答え合わせ「雪の花 ―ともに在りて―」ちゃんと良策で感動するが、演出方針に不満。パンデミックと「バカと無知」と私の生きる道。

前回のつづき、土曜朝イチで観てきました。答え合わせです。
ちゃんと感動します。
福井の四季折々の風景に、惜しみなく予算も時間も掛けている。
フィルムの質感を湛える映像だけでも、充分2千円払う価値があります。
私が現在、こうして大スクリーンで本作を鑑賞出来るのも、
医療従事者たちの献身があってこそ。
 
改めて、
毎日新聞の記事に対するXのコミュニティノートには、映画同様の感情、
 何故、こんな反社会的勢力が既得権益を貪るのだろう?


と憤りつつも、
(悪役小役人の演技は素晴らしかったよ!)
  
時空を超えて、無私なる献身に感動を味わう私ですが、
リスペクトより、情に訴えることを優先する監督の方針には、やや疑問。
そこが低評価の遠因にもなっていると推察します。
酷評にも理が有ります。
とはいえ、
原作や天然痘についての理解を前提にするなら、
退屈することはありません。
この映像を配信で観るのでは、もったいないので、
パンデミックな内容に興味あるなら、劇場で観ておいた方がお得です。
 
また一方で、
人間の脳はメタ認知能力を向上させるようには出来ていないため、
酷評しなければ、読解力の低さを認めざるを得ない。という現実は、
反ワクチンと同根に見えて、
人間に生まれたことの残念な哀しみを再確認させられます。
  
 
ここで時を巻き戻します。前回からさらに、
映画系youtuberの動画だけでなく、劇場鑑賞前の準備を進める。
原作↓も読み、

さらに、本作を楽しむに必要な天然痘の知識を得る。
種痘の歴史

18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) が1796年、8歳の少年に牛痘の膿を接種させた後に天然痘の膿を接種させ、発病しないことを突き止めた(なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする逸話があるが、実際にはジェンナーの使用人の子に接種した[20])。これによって人類初のワクチンである天然痘ワクチンが開発され、この牛痘接種(種痘)によって天然痘を予防する道が開かれた。この方法をジェンナーは論文にして王立協会に送付したものの無視されたため、1798年に『牛痘の原因と効果についての研究』を刊行し、種痘法を広く公表した[21]。医学界の一部からの反対は根強く残ったものの、牛痘の接種はそれまでの天然痘の直接接種に比べはるかに安全性が高いうえ効果も劣るものではなかったため、この方法はイギリスのみならずヨーロッパに瞬く間に広まり、以後この方法が主流となった。

日本で本格的に牛痘法が普及するのは嘉永2年(1849年)に佐賀藩の依頼によって出島のドイツ人医師であるオットー・ゴットリープ・モーニッケがワクチンを輸入し[28]、佐賀藩医の楢林宗建の息子に接種してからである。それまでも何度か種痘苗の輸入は試みられていたが、ヨーロッパから直接輸入を試みていたために輸送途中で種痘苗が効力を失ってしまっていた。しかしモーニッケは既に種痘が普及していて日本からほど近いオランダ領インドネシアのバタヴィアから種痘苗を輸入したため、移入に成功した。いったん種痘苗が移入されると、蘭学医の間で種痘苗が融通され、種痘は瞬く間に広がっていった。大阪・適塾の緒方洪庵は、治療費を取らず牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行った。

接種法と接種部位の変遷

日本に種痘が伝搬して以降1947年頃までは、基本的に右上腕[注 3]の4箇所にランセットで十字型に傷を付け、そこに痘苗を植え込む「切皮法」によっていた。1948年頃から前掲の写真にある二又針で右上腕[注 3]の1箇所のみに傷を付ける「乱刺法」[注 4]に変更された。いずれの方法でも接種後数日で接種箇所に膿疱を生じ、約30日後に痂皮となり、痂皮が脱落した後に通常は直径1 – 3 cm程度[注 5]の目立つ瘢痕が残り終生消えない。

