中山七里から「境界線」読んで、5日遅れで「風に立つ愛子さん」を鑑賞。孤独と孤独感は別「幸せな孤独」

3月9日、日本時間の日付が替わる頃に、ゲートを抜けたと記憶している。
クアラルンプールからのエアアジアだったので、めずらしく羽田着だった。
当時は3ヶ月に一度帰国し、仙台の不動産屋さんを訪ねるのが常だった。
その後は連絡もままならず、
ようやくバスが開通し、訪問したのは、もう夏だった気がする。
 
入居者さんや関係各位の安否も確認。アパートも無事で一安心。
 配管は問題無く、ご不便をお掛けせずに済んだが、
 外壁は修繕の依頼と地震保険の手続きを急いだ。順番待ちは致し方ない。
予定を全て消化し午後、東京に戻る前に、
今はもう亡くなられた管理会社の社長さんの車で海岸線を走った。
 低層住宅は基礎だげが残り、瓦礫の山を自衛隊が整理している。
 体育館はぺしゃんこに潰れ、校舎の3階までは粉々で、
 4階のカーテンは何事無く、窓ガラスに揺れていた。
 バイパスの高さが内陸への破壊の防波堤となった。
津波の水位と破壊力をまざまざと知る。
ようやく通行可能な道路が確保され、電線にぶら下がる死体も移されたと、
社長さんからの説明を助手席で聞いていた。
 
劇場版モノノ怪 唐傘」を観た後、アマチュアかよと、どうにも不満で、
(脚本に別人がクレジットされる続編を観ればよかったか?)
エンタメのプロらしいプロ。中山七里の創作スタンス↓を読んでデトックスを図る。

個人的にはトリックそのものより情報を出す順番のほうが大事だと思っています。たとえば伏線にしても、トリックを証明するなんらかの手がかりにしても、それをどこに置くか、いつ出すかのほうが大事。

世の中、サプライズなら何でも有難がり過ぎ。

やはりインプットの量なんですよ。インプットといっても、いいものばかり摂取しているのではなくて、僕は如何物も摂取しますからね。どうしようもないB級作品とかZ級作品とか。そういうものをたくさん摂取していると、何が上手くて何がまずいかが分かるようになります。

こなれてない、上手くないと感じるのは、
作り手のインプットが圧倒的に足りてないから。と思うこと多し。

読者を飽きさせないために、全体や各章を起承転結で分割する話はしましたね。プロットを立てる段階で起承転結を細かく分けて、お客さんの呼吸をコントロールする。それがまず大事です。 
場面転換のタイミングも大切です。アマチュアの方で、ひっきりなしに場面転換する人っているでしょう。あれやっていると読者はついていけなくなる。映画やテレビの真似してカットバックを多くしてコロコロ変えているんでしょうけれど、読みにくいだけなんです。

いやいや、映画だってダメだよ。
ベテランでも、観客の呼吸お構いなしのアマも居るよ。
  
ついでに、作品↓も読んでしまった。

尻切れトンボな出来であった。残念。
途中までは手際良いのに、結論の無理やり感は否めない。が、
思い出す、わたくしごともあり。
 
 当時、復旧を待つ間、実家に滞在していた。
 震災のニュースを一緒にTVで見ても、反応が違いすぎる。
 この人達は違う世界の人間で、無理かもしれないと、
 やっと、
 このとき残念ながら予感してしまった。
 
縁を切ったり、反芻思考を克服したりは、更に何年も後のことであったが、
あのときが、キッカケだったと分かる。
月日は流れ、
 恩知らずだが仕方がない。見捨てるのも相手の選択を尊重した結果である。
 私に出来る残された事は、
 人は己の言動に責任を持たねばならないと、示すだけ。
 覚悟も決めつつ、解放感にも浸った。ホッとした。
それはまた別のお話だけど、   
私個人にも、人生の転機になる大きな出来事。
 
