2023年の映画「TATAMI」トランプ政権発足のトタンに公開。貴闘力と為末大でアスリートの予習。「損切りの一番やさしい教科書」で”見切り千両”の復習。

あまり入ってないようなので、これは行かねば。と予約しました。
 
東京国際映画祭で主要2冠、しかも柔道の映画。内容の評判も良い。
にも関わらず、一年経ってからの公開とは解せません。
 
バイデン政権中は、イラン現ハメネイ体制への批判は、
憚られたのか? と勘ぐってしまいます。
同時期の反イラン映画の公開も、日本の世論形成に一役買うのかと、
妄想してしまいましたが、そんな影響力は無いか。
 
もちろん、
イスラム法学者に政治・経済の舵取りされても、される方は不幸になるだけだと、
思ってますよ。前から。
とはいえ、今まで何も言わず、
ここに来て急にハメネイ体制の人権弾圧を問題視する人たちに懐疑的で、
プロパガンダがキツイかと、逆に鑑賞を躊躇していました。
でもまあ、
そんなこと関係なく、世界は回っているかと、思い直しました。  
  
直近、イラン情勢にも若干の動きがあり。
トランプvsゼレンスキーはプロレスのようで、
イランへの圧力に、プーチン大統領を引っ張り出すことに成功しました。
ウクライナはアメリカとの鉱物契約に合意の意向を伝えたそうです)
ハマスの人質解放にも動きあるかもしれず、
やはりトランプ政権で、ウクライナだけでなくイランとの交渉も始まり、
ライシ前大統領時代の空気感も変わる可能性も予感させます。
折角の公開ですから、時代が転換する前にさっさと観ることにしました。 
 
予習は柔道関係以外は、「聖なるイチジクの種」で済として。
モデルとなった、モラエイ選手の件。

「戦うな」圧力を受けて国を出て 元イラン代表のモラエイが銀メダル

東京五輪の会場、日本武道館で行われた2019年8月の世界選手権だった。モラエイはイラン代表で出場したが、イスラエル選手との対戦を巡って国から出場を辞退するよう圧力をかけられた。代表関係者から「家族の自宅には治安部隊がいるぞ」と脅され、イランのスポーツ大臣からも「これは法律。従わなければ問題を抱える」と電話で迫られたなどとされる。
しかし、モラエイは抵抗した。3位決定戦で敗れてメダルに届かなかったが、最後まで試合を全う。大会後に安全確保のため渡航したドイツで難民の認定を受けた。19年12月にはモンゴルで国籍を取得し、東京五輪をめざした。
迎えた日本代表の永瀬貴規との決勝。延長の末、永瀬の技に耐えきれずに倒れた。それでも五輪で初のメダル。
「家族とは2年間も会えていない。テレビで見ていてくれているかな。メダルを見せられる日を望んでいます」

イランの女性人権問題を足してますから、”Based on”は言い過ぎですけど、
反イスラエルの立場からスポーツへの政治介入は、映画そのまま。
 
スポートにおけるイスラエル・ボイコットについて、

イスラエルのスポーツ選手との対戦拒否、及びその結果生じる様々な形での失格行為のことをいう。イスラエルのスポーツ選手は個人、団体を問わず、中東戦争の影響により、いくつかの競技大会から締め出されてきた。イスラエルが参加したオリンピックを含む数多くの国際競技大会においても、アラブ人やイスラム教徒の選手から対戦を避けられている[1]。いくつかの国は自国の選手に対して、イスラエルの選手との対戦拒否や、イスラエル国内で開催される大会への不参加を強いてさえいる。イスラエルはアジアに位置しているが、中東アジア諸国が特に強硬なのでイスラエルは各競技の大陸競技連盟もアジアではなくヨーロッパのものに加盟している場合が多い。しかしながら、2019年5月にボイコットの中心的な勢力だったイランが、長年に渡るイスラエルとの対戦拒否の姿勢に変更を加えることを表明したと、国際柔道連盟 (IJF) 側は説明した[2][3]。これに対して、イラン側はIJFの発表を否定した[4][5]。

