったのに。
そう思わずにはいられない。
現代においては、マックイーンよりも成り難い英雄である。
が、
ルックスが菜々緒では完璧過ぎて、それが弱みである。
これが不美人で地味だったら、本当の意味で完璧なのに、、
そんなときに、見つけた!!
現代の完璧なヒーロー。
特に第3巻は、中学時代の友情ものなので、パピヨン感がある。
カッコ良いなぁ。フジイの挙動にため息ついてしまう。
承認欲求や帰属とは無縁でかつ、
現実を受け入れ、人生を楽しんでいる。
敵は我にあり、しかも完勝。パーフェクトな超人パピヨン。
彼こそが、永遠の時を生きる蝶である。
現代では、反骨や敵意はちょっと重い。
理不尽とは戦わず、ただ諦めて捨てれば良かったよ。
捨てる覚悟を決めた時、自分を囲んでいた霧が「さーっと」晴れていく。
ここまで強くなれなくても夢のある人は捨てられる。
捨てるとは心の中で断ち切ることである。その人は、自分の心の中で親を断ち切ったのである。だから前を向いて歩き出せた。
断ち切れないと、恨みになる。
恨みになると後ろを向いてしまう。
私も捨てるまでは、恨んでいた。
まだまだ、捨てられる、捨てるべき、は幾つも有る。
社会生活をしている以上、断ち切れないことは沢山ある。しかし心の中では、断ち切れる。「LetGo」は心の中で断ち切ることである。「LetGo」をできない人のことを執着性格者という。
おそらく執着性格者は本当に満足した経験がないのであろう。過去に「楽しかった」という体験がない。
本当に満足する体験をすれば「これはいらない」というものが出てくる。
執着性格者は、もらったおまんじゅうを気の済むまで食べないで、取っておく。
「食べてしまったら、明日ないから半分だけ食べよう」、そう思う。
しかし明日はない。
今の時代、不満を他責で正当化するのは、カッコ悪い。
何度でも引用してしまう。
エピクテトスの哲学の基本は、自分の力の及ばないものは諦め辛抱し、力の及ぶものについては細心の注意と責任をもって当たるということである。力の及ばないものとは、宿命であり、自然現象である。他人の意思もそうかもしれない。力が及ぶものとは自分の肉体であり精神である。
精神を非人情にするための思想がストアなのである。それが真実に違うものであるとしても、心を平静に保つことができるならば、嘘でも構わない。エピクテトスは優れて積極的な諦めを説く人であった。しかも、諦めは単なる諦めを越えて、自由を得るための諦めである。
数ある動画の中で、このバージョン↓が一番好みです。
上島竜ちゃんがMXTVで、ラストシーンを熱く語っていた。
2025.02.02現在
中央銀行の要人が発言しようとも、
トランプ政策で振り回されようとも、
20MAに戻ってきただけ、
欲に惑わず、心揺らさずに対処したい。