そういえば、3月も半ばである。 
何はともあれ、観ると決めた。
 
予告の段階で、主張が強いと嫌だなと、ちょっと警戒。
震災や老後の孤独感の問題を、別のことに利用されてそう。
山本太郎的な加担はしたくはない。
ま、
一旦ここは偏見は止めよう。観てから判断すればいい。

孤独なのは貴方だけじゃないし、誰に文句言うことでもないし、
本人が全うに生きたことを讃えればよくて、
他人がとやかく言うことじゃない。
そこは踏まえた上でのドキュメンタリーであって欲しい。と願いつつ、
電車に乗る。 
雨の中、東中野は遠いが、東京の上映には他の選択肢が無い。
 
 
 
主張はせず、ただ寄り添って、よくぞ撮ったものです。
避難所から仮設住宅での2年間と、
さらに4年後の復興住宅への引っ越しをカメラに収めた。
作り物には無い力がある。
社会派を志向せず、無闇なジャッジをしない。
とてもパーソナルな作りが、作品としても成功している。と観ました。
 
作中、時系列は必ずしも分かりやすくはないのですが、
ご本人の口から語られる、これまでの人生。 
どうやら、
 仙台のお店を閉め、故郷の石巻に戻る頃には天涯孤独だった様子。
 そこに津波が襲い、家は流されるが助かる。
 避難所生活では、同じ境遇の人達と交流が生まれる。
 
 津波のお陰で、むしろ幸せな時間を過ごすことが出来た。
 と正直に、社会派ぶらず描いているのは凄いこと。
 皮肉にも、
 避難所、仮設住宅、復興住宅と、
 住環境が良くなる程、人間関係は希薄に戻ってゆく。
 
 復興住宅への引っ越しの荷解きで、
 ”思い出は要らない!” とボランティアに駄々をこねる愛子さん。
 引っ越せば、それまでの人間関係は失われ、思い出に変わる。
 復興住宅へ入居して半年で亡くなる。
 
観客は彼女の人生を追体験する。
他人がとやかく言うことじゃないが、
震災が無かったら、人生は違うものだったのか、想像しようとしてしまう。
 結局はおんなじかと思ってみたり、
 津波で、いくらか幸せが増えたのではないかと、打ち消してみたり、
一方で、
環境の変化が寿命を縮めたと言うけれど、高齢者に負担なのは間違い無いが、
それを問題視する気にはならなかった。
仮住まいは仮住まいなのだから。
緊急事態から、徐々に日常に戻ってゆくのは当然のことで、
タバコより猛毒な孤独と向き合わざるを得ない人生だった。
震災が有ろうと無かろうと。
精一杯生きたのだから、”お疲れ様でした”としか言葉が見つからない。
 
鑑賞後に監督のインタビューを読んで、ちょっとだけ答え合わせが出来た。

2013年の終わりぐらいから愛子さんの体調が悪くなりました。いま考えれば、あの頃から認知症が始まったのではないかと思っています。「おかしいな?」と感じながらも、当時の僕には認知症に関する知識がなくて。それまで本当に思いやりのある人だったのに、他人を誹謗(ひぼう)する言葉も口に出ました。愛子さんを慕うボランティアの方が全国にたくさんいて、みなさんと楽しそうに電話や手紙のやり取りをしていたのに、ひとり、ふたりと愛子さんから離れていった。あんなに大切にしていたみなさんとの関係を、自分から切っていったんです。だんだん人付き合いをしなくなった。その頃に僕は撮影をやめました。

他者といるときは、勇気づけようと気丈に振る舞っていたのでしょうね。
ボランティアの善意は負担にもなるし、日常とは違う。
日常に戻ってゆく過程で、孤独感はより増していったのだと想像する。
認知症の問題もあるのだけど、
人生のカウントダウンに向けて、人間関係を整理してゆくことは、
個人的には、肯定的に受け止めている。
監督の主張に賛同しない部分。
残りの人生、わがままに生きていいじゃない。
 
