日本で、という限定は不要で、
映画が娯楽の王様だった時代の代表作。
大昔、TVで観て内容は知ってる。
フィルムの状態は、お世辞にも綺麗とは呼べなかった。
デジタルリマスターなら、スクリーンで観ておきたいとも思う。
確実に満足を得たいと思い、手堅い選択してしまった。
207分はコスパ良いのか、タイパ悪いのか、ともかく英断。
前列中央を選ぶ。ほぼ満席で詰んだな。
《 開演 》
これぞ大衆娯楽。これぞ王様。
大満足しつつ、
百聞は一見に如かず、
とにかく、
観るチャンスが有れば、スクリーンなら尚、観るのがオススメ。
TVが娯楽の中心になる前の、
戦後という時代にも思いを馳せました。
もうホメは枚挙に暇無く、裏話も多数。
今更、言うまでもないことは、極力言うまい。
それでも幾つか、心に残ることあり、
以下、感想など述べます。
1.架空の身分制度と戦後日本と自治独立
2.リアリティ、ディテール
3.浪人、農民それぞれの感情移入
4.膨大な制作資源と歩留まり
5.李牧のような軍師とジョン・フォード
6.籠城戦の兵糧、軍律、防衛ライン。と投影と東宝
有名過ぎる作品でもあり、ネタバレは気にしません。
Wikipediaは既読の前提で話します。
1.架空の身分制度と戦後日本と自治独立
TVで観た昔も違和感だったのですが、
身分制度の時代背景が歪んでいるのではないか?
身分制度が確立して、武士が官僚化してゆくのは、
天下泰平の世になってから。
数カ月前に鑑賞した、名作の誉れ高い「切腹」と比較してしまった。
世が治まれば、藩に出没する野盗を取り締まるのは大名の仕事。
村の自治が強くとも、任せっ放しは不自然過ぎる。
そもそも、
武家は貴族ではないので、地主と小作の関係ではなく。
年貢はヤクザの”ミカジメ料” 同様で、
それを払って、領民の安全と領地を守れないなら、存在価値は無い。
本作は、昭和29年公開。
憲法9条を押し戴いても、まだ戦後教育の洗脳は完了していない。みたい。
今と隔絶の感。
NHKは、ウクライナ人の発言を、勝利→平和と意訳し、
幕末を題材にした福田雄一の予告では、龍馬役が”平和の国”とのセリフ。
武装して自治独立がテーマでは、企画が通らない。だろう。
戦国時代の末期、天正年間の後期なら、本能寺の前後。
秀吉の刀狩りが、数年後なら。兵農分離は、そこまで進んでいないはず。
確かに、
乱世にあって、村の自治が強ければ、
浪人を傭兵に迎えることも有ったのだろう。
その時代、
仕官先を求める無職の浪人との間に、
どんな、身分の別が存在したのだろうか?
少なくとも本作が、
時代考証に忠実にあろうと意図したとは、到底思えない。
なんだか、歪んでるという違和感は、今回も昔と同様、それ以上。
うーん、、いろいろと、ごった煮だよなぁ。
帰宅後、知る。
トルストイを念頭に↓かよ。
どのくらいフィクションなのか、という解説も欲しいところ。
エピソード中心の動画や記事から想像するものの、
解説を探すと検索の多くは、あらすじの説明だった。
私には、
正確なことは分かりません。
本作の時代考証はテキトーと割り切ります。
終戦から9年、戦後復興から高度成長始まり、
農村から都市部に、多く人口が動態し、
その娯楽の中心に映画が在り。本作は居た。
ドンピシャで、共感される設定だった。と想像します。
ラストの志村喬のセリフ ”勝ったのは農民” は象徴的で、
現代より、当時の観客の共感は大きかったかと。
村オサが、
”村は自分達で守る” と言って、
傭兵が去って終劇とは、決して成らない。さすがに。
2.リアリティ、ディテール
因みに、時代だけでなく、
地理も分かりませんでした。東海地方あたりだとは思うけど。
訛りから、
西でも、日本海側でも、東北でもない。北関東とも違う。
言葉はバラバラで、地域が特定出来ない。
たとえ、
街道筋で往来が有ったとしても、
ヒントは呉れよ。
ロケ地は静岡中心か、まあ遠からず。
セリフが聞き取れないことは、鑑賞に支障無かったけれど、
地域は分からず、ヘンテコリンな印象を受けた。
更に、
季節も不思議で。
決着が着くのは田植え直前。新暦の4月から5月頃。
麦の二毛作なら6月か。ならば、
野盗共は、米収穫直後の秋は、何していたのだろうか?
