二周目「君たちはどう生きるか」客観的に見て対象年齢8歳→18歳くらいのリテラシー要。岡田斗司夫は視聴者迎合過ぎ、若い内に刺激受けないと手遅れ。「見取り図じゃん」きたがわ翔回の言う通り。絶望を越えて創造する人間讃歌を持てる気がしない私。

二周目は感情移入を抑えて、アニメ制作寄りの視点強めで観ることにした。
「見取り図じゃん」きたがわ翔回の影響かもしれない。
子供にも分かる大衆娯楽と、それ以外の違いはもうちょっと整理したい。
 
 
岡田斗司夫は再生数に忖度し過ぎで、
ドストエフスキー的知性必要な作品鑑賞は、脳の柔らかい内でないと、
手遅れだと思う。感動は多感なうちにしておくもの。
 
 大衆娯楽は大衆のモノでも、そうでないなら大衆のモノでない。
 他人のものを自分のモノだと思うのは泥棒。
 その分別が天動説じゃないのか?
くらいも言えないのは、岡田斗司夫の晩年の方がカッコ悪く映る。
どう生きることもできるけど、嫌われる勇気は大切にしたい。 
 
 
繁華街まで外出する用があって、暑さにヘバるので老い感じる。
映画館で涼むことにしたが、観たいのなくて二周目。
 
分かる分からない問題については、も一度整理しておきたい。
 ・吉野源三郎の内容理解は事前に必要ではある。テーマ的に。
  俯瞰的メタ認知力と大人の分別、自己決定権の大切さ、善なる人生を選ぶ。

 ・鑑賞のリテラシーを8歳→18歳くらいに既存から引き上げた。
  これは悪意を含む。意図的にアニメ制作を取り巻く現実の提示。

 ・大衆娯楽(勧善懲悪、謎解き、サプライズ、ホラー、お涙、アクション、etc)と違う刺激。
  鑑賞後感(そこに人生がある)。テーマと抽象表現である必然。
 

見取り図だけに、絵に関わるときは面白い。


Eテレにならないよう、盛山がバランスよく笑い取りにいって、
絵に造形の深いゲストを呼ぶ。
USP大事なのでその路線伸ばして欲しい。
 
 
コンテンツの鑑賞がファストな消費になる時代背景に触れながら、
「One Piece」は過剰に分かり易い表情で喜怒哀楽を表現する。
今だと、
せつない表情描いて、”せつない” と書かないと伝わらない。 

昔は豊かな時代だから、スロー思考も可。
あだち充のスカした表現、校舎に雨で悲しみを表す映画的心情表現が通用した。
 
「マンガ夜話」でも取り上げられた、木根君の完投勝利の演出。
 盛山はあだち充の表情の画力に言及してたが、
 木根君のテンパった表情にも触れて欲しかったな。
 ”余力残してんじゃねーよ” からの表面張力限界な顔。
 
「One Piece」くらい過剰に分かりやすくやられると、
逆にそのベタさに引いてしまい、感情移入できないんだよなぁ。
予定調和にも飽きてしまう。
ま、ターゲティングの問題だろうけど。
駄菓子屋の「ジュースの素」の人工的な甘さが今はムリ。 
珈琲が苦くてブラックで飲めない昔には、もう戻れない。
 
そこに、「バキ」。
顔面でも、過剰な筋肉。
テレもなく、振り切った表現主義。
客への媚びを感じないからカタルシスがあるのかな。
振り切った主観に痛快さがあって、
想像を超えて欲しい欲求を満たしてくれる。
逆に着地を計算されてしまうと萎えるし。
 
 
ああ「バキ」といえば、「呪術廻戦」2期アマプラで観ちゃった。
伏黒パパは範馬勇次郎なのか。
カカシ先生は流石に分かるが、今日まで気づかんかった。
カリオストロ伯のインコしか分からんのと同じだ。
 
回想は何処も媚びやすいけど、ちょっとね。感心しない。
 高校生の発想があまちゃんなのはヨシとしても、
 大事な任務で組織が無能すぎる。
 そこは、 
 ”監視体制の盲点を突かれて、高校生の甘さが露呈” を丁寧にやらないと。
 後出しジャンケンのご都合を脱臭できない。

編集部に要求されて無理に作った、ジャンプモデルの典型的主人公が脇に置かれ、
群像劇で、描きたいキャラ自由に描けるようになった。
人気出てよかったね。相当揉めたらしいけど、呪縛からの解放。
一方、
漫画家は豪邸建つことあるけど、アニメータは辛い。
 
やっぱ権利関係押さえんと、ビジネスモデル的にキツイ。
昔のように、純粋に”子供向け”という魚は減った。もう「ハイジ」は描けない。
食べてゆくには、漫画原作が主流。大人な子供も楽しめるもの。
うーん、
アニメオリヂナル作品はレア。著作権の専有も難しい。
 