彼女は彼女なりに、気を使っていたんだよ。周りの為に。
でも環境変わって、その必要も無くなっていったら、、
過去とは違う今を、最適化しようとしてはいた。
」で学習したように、
遊行期の生き方はまた、それまでとは違う。
 もう煩わしい思いをする必要も無い。そして、
 できれば他人の負担には成りたくない。
だからこそ、遊行期は遊行期の、孤独感との付き合い方が必要になる。
精一杯生きたのだから、ただ”お疲れ様でした”と言ってあげたい。
 
ともかくも、
フィクションとは違う、ドキュメンタリーならではの映画体験が出来て、
大変満足、ようやくデトックス。
クリエータの情熱には、頭が下がります。
多少なりとも、お金落とせて良かった。

スタッフをやって映画監督っていうのは珍しいかもしれません。本作もそうですけど、自分がスタッフとして稼いだお金をすべてつぎ込んで作っています。もうそれはしかたがない、自分が選んだ生き方なので。愛子さんのドキュメンタリー映画は商業ベースでは成立しないし、でもそういう題材を選んでいるのは僕ですから。長い期間密着し、時間を共有しながら撮るというのが僕のスタイルだし、それによって撮れるものに、僕は価値を見出しているので。自分の撮影に入っているときは、スタッフ仕事はできないので、金銭的にキツイです。やめようと思ったことも何度もあります。それでも僕が続けているのは、ドキュメンタリーには可能性があると思っています。

 
 
最後に一つ、参考文献。

孤独と孤独感は別物である。

孤独とは、自身の周囲に人が少ない状態を指します。たとえば、パートナーがいない、友人や知人が少ない、仕事関係やご近所での付き合いも少ないといった状態が当てはまるでしょう。 それに対し「孤独感」とは、あくまで本人の感じ方です。 
まわりに人が多い、少ないにかかわらず、前述したような「頼りになる人がいない、心の通じ合う人がいない、疎外感を感じている、誰からも必要とされていない」という主観的な感覚のことです。 
そのため、一見すると多くの人に囲まれて暮らしているように見える人でも、「孤独感」を抱えて、苦しみながら生きている人がいるわけです。

他人との比較ではない「寂しさ」は確かにあります。災害や不慮の事故で家族や親しい人を亡くしたり、高齢になって伴侶に先立たれたりした場合、どうしても寂しいという気持ちが消えないことはあるでしょう。
それでも、先ほどご紹介したBさんやCさんのように、比較的早く「孤独感」から抜け出し、前向きに生きている人はいます。 
愛する人がいないという事実は変えようがありませんが、その事実とどう向き合うかといった、心の持ち方しだいで「孤独感」はなくせます。

結果、寿命を縮めたとしても、
最期わがままに人間関係を切っていった愛子さんの選択を、
せめて私だけでも肯定したい。

孤独であることは、自分にすべての選択権があるということでもあります。 
右へ行くのも、左へ行くのも、前に進むのも、後ろに進むのも、自由です。上司や同僚の顔色をうかがう必要もなければ、家族のことを考える必要もありません。ましてや世間の目など気にすることもありません。 
自由を得るために孤独になる、という選択肢もあります。

 
 
如何様にも選べるのに、他の道を我は知らず。

熱狂的ファンの多い鬼才の作品の中では、世間の評価はさほど高くないのですが、
客に媚びず、力抜けて、好きを追いかけ、それで抜群にカッコいい。
映像へのこだわりだけではね。やっぱセンスそのものが大事と再確認。
インプットの量も膨大だ。
 
 
2025.03.16現在
 先週末は調子に乗って、少し下手。
 同数で終えるも、安い処で売りを建ててしまった。
 月曜は多少の損切りも覚悟しつつ、上昇に付いてゆくことになるか。
 石破総裁時点の抵抗ラインを抜けたが、20MAを超えるかは懐疑的。
 石破総理が辞めてくれそうなのが、市場心理に影響与えてるかな。
 ”彼岸底”はこれからの気もするので、ゆっくり付いてゆきたい。

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