春まで待つなら、
本作の野盗の会話を盗み聞きした前フリが、あんまり効いてない。
猶予が充分なら、
盗賊団の噂を隣の村で聞いたとかの方が良いかも。
リアリティを追求した作品と言われているけど、
時空がぐにゃぁと、歪んだ違和感を覚えることも有り。
リアルとリアリティは違う。
それはそれで構わない、
とにかく超特大の娯楽作として、面白いことが何より大事だし。
けど、
リアリズムでは決してない。写実でも、現実的でもない。
むしろ漫画的、アニメ的で、
手塚治虫のように、分かりやすく、ダイナミズムを追求してる。
(ということは、本来の映画的表現)
ディテールに拘ることと、写実はイコールではないので、
使う用語には注意を払いたい。
リアリティを追求した = 従来の時代劇の様式美と違う
という等式が、
単に成り立つだけなのかどうか、
回答を探すのだけど、、、
判然としませんでした。
私の解釈は、
リアリティを追求した = 観客に登場人物の実感を伝えること
なので、
本作、切られて血が吹き出たり、腕が跳んだりしませんが、
時空が歪んでいても、
役の心情に、感情移入させる工夫に富んでいる、と納得してます。
客の疑念を生むようなことは、徹底的に避けたいとの作劇。
大衆娯楽だからこそ、逆に甘え無し。
映画黄金時代を実感します。
歴史的大作と言われても、時代下って「地獄の黙示録」くらいになると、
ワンチームでは居られない、組織の腐敗を検知してしまう。
ま、アレはアレで特殊か。
でも、後に勝新も降板するのが、象徴的。
時代は変わる。
3.浪人、農民それぞれの感情移入
農民視点で、女性二人のサブストーリーを持ってきたのは上手いなぁ。
今回つくづく思いました。
ハリウッド映画の戦争被害なら、帰還兵モノで、
南北戦争は両軍カウントしてるのだから、
片方だけを上回っても、統計のマジックかと疑ってしまう。
とは言え、
民間の、特に女性の被害に焦点を当てるのは、
敗戦国であっても、特筆すべき娯楽映画。
悲劇と純愛っぽい男女を、対比的に描き、
結論に到着するまで、周到に準備されている。
純愛に父親が怒るのは、虫が良すぎる。
と観客も感情移入してしまう。
昔、TVでも感心したの憶えています。
この時期の日本は流石、娯楽でもカラいもんだ!
客に媚びず、
任期が終わると現地妻を置いて帰還。。
リメイクも同じく、そんな物語に従うと決めつけていました。
ところがハリウッドは、やはりベタに甘い。
TVで脱力してしまった。
そもそも、
浪人と農民の身分違いを、どう描くかは細心の注意事項で、
武具のエピソード ”落ち武者狩り” で立場の違いを分からせる。
(時空の歪みは、感じたけれど、明解!)