   
・鑑賞のリテラシーを8歳→18歳くらいに既存から引き上げた。
 教養というより、リテラシーという方が適切か。
 いわゆる ”行間を読む” 的な受け手の能力。
 そこに敢えて正解は提示せず、委ねる。

 世界には正解があり、かつ、そこに早くたどり着くことが偉いと、
 学校卒業しても洗脳され続けている。アニメばかり見てたらバカになる。
 山下達郎の中森明菜へのバッシングは不当で、
 解釈は受け手のモノ。泥棒になってはいけない。モラルの一線は守ろう。
 
 客に委ねる余地が大きい方が表現の自由度は上がる。
 簡単に言語化できること以外も伝わる。可能性が上がる。
 どんだけCGにお金掛けても、
 ベタばかりじゃ表現としてひもじい。大人の鑑賞に耐えない。
 
 もともとは、家族連れをターゲットとして、
 ”子供にも分かる” よう作られてる。絵本のように。
 その前提で観ようとして、
 文学やられたら、
 受け手のリテラシーが問われるのは必然。
 
 松山千春が昔言ってたように、
 小室哲哉ばかり聴いて育ってはバカになる。
 阿久悠とかも無理じゃないかなぁ。
 
 個人的には、
 ”行間を読む” 的なリテラシーが、
 成人してから能力伸びるとは思えない。
 もちろん、
 そんな能力はかけっこが速いのと似たようなもので、
 無くてもどうとでも生きられるし、特殊に伸ばす人も居る。
 資質と若い内の経験。それ次第と思える。
 高校卒業後に鈍足の100mのタイム上げようとしてもねぇ。私は無理。
  
 鑑賞のリテラシーとしての対象年齢を作り手は勝手に上げている。
 それは素直に認めましょう。
 
 ”分からない” のは、要求されるリテラシーが見合ってないから。
 
 事前に告知しないのは騙し討ち。だと訴えることは可能だけど、
 作品の良し悪しとは別の話題。
 岡田斗司夫は歯切れ悪いなぁ。 
  
 
敢えて、御大自らやってみせて、現実突きつける。
それでもエールを送るその、純粋かつ強靭な精神に感嘆してしまう。
オレなら絶対やだ、
いつもハンバーガーとポテトの客に、心血注いだ一品出すのか。。 
それも含めて、自己決定権なのだけど。
クリエータはどう生きるのか。

チャネルは自前で持てるし、
テクノロジーが進歩して製造コストが下がれば、
自在にのびのび領域展開できる時代が来るのかな。
   
作中で描かれるように(受け取れる)、
電通とか日テレとか、
委員会のステークホルダーの要求も無理難題で大変。
クリエータの良心に反する。
好きに作りたければ、資本は自力解決しかないのかな。

こんだけ言ってた人が、特定の問題だと歯切れ悪い。
再生数至上主義的な地獄味を感じる。
逃げてんのは、君の晩年のどう生きるかの方。
   
 
  
”分からない” → ”つまらない” は受け手の自由。
”分からない” → ”つまらない” → ”駄作” の三段論法は不当。
 
そこは一線引かないと評論たり得ない。
”今は分からなくても” という話じゃないよ。
 
頭の柔らかいうちに、
いわゆる ”行間を読む”というリテラシーを獲得しておかないと、
歳とってからは無理ゲーじゃね。
 

逆に、
映画が大衆娯楽オンリーになるのは、勘弁して欲しい。
わざわざ足を運んで、二時間閉じ込められる楽しみなのだから、
ファストなものは配信でいいじゃん。
沈黙のパレード」とか。客に媚び過ぎの正解示されても、
TV的資本主義の地獄を映画で味わうのは、可処分時間が辛い。
左巻きなこと言って、のうのう電気消費する人は嫌いだけど、
映画は映画的なものが生きて行ける楽園は残るかな。
子供向けのアニメ大家が、
最後に対象年齢上げて賛否受けるのは希望だけど。 
 
 
それと、表現以外にもジャンルの違いも、対象年齢変えてる。
・大衆娯楽(勧善懲悪、謎解き、サプライズ、ホラー、お涙、アクション、etc)と違う刺激。
 もうちょっと深いとこまで届く感動と、
 わりと魂から遠い、手前で味わえる楽しみ。
 阿刀田高の例は自分にとって分かりやすい例えなのだか、
 単に、どんでん返しを楽しむだけの娯楽から、
 ”そこに人生がある” という別の感慨を読後に残す。
 知らないうちに、大人の階段登らせてくれていた。

 もっと簡単な例だと、ジョジョ読んだ後に、MCU観ると、
 内部対立の葛藤のときは耐えるのだけど、
 悪役が記号でギミックだけの薄っぺらさが気になる。
 宮崎駿なら手塚治虫を批判してしまう。
  