これは宗教ではなく、政治問題だと私は理解してます。
(”イスラエルを国家として認めない”
 とイスラムの聖典に明記あるなら、御指摘いただきたい)
サッカーだとイスラエルは敢えてヨーロッパ枠で、かつ本戦まで届かず。
一方、イラン、イラク、サウジは日本と予選を争うので、分かりやすい。
柔道の場合、
イランにもイスラエルにも強豪がいて、世界レベルの大会となると当たる可能性がある。
かつ、柔道の世界大会が日本で開催されることも多いので、
そのようなニュースに触れることもあります。
この問題の対応を日本は、
IJFに任せきりですが、IJFはイランに強い態度を示して来ました
日本の反応で異を唱えたいのは、
モスクワオリンピックの山下や高田や瀬古は明確に記憶にあり、
”日本は政治のスポーツ介入が無く、遠い国の問題”だと楽観する気にはなりません。
それはさておき、
政治的理由で堂々と拒否し、堂々と処罰されればいいのに、
姑息に言い逃れようとするイラン政府の態度には反感を抱いています。
その上で、
帰属する組織の方針が受け入れられないなら、個人として帰属を断念するより無い。
(日本では、「星野君の二塁打」でも顕著ですけど、
 権力を拒否する正当な方法について語られることは稀で、”和を以て尊しと成す”ばかり) 
こんな命がけではないですが、私だって覚悟を決めたことは何度かあります。 
そういう決断を迫られることはあります。恐らく誰にでも。 

個人の問題ではなく、帰属先の体質ということは、誰にでもあります。
 
更に、 
イスラエルとイランの共作というだけでなく、
製作者は日本の武道である柔道に敬意を持っている。
「柔道は他のスポーツとは一線を画すものです」

「これは柔道の物語です。レスリングと柔道は全く別のものです。その厳格さにおいて、他のスポーツとは一線を画しています」

ならば、なおのこと、
ハメネイ体制による、女性の人権弾圧の話を混ぜるのは賛成出来ず。
己の心技体を磨く精神と、帰属する理不尽な組織との葛藤を描いて欲しい。
この問題を違う意味で、政治利用して欲しくはないと思っていました。
 
もっと更に、
アスリートとしての心掛けは、もうちょっと学びました。

自己成長に繋がる部分があるとすれば、綺麗事の成果でなく、
結果を個人の責任で、受け入れざるを得ない残酷さのお陰。
一方で、パブリックなものを背負うことは、プラスとは言い切れない。

名もなき者」でも、パブリック・イメージとの距離感が問われていました。
個人のプロデュース力で路線変更に成功するのは、稀有な例。
 
 
それから寒空を歩き、鑑賞。
 この切迫した空気感は、本物しか醸し出せない。
 自分自身含め、なかなか接することの出来ないガチな覚悟。
これはやはり、貴重な体験でした。
薄暗い小屋に2時間閉じ込められる映画ならでは、
配信で観ては、体感半減かもしれませんね。 
 
撮影と編集には、驚嘆しました。よくぞ撮れたものだと。
 様々な制約があり、機材も手軽なものであったと想像されます。
 観客に、この緊張感を最後まで持続させた工夫は見事。
 カメラが動くのは酔うので苦手なのですが、驚きが勝ります。
 制作の背景を想像せず、工業製品のように質だけ論じる人も居ますが、
 (ex 予算規模を無視して、邦画よりハリウッドの映像が優れると言う) 
 私は全く賛同できません。小学生以下の思考力と思ってしまいます。
 本作は、知恵と工夫と覚悟の賜物です。
 インディーズ系の作品として観ています。
 監督の意図は置いて、モノクロームで情報量を減らしたのは、
 緊張感を盛り上げるのに有効に作用したと評価してます。
 カラーでリアルな余計なもの映らない方が良い。

和太鼓を使ってる音楽は話題だけど、普通かな。
 
演者さん達の体当たりは良き。
 柔道経験者でなくても、良き指導の元、訓練されているのが伝わります。
 何と言っても、国も家族も捨てても、この映画を作る。
 という覚悟はヒシヒシと伝わります。
 
女性の人権弾圧の件は程よく抑え、物語と調和していたのですが、
ストーリーには、それでも疑問も残り。
 様々な事情を考慮出来ない小学生並みの思考に、
 私が陥ってる可能性も高いけど、観て気になった処を記します。
 コーチの話は不要では?
  コーチの経緯を深堀りしたり、亡命させたりは、視点がブレる。
  ドラマとしては、
   それまで政府の意向に従ってきたコーチは、
   選手に同情するものの、今回も圧力に屈し、棄権を促す。
   が、選手は従わず、コーチは監督責任を問われたまま帰国。
  として、対比的に描くもんじゃないのそこは。
  そもそも現実でも、柔道にセコンドは不要。と不満だった。
   己の心技体を頼みに畳に上るのだから、独りで戦えよ。
   ギャーギャー指導者が言う姿は邪魔だし、醜い。
  特に、コーチを善玉に仕立てる必要も無いし、悪手に見えた。
 無理にハッピーエンドにしなくても、
  史実に忠実でいい。
  モラエイ選手が現実に家族に会えていないのであれば、
  フィクションもそれに倣えばいい。
  家族と再会できた姿を描くのは、逆に無責任に見えてしまった。
  