身分の中間に位置する三船敏郎は、
炎の水車の前で、赤子を抱き慟哭。
アート系ならセリフで説明しないところ、娯楽はそうは行かない。
たっぷりと演じさせる。デカい芝居が似合う。
(それは伝統芸的だと、観てたけどさ)
菊千代の名前の伏線回収でもあり、
7人の内、実は最後まで謎めいた人物の由来を、ここでタネ明かし。
人数多いのに、交通整理も巧みだな。
(同時に描くなら”7”が限界で、フォーマットここに成る)
桃太郎的リクルートの序盤から、順番に、簡潔に、
各キャラをプレゼン、
観客の心を離さない、周到な語り。
通常、連続モノでないので、
こんな尺の使い方は許して貰えない。
練りに練った妥協無い、時間も潤沢な脚本の成果を知る。
合戦のクライマックス前に、これだけ引っ張るのは、
作り手も怖いかと思うのだけど、
勇気と自信、やはり黄金期だとヒシヒシ。
4.膨大な制作資源と歩留まり
黄金時代としても、資本家とのチキンレースに勝利して手にした、
破格の制作だったのは周知としても、
観て改めて、つくづく贅沢な映画だと実感。
今じゃもう、
ギリギリアウトな無茶なアクションを演らせ、
とにかくスペクタクルは勢い優先。
現在なら、CGでなければ、
風景にしても、
セットにしても、
カツラや衣装にしても、
再現不可能だと思わせる映像撮を撮る。
リソースの物量も凄いが、
労働環境もブラックで、
一昔前のインドでも斯くや、と思うほど豪華。
中でも、編集の歩留まりは悪そう。
おそらく、
あの尺の長さでも、要らないと思えば、バンバン切ってる。
シャトーブリアンの周りの肉を削ぐようにゴージャス。
庵野秀明のカメラいっぱいの、
元ネタは黒澤明だろうけど、
当時はデジタルでなくフィルムで、しかも命懸けのショット多数。
それでも、
映像よりも、お話優先で切ってる。はず。
逆に、時代変わって良かったな。とも思うのだけど、
スピルバーグとか、イーストウッドとか、北野武とか。
割り切り良く、画が頭の中で見えてから、サッサと撮るタイプの監督なら、
3本くらい作れそう。
5.李牧のような軍師とジョン・フォード
カンベエと名を冠する志村喬の軍師ぶりは、
「キングダム」の李牧を参考にしてるのかな。
匈奴殲滅作戦は、
誘い込んで、おびき寄せて、伏兵が突く。一騎づつ叩く。
規模は全然違うけれど、
黒澤監督は、念頭に、万里の長城を描いてたかも。
身分制度に関するリアリティは、ごった煮に見えて時空が歪むけど、
いくさの方が、シンプルで兵法に則った戦い方と納得させられる。
ま、
野盗側にリアルを追求したら、
守備固められた村を襲うより、無防備な部落探しそうだし、
防壁築かれる前に攻めなきゃダメだと思うけど。
騎兵が無理で、有効なのは飛び道具だけと分かっても、
全滅するまで戦っちゃうところが、
逆にリアルなのか。
いやいや、それじゃ作劇が成立しないし。
敵の描き方は、ジョン・フォード。
”インディアンは何故、馬を狙わず、人ばかり狙うんですか?”