 
さらに評判を収集していて、
単なる説明不足より、作品の質に迫る、脚本の欠点への指摘もあり。 
 ①原作の面白さを引き出し切れず、別の付け足し(夫婦愛、殺陣)がメイン
 ②ダイジェスト感、紙芝居感が強い。(前作「峠」同様)
 ③時代、地域、身分の別による言葉遣いがコナれていない。(前作「峠」同様)
特に①は危惧している。映像が良くても致命的な可能性もある。
②③は諦めている。スクリーンに映る景色が素晴らしければ、気にしない。
 
説明の稚拙(下手&不足)を理由に酷評という、前回からの命題については、
橘玲のいう ”バカ”=認知能力が低い と ”無知” の問題かと、半分疑っている。
古今を問わず、
ワクチンの普及を阻むのが、人間の「バカと無知」であることは興味深く。
それを扱った作品への酷評にも、同じ原因が関与しているかもしれない。
以下を疑念の根拠としている。
酷評者が、
 ・和歌の意味を説明することが、アレな人向けクソダサ演出だとは考えない。
 ・鑑賞後に知識の不足部分を検索すらしていない様子。
 ・他責的で自らを省みない態度の傾向が見て取れる。
 ・知識ある場合は鑑賞後感はどうなるか、想像の比較を行わず、
  説明不足というだけで結論付けている。

作品内の説明が拙いため、観客として楽しめなかったことが、
作品の評価に直結で、果たして良いものかどうか?
また、
 プレゼン側の下手なのか、受け手の低い理解力の問題なのか?
既視感がある。
 
 
私は福田雄一の佐藤二朗は苦痛だが、
福田節の笑いが分からないことを理由に、それを駄作と断じることは無い。
分からないものは分からない。それだけである。
作品のクオリティは、私の都合とは別に、勝手に存在する。
その態度は徹底しようと、かつて学習した。
 
君たちはどう生きるか」の主人公のあだ名はコペル君。
地動説のコペルニクスが由来。
自分が分からなかったから作品が駄作だと言うのは天動説。
自分主観の視点のみでしか判断が出来ないままの成人も居る。
自分を含めても、俯瞰視点で思考出来るのが、知恵ある大人。 
どちらの説を採用して生きますかと、問われたり。
 
世の中には卓越も存在すると知ったり、  
同じ悪口でも、
ウエストランド井口は地動説で、精密な計算の上に成り立っている。

私も含め大勢の人は、特殊な訓練を受けていないので、
そんな芸当は出来ない。
   
   
紆余曲折の末に私はようやく、
橘玲の助けを借り、人間に生まれてしまったことを諦めることにした。 
 

「バカの問題は、自分がバカであることに気づいていないことだ」 
自分の能力についての客観的な事実を提示されても、バカはその事実を正しく理解できないので(なぜならバカだから)自分の評価を修正しないばかりか、ますます自分の能力に自信をもつようになる。まさに「バカにつける薬はない」のだ。 
ここまで読んで、あなたは「バカってどうしようもないなあ」と嗤ったにちがいない。だがダニング=クルーガー効果では、バカは原理的に自分がバカだと知ることはできない。私も、そしてあなたも。

認知能力が低ければ、自分が認知能力が低いとは、自覚出来ない。
だって、自分に対する認知能力は低いのだから。
 
無知は今どき、
グーグル先生に質問する程度のコストで解消する場合も多いが、 
バカは無知の解消すら阻む機能障害である。
バカは永遠に、無知でバカなままである。 
私もあなたも。

本作では、
 役人が保身に走り、
 漢方医が既得権益のため妨害し、
 民衆の多くは無知蒙昧でデマを信じる。
全て原因をたどれば、いずれも「バカと無知」。

とはいえ、
作品内の説明部分が壊滅的で、低評価やむなしの可能性も。
説明稚拙への結論は一旦保留している。
ファストに結論に飛びつく必要はない。鑑賞後に検証すれば良いだけのこと。
百聞は一見に如かずである。
 
 
 
ここで時は動き出し、午後、感想をまとめる。
 
③については諦めた。
 自分もそこまで正確なことは言えないし、
 外国語の映画を吹き替えで観ると思えばよい。 
 そこまで、目抉り立てて気にすることはない。
 
②のシーンの繋ぎが雑なきらいはある、、
 あー、やっぱ原作読んどいた方がいいね。
 不親切ではある。
 原作読んでいると補完出来るから構わない。
 未読でも、迷子になるほどではないが、
 テリングが上手くないのは、否めない。
 