 第二部で、悪役の方が正々堂々と戦うのは新鮮だった。
  静かに暮らしたい性的異常なシリアルキラー、
  劣悪な環境で育ち二重人格者として能力獲得したヤクザ、
  人類を苦しみから救おうとするアレな宗教者、
  国益最優先の愛国精神あふれる政治指導者、
 マーベルもうちょっと、敵のキャラクタ真面目に造形しろよ。
 敵役に魅力ないと、娯楽でも興味の持続は辛い。
 
 宮崎駿の創造の核には、吉野源三郎が居て、
  善くあること、
  クリエータの良心は手放さない自由意志。
 が刻まれているので、
 今までも、子供向けに作るけど、
 大衆娯楽以上の感動も伝えようとしたのだろう。だから、
 最後に、
 クリエータとしてどう生きるかを、問わざるを得なかった。 
 今回、
 スペクタクルを煽る演出が控えめに感じたのは、偶然でないかも。
  
 「カラマゾフの兄弟」は娯楽としても面白い。ドキドキわくわくした。
 でも、
 それだけじゃないテーマと感動を高校時代受け取ったと思う。
 歳取った今は、ロシア史やキリスト教の概念も、当時よりは詳しい。はず。
 だけど、
 感受性が衰える前に、
 脳がいろんな刺激受け取っておいた方が、有効。
 多少背伸びしても。
 青い内じゃないと、受け取れなくなるものがある。 
 
  
怪物」観て、
是枝パートの「銀河鉄道の夜」的な詩情は受け取らず、
坂元パートの謎解きだけ楽しむのは、
トロを捨ててマグロ食べるようなものと思うが、
嗜好に合わないなら仕方ない。
けど、それはやっぱり、手遅れということだと判定する。
  
で、
それに媚びてばかりでは、良心が痛むよなぁ。
クリエータなら、マーケットイン100%でなく、プロダクトアウトしてみたい。 
  
 
・吉野源三郎の内容理解は事前に必要ではある。テーマ的に。
 メタ認知の向上が大人の階段、分別というもの。
 自由意志を失わず人間として自己決定を大切に。
 それらを踏まえて善く生きよう。自由だけど。
 
 そんなテーマ性を前提にしないで受け取るのは、そりゃ難しい。
 作品を楽しむため、
  事前に「君たちはどう生きるか」を予習する人、
  既に読んでる人(漫画でも、あっちゃんの動画でも)、
  知らなくても、勘がいい人、

 どれかである必要はあると思う。大人は説明してくれないから。
 その不親切を批判することは可能だけど、
 まあ、テーマが大人の階段だと尚更ねぇ。
 
 
 少年の成長を先に見せる、
 俯瞰して相手の立場も慮れるのが大人。
 メタ認知力が向上してこその分別。
 
 分からないから駄作というのは、天動説か地動説か、
 ガリレオが地球は回ってると訴えても、聞く耳は貸さないだろう。

 そういう見方するのは止めようとは思っても、
  帆船の列はワンピースに見えてしまう。
  地獄では時間が進まないのか、成長はないのか、
  成長の途中で運悪く、
  子供向けクリエータに捕まると大人に転生できない。
 
 困難な時代を生きる世代へのエール。
 人生を肯定できる自己決定、(自分にとっての)善く生きるとは。

 クリエータとしては、
 ドストエフスキー的作品鑑賞する時間を、子供向け良作に可処分時間を当てたかも。
 それでも、良心を貫き精一杯創造したし、人生に悔いなし。
 
どう受け取るも自由で、正解はないけど、
稀代の老人の最後の挨拶を聞けて、満足。
2時間費やして何も受け取れなくなくて、自分の人生を肯定しそうになる。 
 
 
まあ、個人的には6割方、米津玄師で感動したのだが、
解説してくれる人が希少。

コードが地球儀のように回るということくらいしか、分からん。

 パイプオルガン的始まりと、ピアンのシンプルな和音は、
 神様の音楽っぽい。ジャズやロックだとこうはいかない。
  
 フレーズの間隔を大きくとるのは、行間を読む作品だからか、
 言葉を磨いて、引き算の演出。
  
 らせん階段を登るように、人生を振り返る伴奏。
 テーマに合わせてきてる。

ちょっとさみしいけど、爽やかなグルーブ。
ちょっと、神がかった出来だと思うのだが、
もっと、いろんな音楽家に解説して欲しいなあ。カバーばかりでなく。
 
 
やはり、二回目も、
自分の引退に際して、こんな境地になれるかなと、
どう生きた結果でも、肯定できるかな。

誰も分かってくれなかったけど、
皆さんは良くしてくれた。
最後に握手をしよう。ひとりづつ。

かくありたいとは、願う。
 

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