聖なるイチジクの種」と同じような鑑賞後感になるかと想いきや、
 パブリック・イメージを背負わされた個人、
 修行に励む個人と体質がアレな組織、についての感慨が残りました。
意外にも、
イランの国内事情より、自分の経験を優先的に思い出しました。
疑問を感じざるを得ない組織に属したこともある。
 
日本の場合、
フジテレビのような組織が連日報道されても、
 組織を立て直すとか、
 個人の方に問題とか、
そっち方面にベクトルが振れガチで、
個人側の戦略や優位性ある思考はあまり見かけない。
ボブ・ディランは稀有なお手本と改めて心に沁みます。
実際、
組織を離脱したくらいでは餓死しない豊かな社会に居るのだから、
自分が腐るリスクを恐れ、サッサと損切りした方が賢明に見えます。
家族を監禁されるような圧力は稀でしょうから。
 
辞められない理由を探すより、
辞めても食べていけるよう知恵を絞る。べきでしたね。
”諦めない心”を説く人に、掃いて捨てるほど出会えましたが、
見切り千両を学ぶには、
多額の授業料を支払う人生になってしまいました。
あっさり手放せばよかった。
子供を人質に取られる訳でもないのだし。 
 
 
反省ついでに購入。

基本を学び直すには良書↑。
本能に抗うものだから、予めルール極めが重要。
そして、自らのルールに従う理性。

人間は損切りができない生きものです。
これは、目先の損を嫌う人間の「本能」が作用しており、ほとんどの人にあてはまります。
株式投資ではよく「9割が退場し、残りの1割が利益を得ている」という言葉が使われますが、
1割にあたる人は、なぜ投資の世界で生き残り、かつ利益を得られているのでしょうか。
その一番の理由は「売買にルールがあるから」です。

損切りできない人は共通して「損切りしない理由」を探すからです。
要は、それまでまったく意識してこなかった根拠をこじつけて、損切りしなくてもよいと自分を誤魔化すのです。
これも意思が弱い・強いの問題ではなく、人間の「本能」からくるものなので、あらかじめ「そういうもの」だと理解して、ルールに沿うというしくみで欲望をコントロールするのが正解です。

投資は必ず負けることがある。まずはこの事実を受け入れ、負けをコントロールすることで、最終的に資産を増やすことができるのです。
-中略-
一つは「不利な場面での取引を減らす」方法です。
-中略-
もう一つは、損切り注文を駆使して損失額と純利益のバランスを調整し、損失額<利益額になるようにコントロールする方法です。

勝率が80%以上あれば、リスクリワードが1:1でも利益が出ますし、勝率が70%でもリスクリワード1:2でも十分利益を出すことが可能です。
あまり極端なリスクリワードを求めるよりも、取引の精度を上げることを重視すれば、精神的な余裕を持つことにつながります。

勝つべき局面では、キッチリ勝ち切る。 
勝てない可能性が高い場合は、勝負を避ける。
それでも全勝は無いと知り、
負けゲームなら損切りし、被害を最小限に負ける。 
生き残るために当たり前の心得ですが、
愚かな私は、
有害で耳触り良い”諦めない心”等の甘言に惑わされたりもしました。 
今は、覚悟を持って、
アッサリ見捨てる損切りが出来るように成れたでしょうか。
姿勢を正してくれるような映画でした。
  
 
2000年頃、耐用年数の切れた組織に帰属していました。
自分にサラリーマンは無理だと、観念した時期によく聴いてました。

その時が来たら、悲しくても、口づけしてお別れ。
  
  
2025.03.06 16:30現在
 アメリカの数字が良かったからか、
 トランプ関税の猶予が発表されたからか、
 そこまでポジティブとも言えないニュースで反発。
 売りポジションを調整。痛い。
 ただし、
 レジサポ転換は明確に見えて、下落終了の判断は早急過ぎる。
 売り買いほぼ同数で、雇用調整に備えることに相成った。

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