①は芳根京子の見せ場も、松坂桃李の殺陣も、違和感は無かった。
 ストーリーの中で自然だと思った。
 偉業を成し遂げたヒーローなのだから、
 スラッとシュッとして一目で分かる大スターが演じて、何が悪い。
 とは思う。

が、
感動させようと優先する演出には不賛成。
折角映像で見せるのだから、
当時の医療のレベル、接種の手法や器具。接種した種痘の状態など、
もっとたっぷり丁寧に見せて欲しかった。
セリフで処理されては残念である。
医療活動を描いてこそ、尊敬や感動が生まれるものと思う。
 
そこ、感動もので処理するのは、違うんじゃないのかなぁ?
  
 
低評価の要因は、演出の姿勢にあり。
 プロットは本来ドラマチックで、決して退屈なものではない。
 ストーリーも単調ではなく、京から福井への冬山越へは壮絶だった。

 説明不足というよりは、
 ドラマを産む要素へのアプローチより、情に訴えることを優先していた。
 その演出に問題がある。
 種痘に関わる医療の現場をもっと丁寧に映像で描けば、
 解決していたと思われる。

 飢饉の中のパンデミックはもっと悲惨に描いていい。
 アバタ顔はもっと醜くていい。
 子供のリレーによるワクチンの培養は尺取るべし。
 抗体が完全になればウイルスは死に、継ぐことは潰える。
 
 これは、区間ごとに時間制限のある駅伝であり、
 そのため、死を覚悟した雪中の行軍であることが、
 充分に伝わってはいない。
 観客は物語のドラマ性を充分認知できない。

 ラストのシーンもワクチン接種が盛況であることで終わりたい。
 彼らの功績もあって、人類は天然痘撲滅に成功したこと、
 文字だけでよいので伝えたい。

 お涙頂戴に走り過ぎている。地味とは別の問題である。
 偉業を人類への貢献として正確に伝えたい。
 感動は観客が勝手にするものだから、
 見物が自ずから、当時の苦労を偲ぶようでなければ。
  
 
和歌の意味を説明してしまうのではダサ過ぎ、作中の演出は適切と思うが、
説明が稚拙という指摘には、それでも一理ある。
説明でなく、種痘に関わる描写、
特に視覚的描写が、まだまだ少ない。
感情に訴えるシーンを削っても増やすべきである。
 
接種しても感染せず抗体が出来なかった子供が、 
本物に罹り、命を落とすエピソードを省略したのは逆と思う。
医療活動の中で物語の起伏を作るべきである。 

活動の困難さも、世間から理解されない理由も、
観客に充分伝えきれていないと見受けられる。情愛で感動させようとし過ぎ。
シャーレは今なら100均でも入手可能だが、当時はそうは行かない。
そういうことを想像させないと。 
 
 
ま、個人的には、
映像に限らず、情報を解析するに、
自らの不明を他責で処理してしまうのは、
厳に慎まねばなければならない。死活問題である。
それは対象が、
 グーグルアースでも、決算報告書でも、ローソク足チャートでも、
許されないことである。
ヌルく生きてんじゃねえよ。甘えんなよ。死ぬぞ。

と、
私の勝手な事情に囚われてしまうが、
監督のスタンスにより、力作の成績が振るわないのは、
とても惜しい。
 
   
ま、残念な点はあるのだけど、
この題材で、この映像なら、スクリーンで観ておきたい。
配信で済ますのは機会損失である。

変わらない、あの頃のまま。
人は自分を生きてゆくのだから。

街を行けば、
ゴミ出しや落書きで民度を知り、窓を眺め満室率に思いを馳せる、
煩悩を卒業出来ない私。
いつも変わらず、時流に抗うことが、花の山と学んだ。
サラリーマンも経験し結局は、
不完全な脳で情報を読み解くより、自分を生きる道は無いと覚悟する。  
  
 
2025.02.08 現在
ファンダメンタルで判断するより、
-2σは支持線だとテクニカルに観ておいた方が理解が簡単。
材料気にせず、プライスアクションで、
レンジブレイクの有無だけにフォーカスしたい。

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