と訊かれて、
”映画が終わっちゃう”と、巨匠が答える。
本来、地味な籠城戦に、ハラハラドキドキのフォーマットを採用。
ダイナミズムを生む。
ランチェスター戦略に適う作戦と、
映画お手本どおりの創り。
身分の描き方より、決戦は綺麗に決まったと観ていました。
映画は馬だな。
6.籠城戦の兵糧、軍律、防衛ライン。と投影と東宝
麦の収穫を丁寧に描いて、兵糧の心配が無いことを示す。
敵が先にショートしそう。
これは、
資本家とのチキンレースに勝つ制作陣のことか。
雨の決戦のラストシーンは撮影も最後に回し、人質に取った。
撮影が遅延し、費用が嵩んでも、
追加の援助を待つ。
志村喬に投影の監督と、助監督はじめスタッフが傭兵。
勝ったのは東宝。
討った敵の数を”正の字”で加算するでなく、
消化分だけ✘は、士気が高まる。進捗が分かる。
一向に終わらなくても、
逆算がスケジュール管理の基本。ワンチームで達成に向かう。
敵を誘い込み、いざ防壁のラインの前で戦うと、
ヤラなければ、ヤラれると、義務も責任もヤリ甲斐も生まれる。
報酬も当時としては、破格だったらしいけど、
黒澤監督は、人心掌握も巧みだったのだろう。
畏れられただけでもなく、慕われただけでもなく。
冷徹にも、目的を遂行出来た。
非情な防衛ラインを示すのは、作劇としての見どころだけでなく、
実際の制作で、そんなこと幾つも有ったのだろう。
命懸けのシーンをカットするのも、その一つかもしれない。

逆に、死守するものが明確だからこそ、
ワンチームを運営し続けられたのか。
また君主は、真の味方あるいは真の敵になるとき、
つまり、
一方に味方し他方に敵対するという姿勢を明確に打ち出すことで人々から尊敬される。
それは、中立の態度をとるよりずっといい結果を招く。
例えば石破さんは、
人望を失いつつも、最後はリベラル全振りで総理の椅子を掴んだと言えるかも。
このように、味方でない者が中立を要求してきたり、
味方の側が武器をもって立ちあがれと迫ってきたりすることは、いつでも起こりうる。
そのとき、決断力に欠ける君主は、当面の危機を回避しようとして中立の道を選ぶことが多い。
すると、ほとんどの君主が滅んでいく。
「羅生門」、
「生きる」の後でも、
慢心せず、情熱を燃やせた。当に黄金期。
君主は、一芸に秀でた者を尊敬し、
自らが才能のある人物を愛する者であることを示さなければならない。
市民たちが、商業であれ、農業であれ、そのほかどんな職業であれ、
各自が安心して仕事に従事できるように励まさなければならない。
彼らが、君主に取り上げられることを恐れて、
自分たちの財産を目立たなくさせたり、
重税怖さに取引を差し控えたりしないよう配慮しなければならない。
ほかにも、殊勝な心がけの者や、
自分の都市や国家をなんとかして繁栄させたいと考えている人たちには褒賞を準備すべきである。
良き側近に囲まれ、チーム運営の要諦を間違わなかった。
序盤は、人材登用を描き、スタッフを固める。
人を見る目で間違わない。適材適所。
その上で信頼も得る。
加えて、一年の適当な時期に祭りや催しを行って、
民衆の心を夢中にさせることも重要だ。
どんな都市も同業組合や地区に分かれているので、
それぞれの集団について考え、時にはその会合に自ら参加し、
豊かな人間性と度量の広さを示すべきである。
それでいて君主としての威厳はつねに保ち、
けっして損なわれることがないようにしなければならない。
ラストの田植えは、
皆が喜びに沸く。ブラックでも充分な報酬を得たはず。
世界的な名誉への参加は、今よりもずっと大きな勲章。
ダメージも受けつつ、
晴れやかに黒澤組は去ってゆく。
一時期の低迷に比べたら、
日本映画に、ワンチームの熱量とリソースが戻って来てると感じます。
現在は、
TVの時代から配信になって、
ハリウッドも壊れた。
漫画アニメの隆盛も大きい。
それは、すべて追い風に成りましたね。
小規模の作品と映画館は、依然と厳しいのかなぁ。
”吉本は自前の劇場持ってるから強い” 的な。
「JUNK WORLD」ですらTOHOシネマズで観てるんだもの。
それでも、
今後も、自主の神話も期待してます。
「侍タイムスリッパー」のような。
是非小さき者の戦い方で、生き延びて欲しい。
音楽のギャラは、相場の3倍以上だったらしい。
勇壮なマーチかと思うと、日本的なムード。
2025.10.29 15:30現在
すみません。どうにも買えませんでした。敗北。
アメリカハイテク株高を受け、未体験ゾーンに突入ですね。
勇気有る人に、勝利の女神は微笑むのですね。
